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札幌・恵庭・千歳・江別の石材店 丸五石材工業

本家と分家のお正月

「年始の挨拶」というものを最近はあまり見なくなってきたが

以前は、正月の朝に、お世話になっている人々に

新しい年もくれぐれもよろしくお願いしますと出向く光景が多く見られた

 

地方によっては、身内以外の人々の家に正月早々に突然訪問することを憚られる傾向もあるが

本家を守っている家などでは、現在も分家や、仕事上の交際相手が訪問してくることを前提として、祝い酒や、もてなしの料理を不足なく用意している家も見られる

 

しかし、正月はあくまでも「内で祝うもの」として

身内以外への年始の挨拶は、3月中に終わらせておくのが良いとか

場合によっては、6月までには一度は訪問しておくのが礼儀である…など

年始の挨拶は、元旦に限ったことではなく

年が明けて、最初の訪問日を「年始の挨拶」と解釈する風習もあるのである

 

四国の中央の山地のかなり広い地域では

「本家への年頭礼」を「かど明け」と名付けて

一家一統の厳重な作法としている場所もある

 

同じ風習は、ほかの地域でも見られ

元旦の早朝(おそらく日の出前)に分家のものが本家に出向き

本家の表の戸を開く風習を「門明け(かどあけ)」と呼ぶ場合がある

これは、初春の神を本家に招き入れる意味があったようだ

 

近年では、その後に本家が分家に出向き

門を開けにいく地域もあるようだが

これは、本家、分家の交際を「七分三分にしよう」という考えで

改良された、比較的新しい風習のようである

 

しかし、本家の者の訪問は

分家の訪問の後になっていたようなので

本家に開けてもらうまで、門を開けずに待っていたのでは

あまりに時間が遅すぎるように思われるので

この風習は、形上のものであって

本質は、両家で行き来して、祝い酒を酌み交わすのが

「門明け」の正体になっていき

だんだんと、その名に沿った行動がなくなり

名前だけが残るので、なんとも不明な感じは否めなくなる

 

長野の方では、分家のものが注連縄を持参し

本家の神棚に張り渡すことを「門開き」と呼んでいた

正月の飾りは、大晦日に飾ることを「一夜松」と呼んで嫌う風習もあるので

正月の、2、3日前には飾ることを考えると

この場合の「門開き」は、正月ではなく、年末の行事として捉える方が自然である

大国主神の国譲り③

出雲の稲佐の浜で、大国主神の前に建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)ガ現れた。

建御雷之男神は、高天原にいる天照大御神と高御産巣日神から送りこまれた
三番目の使者である。
この建御雷之男神は、かなり強力な武神で
剣の柄を海面に刺して、刃の先に胡坐をかいて座り
大国主神に向かって言った
「地上は天照大御神と高御産巣日神の命で、高天原の御子が治めることになった。国を譲る気持ちはあるか?」と。

大国主神は、美保関の岬にいる事代主神(コトシロヌシノカミ)を呼んで意見をきいた。
事代主神は献上することを認めた。

しかし事代主神はそのあと、天の逆手を打ち
自分の船を転覆させて柴垣に変化させて
その中に隠れてしまった。

この事代主神の行動に関しては諸説あるのだが
天の逆手という方法は、呪術的な柏手のやり方で
本当は献上をしたくない事代主神が、柴垣に籠ることで
無言の抵抗をしたのではないか…という説もある。

大国主神と建御雷之男神が出雲の稲佐の浜で向き合って交渉しているところへ
大きな岩を指で弄びながら大国主神の子である建御名方神(タケミナカタノカミ)が現れた。
建御名方神は、献上に反対していた。
そこで建御名方神は、建御雷之男神よりも自分の方が強いと信じ
建御雷之男神に力比べを申し出た。

最初に建御名方神が建御雷之男神の手首をつかんだ
しかし建御雷之男神は、その腕を水に変化させて
その次に剣に変化させたので
建御名方神は恐ろしくなり手を放してしまった。

