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歳徳神の姿とは
歳徳神とは、その年の福徳を司る神のことだが
その姿は天女のような容貌を想像する人が多いだろう
事実、暦などにそのような姿の絵が描かれていることが多い
しかし、地方や時代によってその姿は様々な解釈があり
どれが正しいかははっきりとはしていない
春の初めに「明きの方」から、家を一軒一軒訪ねる「年の神」の性質が
現在において複雑になりすぎている
人によっては国の固有信仰の外にあるような解釈をするものもいる
このような信仰を守っているのは
学問などから縁遠かった、ごく普通の庶民が中心となっている
しかしこの庶民の信仰は
階級や地域を超えた一致が見られ
そのしきたりや言い伝えの中には
納得せざるを得ない理由が見つかったりもする
しかし、それぞれに営んできて
書物なども乏しい信仰を解釈することは至難の業だ
日本だけにしかない慣習や信仰を
他の国もそうだろうと決めつけたり
当たり前だと思い、疑問に思わないことは危険なことで
よく観察することで理解が深まることになる
春ごとに訪れる「年の神」を
商売人の家では「福の神」(富をもたらす神)
農家の家では「御田の神」(豊作をもたらす神)
だと思っている人が多い
同じ神を違う名称で呼び
その願いやご利益も違うのは
もはや全く違う神のような解釈だが
資料が乏しい中で分析することは難しいことだが
何か原因があってそのような解釈になったに違いない
しかし、利害も一致せず、それぞれの家に
庇護・支援を与える神というものは「先祖の霊」以外にないように思う
しかし祖霊を神として祭ることは
心情の観点からも不可能になってきた結果として
別にわが国では、研究者の力ではどうすることもできない
様々な神を出現されることになったとも考えられている
神をそれぞれの機能によって別立し
同時に管轄する地域を持ち、全国同じ信仰の存在は
国魂や郡魂の思想とも相違があり
近代の守護神とも違うので
これは仏教から新たな影響があった可能性がある
明治の御代の時代になって
柱暦の彩画には、この歳徳神を弁財天女のような美しい女体が描かれたものが多い
また、恵比寿や大黒だったりもした
農家の家では「田の神」を「恵比寿様」というところと「大黒様」というところがある
七福神の取り合わせは奇抜すぎるが
今でも正月には、この絵が使われることが多い人気もある
ところが九州の佐賀県の田舎などでは
「歳徳さん」は「福禄寿」という七福神の仙人みたいな人を指し
「長い禿げ頭の子が生まれたら大変なので、年神さんへの供物は女性に食べさせるといけない」という言い伝えもあるという
これは必ずしも狭い地域での話とは限らず
他にもこのような風貌の神を年の神としている地域もあるようだ
年の神はどんと焼きの煙に乗って還っていくという言い伝えがあったり
餅を背負ってくるという言い伝えがあったり
地域や家の商売のよってその姿やご利益が代わる「歳徳神」は
われわれの先祖なのかもしれないという想像もできるのである
壬申の乱
天智天皇が病に倒れて
その病床に大海人皇子(おおあまのみこ)が呼ばれた
自分の命が残り少ないと悟った天智天皇が皇位を継いでほしいと言われた
本当は天智天皇はわが子である大友皇子(おおとものみこ)に皇位を継いでほしいと思っていることを、大海人皇子は察して
出家して吉野に去ることを告げたのだった
天智天皇が崩御すると
大友皇子は、吉野に去っていった実力者である
叔父の大海人皇子を排除しなければ
近江政権は安泰ではないと考えて動き出した
身に危険が迫った大海人皇子は臣下を自分の領地がある美濃に送り
そこで兵を集めるように命令し
近江から東国へ入る玄関口である不破道(ふわのみち)を塞ぐように命じた
吉野にいては危険なので密かに脱出し東国に旅立った
吉野を脱出した当初は乗る馬も持たず
妃の菟野皇女(うののひめみこ)(天智天皇の娘でのちの持統天皇)のほか
わずかな家臣を連れての吉野脱出となった
大海人皇子たちは夜を徹して逃げ続け
鈴鹿山脈を越えて伊勢に入った
そして、信頼する人物の子である高市皇子(たけちのみこ)のほか
東海道や中部地方の軍勢も味方についた
大海人皇子は高市皇子を
不破を守るための軍事責任者として重要な任務に就かせ
自らも近くの野上(現在の岐阜県関ケ原町)に宮を設けた
少しずつ大海人皇子を支援する軍勢は増えていき
戦う準備は整いつつあった
大海人皇子は不破を越え、数万人の兵を近江に向かわせ
すでに戦いが始まっていた大和にも大勢の兵を派遣した
近江の大友皇子の軍も大勢の兵で迎え撃ったが
裏切りものが相次ぎ琵琶湖畔の戦いでも連敗続きとなった
瀬田橋(滋賀県大津市)を舞台に決選を迎えたが
この戦いも大海人皇子の軍が勝利することになり
これ以上は戦えないと判断した大友皇子は自害した
この何万人もの兵が衝突した古代史最大の戦を
壬申の乱と呼ぶ
長年、西に大きな顔をされてきた東国の不満が爆発し
結果的に大海人皇子に加勢したことが
この戦いの勝因になったと思われる
白村江の戦い
660年(斉明6年)に唐と新羅の連合軍によって百済が滅ぼされた
斉明天皇のもとには百済で抵抗運動を続けている
鬼室福信(きしつふくしん)から援軍派遣の要請が届き
日本にいる百済の王子である豊璋(ほうしょう)の帰還も求めてきた
斉明天皇は古くから親交のある百済の危機を救うために
自ら兵を引き連れて筑紫の朝倉宮に入った
しかし、いざ軍を百済に送ろうとした矢先に
斉明天皇は病に倒れて崩御してしまう
そのため、兵の百済派遣は一旦中止せざるをえなくなった
斉明天皇からあとのことを任された中大兄皇子は
その翌年に豊璋を百済の王として帰還させて
軍事的支援も継続することにした
だが豊璋と鬼室福信の関係がこじれてしまい
鬼室福信は殺害されてしまった
その内戦の隙をついて
新羅の軍が一気に攻めてきた
663年(天智2年)に中大兄皇子は玄界灘を越えて
大勢の軍を百済に向かわせた
一方、白村江には唐の水軍が船団を構えて陣を敷いた
両軍の激しい戦いの始まりだった
しかし、最新の船と武器を備える唐にとって百済は敵ではなかった
2日間の戦いで日本軍は大敗退してしまい、百済の復興はかなわなかった
勢いに乗った唐が日本に侵略してくると予測される中
国土の防衛のために
中大兄皇子は対馬、壱岐、筑紫に防人とのろし台を置き
九州の大宰府に水城を置いた
亡命してきた百済の人を組織して瀬戸内海沿いに山城も建てた
海から遠い近江に都を移したのも
唐の攻撃を考えてのことだったのだろう
斉明天皇が崩御してから7年後に
中大兄皇子は第38代天智天皇として皇位に就いた
戦いに敗れた衝撃は重く
天智天皇の課題は必然的に富国強兵となる
中央集権化をより強固なものにして
徴兵のために日本で初となる戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成した
法律によって国土を支配する律令体制確立のために動き出した
大化の改新
姉の皇極天皇から史上初の「譲位」という形で皇位を受け継いだのが
第36代の孝徳天皇である
孝徳天皇は蘇我氏が滅んだことによって
ただちに改革に乗り出した
従来の大臣・大連制にかわる役職として
左大臣・右大臣職を新設して
中国にならって元号も採用した