次は、建御雷之男神の攻撃の番となったが
建御名方神の手を握ったとたん簡単に握りつぶしてしまった。

負けを悟った建御名方神は逃走してしまった。

建御雷之男神は逃げた建御名方神を長野県の諏訪湖まで追い詰めて
建御名方神を殺そうとしたが
建御名方神は必死に命乞いをして
諏訪から生涯一歩も出ないことを誓って
地上の世界を献上することを約束した。

建御名方神を諏訪で祀っているのが諏訪大社である
この諏訪大社は全国で五千社の分社数を誇る神社となった。

その理由は
建御名方神は国譲りでは敗れてしまったが
平安時代には東国の武神として
鎌倉時代には北条氏が後ろ盾となり
武士の守護神として各地に勧請されることになったことによる。

大国主神の国譲り②

「大国主神が築いた地上の世界は、天照の子である天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)が治めるべきである」
と、高天原にいた天照大御神と高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)は宣言した。

大国主神は天照大御神の弟の須佐之男命の子孫であるが
本来ならば、地上は高天原の直径が支配するものであるとの考えから宣言がなされた

天照大御神と高御産巣日神は天忍穂耳命を地上に送ったが
地上は乱れていて、騒がしいと言い
天と地をつなぐ天の浮橋まで行って戻ってきてしまった
そのままでは、天忍穂耳命が地上に行き、地上の世界を治めることができない
そこで天照大御神と高御産巣日神は、天上にいる神々を集めて
地上の乱れを静めるために誰を派遣するか話し合いの場が設けられた

その結果、天上界の最高神から任命されて
その最高神の系譜である天皇が地上に君臨することになった

この場面が古事記の中でも最重要項目であり
古事記を編集するにいたった最大の目的は
この天皇が最高神から任命されて地上界を任せられているという
王権の正当性…説得力のためであると考えられているからである

地上の乱れた神々を服従させるために
天照大御神の二男で、天忍穂耳命の弟である天菩比神(アメノホヒノカミ)が派遣されることになった
しかし天菩比神は、その使命を忘れ大国主神に媚びていた

ちなみにこの天菩比神は出雲国造家の祖先とされている
出雲国造家は代々出雲大社の宮司となり、それは現在も続いているという
現在の宮司は千家尊祐氏で84代目となっている

天菩比神に続いて派遣されたのが天若日子(アメノワカヒコ)である。
この天若日子は野心家で、地上支配のために大国主神の娘を娶った

高天原は天若日子の様子を探るために
雉の鳴女(ナキメ)を地上に派遣した
しかし天若日子は弓矢で鳴女を射殺してしまった

その矢は鳴女を貫き
高天原まで届いた
それを拾った高御産巣日神は
地上に投げ返す
「もし、天若日子に邪心が無いならば当たるはずがない」と

しかしその矢は天若日子に当たってしまい
天若日子は天罰が下り絶命してしまうことになり
天若日子の野望も消えてしまったのだ

多様化する死後

ここ最近、散骨希望者が増えているという

自分の死後、墓に埋葬することなく

骨は、粉砕して海や山に散骨する…

 

故郷の海に蒔いて欲しい…

誰にも迷惑をかけたくない…

 

その思いは様々だ

 

墓を持たない選択は

自分の死後、子孫がお世話に来てくれない不安や

その墓を守るという負担を軽減させたい

身寄りがいないので、無縁仏になるくらいなら散骨して自然に返る方がいいと、墓を所有するより、所有しないことにメリットを感じることで発生する

 

ほかにも、ファッション的な感覚で捉え

何にも縛られない自由な発想の終着点

と、いう考えもある

 

散骨に対する考え方は

ライフスタイルが、より個人的になってきている結果だろう

 

自分の体だから、最期はどうしようと自分の自由…

 

確かに、選択の自由もあるのだが

ここで少しデメリットも考えてみたい

 

自分の体や心が自分のモノであって

その選択は他人の意見の入る余地がない…という考えは

一見、自分で全ての責任を取る、素晴らしい考えにも思えるかもしれない

 

しかし、自分の人生は自分だけのもの…という考えは

物質至上主義特有の、目の前の出来事のみに関心を示す特徴のように思う

 

生命は、過去と未来…そして全宇宙の一部であるという考えでいくと

全てを自分でコントロールしてもいい…という考えには至らない

 

自分のモノのように見える体や心、所有する物質も

所詮、宇宙の一部であり、一時的に借りているものであり

その生命体は、先祖代々受け継がれて、存在しているものと考えると

自分の体だからと言って、独断と偏見で決めるのは少し違うようにも思う

 

自分の子孫が、自分が存在するこのと意味を

過去に遡り、先祖の存在を肌身で感じることができるなら

そこに思いを馳せる機会の提供としての墓の存在は

自分の自由意志で動かしていいものとは言えなくなってくるのではないだろうか?