そして日本で最初の元号を「大化(たいか)」とした
難波に遷宮を敢行し中国風の壮大な豊碕宮(とよさきのみや)を築いた
孝徳天皇は皇位に就いて半年後に
改新の詔(かいしんのみことのり)を発布した
これは、豪族の私有地や私有民を認めず
公地公民制への移行を決めたもので
畿内と地方の行政組織の整備を進め
権力の一元化を目指すものだった
中央集権と律冷制への移行を掲げたこの改革を
大化の改新という
大化の改新は、その他にも国民から訴状を受け付ける目安箱を設置したりと
改革に突き進んだ
日本書記では、中臣鎌足が孝徳天皇を皇位に就けるために
乙巳の変を起こしたとも書かれている
しかし、この大きな改革である大化の改新は
後世に脚色されたものではないかという意見もある
しかし孝徳天皇が唐をお手本として改革を行ったことは事実であり
豊碕宮も唐を参考にして建てられたり
そこで催される儀式も唐風に変えるほどの熱心さだった
その当時は、唐と新羅が連合し、百済と高句麗と敵対関係になっていた
孝徳天皇は、当然唐派で
百済を支持していた蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子を倒したというのが
乙巳の変であるという見方もある
孝徳天皇が皇位に就いて9年目になったころ
前天皇である姉の皇極と中大兄皇子が難波を去り臣下を連れて飛鳥に帰ってしまう事件が発生した
孝徳天皇は一人で難波に残り、病気になってさびしく崩御した
この突然の都移転は
新羅の使節が唐の服装をして現れたことが原因だったようだ
新羅は唐の属国的な存在となったことを察した
皇極と中大兄皇子が孝徳天皇の親唐志向に危機感を持ち
日本も新羅のようになってしまうことを危惧して判断した都移転だったようだ
その皇極は、その後再び皇位に就き
第37第斉明天皇となった
前任の時とは打ってかわり北海道や東北に3度にもわたって蝦夷遠征軍を派遣するなど
強権をふるう天皇となった
乙巳の変②
中臣鎌足は天皇でさえ見下す蘇我氏を倒そうと動き出した
中臣鎌足は仏教の受容に関する件で物部守屋に味方をして
蘇我馬子に刀を削がれたことで因縁もあった
しかし、打倒蘇我氏のために共に戦ってくれる仲間を大々的に集めることもできないので
王族に近づき、内密に共に戦う同志を探していた
そして、蘇我氏を倒すために最もふさわしい人物といえる
中大兄皇子に飛鳥寺で開催された蹴鞠の席で出会うことになる
中大兄皇子は皇極天皇と舒明天皇の長子であり
まだ若いが蘇我氏への恨みは強い
しかし、すぐに動き出せば身に危険が及ぶ可能性がある
ふたりは密かに蘇我氏を倒すための計画を練り
蘇我氏の反主流の倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)を加担させることに成功し
さらに佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)や葛城稚犬養連網田(かずらきのわかいぬかいのむらじあみた)も仲間にした
山背大兄を倒したあとは
さすがの蝦夷や入鹿親子も警戒しはじめた
邸宅を柵で囲ったり、武器のための倉庫を建てたりもした
外出の際は兵士に護衛をさせて敵からの攻撃に備えた
中大兄皇子と中臣鎌足は6月12日に決行しようと決めた
その日は、朝鮮半島から使者たちが来て板蓋宮(いたぶきのみや)で天皇に貢物を奉る日だった
さすがの入鹿も天皇の前では兵に護衛をさせることもできない
儀式が始まると中大兄皇子は通用門を封鎖した
中臣鎌足も弓を構えた
だが肝心の入鹿が姿を見せると
佐伯連子麻呂も葛城稚犬養連網田も気後れしてしまい動けなくなってしまった
そんな二人の姿を見て中大兄皇子が斬りかかった
それを見た佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田も後に続きい入鹿にとどめを刺した
翌日、事件を知った蘇我氏の軍は瓦解し
蝦夷も討たれることになる
宣化天皇の時代以降、長い年月にわたって
権力を握っていた蘇我宗家も滅んだ
目の前で衝撃的な惨事が起こったことで
皇極天皇は皇位を退き、弟の軽皇子(かるのみこ)に譲った
この事件はこの年の干支にちなんで
乙巳の変と呼ばれている
生前に皇位を譲る「譲位」が行われたのは
これが初めてだった
乙巳の変①
推古天皇が崩御した後
皇位の継承をめぐって田村皇子(たむらのみこ)と聖徳太子の息子の山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)が対立した
父である蘇我馬子から権力を継承した蝦夷(えみし)は
反抗的な甥の山背大兄皇子よりの蘇我宗家に従順である田村皇子を推して
第34代の舒明天皇とした
その舒明天皇が崩御すると
蝦夷の子である蘇我入鹿は山背大兄皇子を無視して皇后の宝皇女(たからのひめみこ)を第35代の皇極天皇として即位させた
この皇極天皇は敏達天皇の曾孫にあたるが
皇統からは遠く、本来は天皇になれるような身分ではなかった
皇極天皇は蝦夷と蘇我入鹿親子にとっては操り人形のような存在で
逆らったら殺害も厭わない様子で
その後、蝦夷の甥で舒明天皇の子である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)と
取り換えでもいいと思われていた存在だった
実際に、古人大兄皇子を天皇にする準備を陰で進めていて
皇極天皇は、蘇我氏の政権私物化のための存在だった
その政権私物化の態度は度を超すものがあり
先祖を祀る祖廟の完成祝の際に天皇家にだけ許されていた舞を群臣たちに披露してみたりと
天皇家さながらに振る舞っていた
自分たちの墓を作る時も豪族たちの私有民を勝手に使ったり
天皇の宮を見下ろす場所に蘇我親子の豪邸を並べて建てたりしていた
その豪邸を宮門と呼ばせたり、自分たちの子供を王子と称したり
完全に皇族気取りの態度だった
ついに蘇我入鹿は古人大兄皇子を天皇にするために
山背大兄皇子の殺害を計画しはじめた
皇極天皇に見切りをつけはじめたのだった
蘇我入鹿は山背大兄皇子が住む斑鳩宮を襲った
山背大兄皇子は妻子を連れて生駒山に逃げたが
法隆寺に戻ったところを兵に囲まれ自害した
山背大兄皇子が自害したとき
突然空に舞楽とともに五色の幡と絹笠が現れ
それが黒い雲に変わり、人々は恐れおののいた
蘇我入鹿の暴走を蝦夷は激しく責め立てたのだった
推古天皇と聖徳太子②
推古天皇は、天皇に即位すると
甥の厩戸皇子(むまやとのみこ)を皇太子にして政治を担当させた
厩戸皇子は用明天皇の子であり
両親は共に蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたる
蘇我馬子の娘である刀自古郎媛(とじこのいちつめ)を妃として迎えた
厩戸皇子は、蘇我氏の血で固めた蘇我氏のホープである
母が厩の戸にあたった時に出産したために厩戸皇子と呼ばれた
厩戸皇子は生まれてすぐに言葉を語り
成人してからは一度に10人もの話を聞き
その一人一人の言葉を理解して的確に返答したという
高句麗からきた高僧の慧慈(えじ)に仏教を学び
仏教の振興に大きく貢献した
自分の仏像を秦河勝(はたのかわかつ)に与え
蜂岡寺(京都太秦の広隆寺)を創建させた
鞍作鳥(くらつくりのとり)に命じて飛鳥寺に大きな釈迦如来像(飛鳥大仏)を作らせ