 

大国主神の国譲り①

天上の高天原を治めていた天照大御神(アマテラスオオミカミ)と高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)は、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)に地上の世界を支配るように命じた

 

地上の世界を支配するために地上界の王である大国主神(オオクニヌシノカミ)

に国譲りの交渉のために使者を二回派遣したが、二回とも失敗に終わってしまった 次の作戦として、力の強い神の建御雷之男神(タケイカヅチノオノカミ)を地上に送り 国譲りを力づくで迫った
大国主の子である建御名方神(タケミナカタノカミ)は譲渡に反対し抵抗したが 建御雷之男神に屈服させられて諏訪(現在の長野県)に幽閉されてしまった 大国主は自分を祀る神殿を建てることを約束させて 地上界を譲渡し、幽界に去っていった その大国主神の神殿として建てられたのが 出雲大社であると言われている 出雲大社は現代でも古代より連綿と続いている出雲国造家である千家氏が代々宮司を努め、社殿は国宝に認定されており、神社建築の中でも最古である

 

その出雲大社から歩いて20分ほどの場所にある稲佐の浜は 高天原からの使者建御雷之男神と大国主神が対峙した場所だと言われている

 

名方神が追い詰められた場所が 現在の住所で長野県諏訪市にある諏訪湖であると言われている 古事記にも登場する諏訪湖は氷結して、その氷がせり上がる様子が 蛇体である建御名方神が体をくねらせて妃神のもとに通った様子であると言い伝えられている その建御名方神が祀られていると言われているのが 同じく長野県諏訪市にある諏訪大社である 国譲りで敗れた建御名方神は諏訪の地域を出ないと誓い祀られている 諏訪神社は国内に1万社以上あると言われているが その総本社が諏訪地方の上社と下社である 現代でも、古事記ゆかりの地や物語にまつわる祭事などが残っているので 理解を深めるために訪れるのもよいと思われる