自分の斑鳩宮(いがるがのみや)に法隆寺も建てるなど
かなりの勢いで仏教を広めていった
聖徳太子(厩戸皇子)は、推古11年(603年)に冠位十二階を導入
個人に対して12段階に分けた位を授ける制度で
氏族単位で担ってきた朝廷の官僚組織を改革し
生まれだけではなく個人の能力や実績を重んじて位を与えた
さらに官僚制度をより強固なものにするために
役人の心得を記した十七条憲法も施行
その内容は国民への奉仕の心を説き、税の横領を戒めるなど
役人に対して高い道徳精神を求める内容となっている
推古15年(607年)には聖徳太子は小野妹子を隋に遣わした
この遣隋使は雄略天皇が断交してからおよそ130年ぶりの国交回復となった
隋への国書では対等な関係を主張し皇帝煬帝を怒らせたと
中国の歴史書には記されている
日本書記には書かれてはいないが
西暦600年にも遣隋使を送っていたが
法整備も進んでいない遅れた国だとバカにされて相手にされなかったようだ
冠位十二階や十七条憲法を定めるにいたったのも
600年の遣隋使の失敗を踏まえて
官僚制度を整える立派な国をアピールするためだったと思われる
推古天皇と聖徳太子①
物部守屋率いる軍に対し完全勝利した蘇我馬子は
空席となっている天皇の座に誰が就くのかを
姪であり故敏達天皇の皇后である炊屋姫(かしきやひめ)と相談して
崇峻天皇を第32代天皇として即位させるとことにした
崇峻天皇は欽明天皇と蘇我馬子の娘との子なので
蘇我氏の血を引く天皇となった
蘇我馬子はこの崇峻天皇を手駒の一つとしか考えていなかったが
次第に関係が悪化していき
蘇我馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて
崇峻天皇を殺害してしまうのであった
過去に暗殺された天皇は
安康天皇と崇峻天皇の二人だけである
このように王権を自在に操る蘇我馬子だったが
非難するものはもう誰もいなかった
政権で力を持つ元皇后の炊屋姫もこの件に関しては承認していたようだった
次に蘇我馬子は蘇我氏の繁栄のために炊屋姫を天皇にしようと奔走し
ここに初の女性天皇である第33代推古天皇が誕生した
他に男性の皇位継承者がいなかったわけではないが
女性を天皇に選んだのには理由があった
それは、どうしても蘇我氏の血を天皇家に入れたかったこと
そして蘇我氏の血が全く入っていない敏達天皇の遺児である押坂彦人皇子(おしさかひとのみこ)が天皇になることをどうしても避けたかったからである
蘇我氏の血が濃い厩戸皇子(聖徳太子)が皇位に就くまでの中継ぎではないか
という説もあるが、この時代には在位中に退位して皇位を譲る制度はなかった
一度、皇位に就けば崩御するまでその座に居続けなければならないので
聖徳太子を皇位に就かせることには無理がある
推古天皇は中継ぎではなく「蘇我王朝」を盤石なものにするための方策だったのだろう
推古天皇は聡明な女性であったようで
群臣からの信頼も厚かったことも皇位に就いた一要因であったとも言われている
蘇我馬子は自分の敷地内に小墾田宮(現在の奈良県明日香村)を開かせ
推古政権をコントロールしていった
この推古天皇が即位した593年から約100年間を飛鳥時代と呼ぶ
この時代に仏教は完全に定着し仏教文化が華開いた時代でもある
仏教伝来②
第30代の敏達天皇が崩御した
対立する蘇我馬子と物部守屋は
敏達天皇の葬儀の場でお互いを激しく罵りあった
体の小さい蘇我馬子が太刀を帯びて弔辞を述べると
物部守屋はその様子を見て
「獣を射る大きな弓で射られた雀のようだ」と罵った
逆に物部守屋が体を大きく揺すりながら
弔辞を述べていると