畜生道、餓鬼道、地獄道

三悪道と仏教の歴史

仏教には六道輪廻の考えがあると

以前も記したことがあるが

仏教では、現世での行い如何によっては

天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道

の、いずれかに転生すると言われている

そして、地獄、餓鬼、畜生の3つは、三悪道と呼ばれていて

皆が、避けて通りたいと考えている道である

そして、三悪道に落ちないためにも

現世での行いに気をつけて

来生を、より良い転生ができるように願うのである

しかし、その道が厳しく

欲を滅し、厳しい規律を守り修行に励まなければ

三悪道を避けることはできないと考えられていた

そして、悟りを開いた状態(=解脱)を目指すのである

その道は、煩悩を捨てる道であるため

多くのものは、その道を断念せざるを得ない場合も多く

しかし、三悪道に転生する恐怖もあり

死後の解釈を変えて

全ての死者が仏になれるようなシステムに変わっていった

現代の日本では、宗教観も

冠婚葬祭の時のみに登場するような形で

その教えを深く考えずに

儀式だけを執り行う場合も少なくない

もっと酷い場合には

婚姻する場合と、葬式をする場合に

全く違う宗教の儀式を行うことも少なくない

故に、その宗教観の中に

三悪道に転生する恐怖もなく

取りあえずは、追善供養を行うことで

現世での行いが悪くても

成仏できることになっている

しかし、その敗者復活戦のようなシステムに変わったことによって

現世で良い行いをすべきである…という観念が薄れて

多少悪いことをしても、成仏できる…と考えるのであれば

まだマシな方で

儀式のためのパフォーマンス的な捉え方では

現実主義に偏り過ぎて

目に見えることだけを信じるようになり

行い云々以前の問題となってしまう

そうならないためにも

真理を伝えるべき人間が

正しい解釈を伝えることが重要になってくる

水と日本の歴史

日本は海に囲まれている島国であり
河川も多く、川や海からの恵みを多く受けてきた国である

その一方、最近では東日本大震災の大きな津波災害があり
津波、河川の氾濫、台風の被害など
水に関する災害が多い国でもある

日頃は、その恵みに神の存在を感じ感謝をするが
災害などが起こると、神の怒りだと捉え
その怒りを静めるために、様々な儀式を行う
その儀式のひとつに人身御供がある

実際に日本では、生贄の風習は少なかったようだが
それでも、風習や慣習としてはないが
近畿地方を中心として人身御供の記録は残っている
その生贄は、人の場合は少なく
動物が差し出されることが多かったという
特に多いのが牛で、その他のも猪や鹿など多くの動物が犠牲となったようである

この人身御供は、諸外国と比較した場合
日本は圧倒的に水に関係するものが多いのも一つの特徴である

神話の中にも人身御供と思われる内容の話も多く
ヤマタノオロチの話もそうだが
ヤマトタケルの東征の際に后の弟橘比売が
荒れる海の中に入水した話や
現在の大阪府門真市にある茨田堤の話の中にも
河川の氾濫を抑えるために少女が人身御供となった記述が日本書記の中にある

基本、生きているか、そうでないかは関係なく
お供え物とは、神に気を静めてもらうためのプレゼントであり
酒や米、花、お金…様々なものが現代でもお供え物として使われていて
あまりにも、状況が悪い場合(多くの命が犠牲になると想定される場合)には
自分達にとって、より大切なものをお供え物として献上した方が
大きな効果が得られると考え
人の命、それも若く美しい命が一番効果が高いと考えられて
年頃の美しい少女が犠牲となることが多いようだ

村を守るためと説得され
断ることも許されず
その犠牲となった少女達…
そして、その親の心情を考えると居た堪れない気持ちになるが
日本は、そうやって水との共存を模索しながら
災害と向き合ってきた国なのだ

根之堅州国はどこにあるのか?

スサノオは根之堅州国(ねのかたすくに)に住むと言われている
その根之堅州国とは、現在のどこに存在するのだろうか?

スサノオはクシナダヒメと結婚し
子供がうまれると根之堅州国に住まいを移した

根之堅州国は通称「根之国」と呼ばれていて
根之国は黄泉国と同義語であると解釈されているので
根之国は死者の国を意味することになる

この根之国とは、どこにあるのだろうか?

古事記には死者の国へ行く道は、出雲の黄泉比良坂(よもつひらさか)にあると記されている

しかし「出雲国風土記」には、出雲郡の宇賀郷に「黄泉の坂、黄泉の穴」という場所があると記載されている

そこは、今の島根県出雲市猪目洞窟であると言われている

その出雲国風土記には
出雲郡の北の方に脳(なぎつ)の磯と呼ばれている場所があり
その窟戸(いわと)に穴があり
夢にこの窟に来るものは必ず死ぬ
と伝えられていた
そのことから、この場所が「黄泉の坂、黄泉の穴」と呼ばれるようになったようだ

出雲と「死」は以前から関連があった

黄泉国と同義語である「根之国」の言葉の意味は
死者の国が地下にあること
根は地下に向かって伸びること
が関連付けられ由来となって
根之国が死者の国であると解釈されている

イザナミが葬られた場所も
現在の島根県安来市だと言われている

スサノオが住む根之国は
出雲の地下深くに存在する国だということがわかる
そして、その地下に通じる道…根之国の出入口が、出雲のいたるところにあったと言われている

出雲大社の北側にある日御碕神社には
アマテラスを祀る「日沈宮(ひしずみのみや)」という社殿がある
アマテラスを主祭神とする伊勢神宮は
日の昇る位置にあるので、出雲とは対極にある

伊勢神宮は「陽」の位置であれば
出雲大社は「陰」の位置
そのようなことから出雲は死の国に通じる場所であることは
様々な角度からも言えることである

オオクニヌシと八十神

出雲の国を建国したオオクニヌシには大勢の兄がいる
その数は、あまりにも多いので
まとめて八十神(やそがみ)と呼ばれている

この八十神は、因幡のヤガミヒメと結婚したいと願っていた
そして八十神は、因幡へ向かった
その時に、雑用係として、荷物持ちとして連れて行ったのがオオクニヌシである

八十神とオオクニヌシは、ヤガミヒメのもとにたどり着いた
そして、八十神はヤガミヒメに求婚した
しかし、ヤガミヒメは八十神ではなくオオクニヌシに嫁ぎたいと宣言した

このことに怒った八十神は、オオクニヌシを消そうとして
真っ赤に燃える大岩をオオクニヌシの上に落したり
大樹の隙間に挟んだりして殺してしまった

オオクニヌシは、八十神に二回殺されたが
その度に生き返ったのだが
このままでは危ないと思ったオオクニヌシの母神は
オオクニヌシをスサノオのいる根之国へと送った

根之国で新しい力を得たオオクニヌシは
地上に戻ってきて、八十神を撃退した

この八十神は、古事記での扱いはあまりいいとは言えない
そもそも、何人なのか、何十人なのかも不明であるし
個々に名前も与えられていず
兄弟の中で名前が明確なのはオオクニヌシだけであり
あとは、全員ひとくくりにされてしまっている
嫁ももらえず、最後はオオクニヌシによって退けられてしまうので
少しかわいそうな気もする

しかし、それは仕方のないことなのかもしれない
そもそも、この話はオオクニヌシが出雲を建国するまでの一過程い過ぎず
兄達は、やはり主役ではないので
申し訳ないが、この程度の扱いしかないようだ

根之国から戻ってきたオオクニヌシの話の中心は出雲の建国についてなので
八十神を撃退した話も、古事記ではたった一行しか扱われていないのである

しかも、なぜ一番末っ子が主役なのだろうか…

古代は、家督を一番下の弟が継ぐという末子相続が一般的であった

八十神もスサノオの子孫ではあるが
末子相続の慣例に従い、末弟であったオオクニヌシが
スサノオの後を継ぎ、葦原中国を治めることになったのである

因幡のシロウサギ

古事記の中でも最も知名度の高いのは この「因幡のシロウサギ」だろう 古事記の内容をあまり詳しく知らなくても 「因幡のシロウサギ」の話は知っている人が多い
さらに、「因幡のシロウサギ」が古事記の話だと認識していない人もいる

 

それほど、日本人になじみの深い童話であるが その話を簡単に説明すると
隠岐の島から因幡(鳥取県)へ行きたいシロウサギは 海を渡る方法としてサメをだますことにした サメの群れに「数を数えてあげよう」と持ちかけ サメを一列に並べて、サメの背中の上を飛び移って向こう岸まで渡ろうとした

しかし、あと少しで岸へと到着する寸前で だましたことがバレてしまい サメに毛皮を剥がされてしまう

 

…という話である ちなみに 誤解が多いのだが

シロウサギは「白いウサギ」の意味ではなく 毛皮を剥がされて「素」になったウサギ 「素兎」の言葉が元になっている

 

この物語に登場するサメだが 違う生き物である…という説もある 古事記の中には、この生き物が「ワニ」であると書かれている

ワニというと爬虫類の口の大きなワニだと思うが

そのワニは、亜熱帯地域を中心に生息する生き物なので 日本にいたとは考えにくいので

「ワニ」は「サメ」のことを言っているのではないかと言われている

 

絵本によっては「ワニザメ」と表現しているものもある

これは古語であり

昔はサメを指してワニと呼んでいたようで 島根に近い広島県三次市などでは 現在もサメの肉を使った「ワニ料理」というのが存在していて その名残を残している
サメの肉は腐りにくいので 運送の手段が少なく時間もかかる昔は

山間部の地方では、貴重なタンパク源として重宝されていた

 

しかし、このワニをサメだと解釈するのに反対する意見もある

大分県では、小型のヨウスコウワニの化石が発掘されたこともあり 当時の日本に爬虫類のワニが生息していた可能性も否定できない また、古事記のワニを 現代でいう、サメやワニではなく

細長いウミヘビではないかとする説もある 個人的な意見だが 「神代正語常磐草」に描かれている

因幡のシロウサギの絵のワニは「ガメラ」にそっくりだと

いつも思ってしまうのである

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