蘇我馬子が「鈴を付けたら面白い」とからかった
お互いを認めない両者は
もはや修復は不可能な段階にきていた
第31代の次期天皇は用明天皇となった
用明天皇は欽明天皇と蘇我馬子の妹との間にできた子で
蘇我馬子は蘇我家の息のかかった天皇だけに
この機会に自ら仏道に帰依しようとしたが
やはり物部守屋は用明天皇を公然と批判した
さすがに朝廷を敵にまわすことで危機感を感じた物部守屋は
拠点の河内に帰り、戦争の準備を始めた
そんな中、用明天皇は崩御した
物部守屋は軍勢を率いて
皇位を狙う穴穂部皇子(あなほべのみこ)を担いで政権を狙った
蘇我馬子は穴穂部を襲撃して命を奪った
蘇我馬子は軍勢を率いて
物部守屋の拠点である河内へと向かった
その隊には、用明天皇の子である厩戸皇子(うまやとのみこ)のちの聖徳太子がいた
両軍は衣摺で激突したが
朝廷の軍を担当する物部氏に蘇我氏は劣勢となる
厩戸皇子は霊木で仏教の守護神四天王像を作り
仏に誓いを立てた
「もし勝たせてもらえたら、四天王のために寺を建てます」と
蘇我馬子も仏教を普及させるために寺を建てると誓い勝利を祈願した
その二人の願いは通じ物部守屋を倒し軍も崩壊した
これによって蘇我馬子は朝廷をも凌ぐ勢いの権力者へと上りつめたのだった
厩戸皇子は加護に感謝して
約束通りに摂津に四天王寺(大阪府天王寺区)を創建
蘇我馬子も飛鳥に法隆寺(現在の飛鳥寺、奈良県明日香村)を建てた
百済で仏道を学んだ尼僧の善信尼には桜井寺(現在の向原寺)を寄贈した
このことによって仏教は国の教えとなり
普及の大きなきっかけとなった
仏教伝来①
日本に仏教が伝来してきたのは
欽明13年(552年)のことだった
百済の聖明王から金銅の仏像が一体と経典が届いた
仏像と経典の扱いに困った欽明天皇は
群臣を集めて、どうしたらいいいか相談をした
大臣の蘇我稲目(そがのいなめ)は仏教を受け入れるべきだと主張した
物部尾輿(もののべのおこし)は異国の神など受け入れるべきではないと主張した
対立した2つの意見を前にして
欽明天皇は判断できずに困り果て
仏像を蘇我稲目に渡して、個人的に礼拝することを許すことにした
その後、日本国内で疫病が流行し
その原因は異国から宗教を持ち込んだからだと物部尾輿は言って
欽明天皇の許可を得て、仏像を難波の堀江に捨ててしまい
祀っていた寺まで焼き払ってしまった
この時代の仏教は、主に中国や韓国で信仰されていた
渡来系の氏族を支配下に置いている蘇我稲目は海外の事情に精通していたので
仏教を柔軟に受け入れたと考えられる
仏教をもとにして巻き起こった争いは
もともと水面下では対立していた蘇我氏と物部氏の対立が表面化したにすぎなかった
古くから朝廷に仕え、祭祀や軍事を担ってきた物部氏は
雄略天皇の時代に政権の重要な位置を占め
言わば名門である
一方、宣化天皇の時代に稲目が大臣となった蘇我氏は
老舗の物部氏に比べ新興勢力に過ぎない
お互いの相性の悪さは歴然だった
物部氏と蘇我氏は代替わりをしても
二大勢力間の反目は続いていった
お互いにお互いを排除して
朝廷内の権力を一手に握りたいと戦々恐々としていた
欽明天皇が崩御して、その子が第30代の敏達天皇となった
敏達天皇は仏教の受け入れに反対派だったが
蘇我馬子は皇后に自分の姪の炊屋姫(かしきやひめ)を送り込み
(炊屋姫はのちの推古天皇)
権力の基盤を着々の築いていった
蘇我馬子は、再び百済からやってきた仏像2体を祀り
3人の尼を出家させて、塔を建設して仏道に精進した
だが物部氏の後継者である、物部守屋が
その仏像や塔に火をつけた
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