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札幌・恵庭・千歳・江別の石材店 丸五石材工業

倭建命の遠征③

大和に戻った倭建は早速父に報告したが
父から称賛の言葉をもらうことはできなかった

父は東国の平定を厳命した

倭建は席の暖まる暇もなく
都をあとにすることになった

下向する途中で伊勢に寄って
叔母の倭比売命と対面した
そこで倭建は叔母に弱音を吐いた
「西を平穏にして帰ってきたのに兵士も与えず
ただちに東へむかえと言う
父は私が死ねばいいと思っているようだ」と

倭比売命は草薙剣(クサナギノツルギ)を授けた
須佐之男命が八俣の大蛇の体内から取り出した聖剣である
もしものことがあればこれを開けよと
ひとつの袋も一緒に渡した

それらを持って尾張国の美夜受比売(ミヤズヒメ)を訪ね
結婚の約束をしたあと
抵抗する神々や王権に従わない氏族を次々に打ち負かして
倭建は東海道地域を東に進んでいった

静岡の焼津まで来たとき
地元の豪族にだまされて
野原で火攻めにあった

炎に包まれながら
倭建は叔母の言葉を思い出し
もらった袋を開いた

袋の中には火打石が入っていた

火打石を使って向火を点けると
迫る火の勢いは弱まった

窮地を出しった倭建は
豪族たちを斬り殺して焼いた

房総半島へ向かうために走水海(浦賀水道)を船で渡っていると
海峡の神が嵐を起こした
妃の弟橘比売(オトタチバナヒメ)は神の怒りを鎮めようと
荒れ狂う海に身を投げてしまった

海は急に穏やかになり船を進めることができるようになった

7日後に弟橘比売の櫛が海岸に流れ着いた
倭建は悲しみの中で弟橘比売の墓を作り
その櫛を納めた

北方を平安にして
足柄峠まで戻り
そこから山梨に入って酒祈宮に到着した

戦いに明け暮れる日々を思い
常陸(茨城県)から何夜経ったかと倭建がうたうと
酒祈宮の灯火番の老人が9夜だと歌で返した

その機転と風雅さをたたえ
老人を地方長官に任命した

倭建命の遠征②

小碓命(コウスノミコト)は当時はまだ15歳か16歳の少年だった
父に与えられた熊曾討伐の使命を果たすために
伊勢にいる叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)のもとを訪れた

倭比売命は垂仁天皇の娘であり
天照大御神を祀る伊勢神宮を管轄していた

倭比売命は小碓命に少女の衣装を授けた
小碓命はその衣装を持って剣を懐に
父の使命に応えるために九州南部へと向かった

朝廷に刃向かう熊曾建(クマソタケル)の兄弟の屋敷は
軍勢で固められていて容易に攻め込めなかった
じっと機会をうかがっていると
屋敷の増築完成を祝う宴が開かれるという
小碓命は髪をおろし
叔母からもらった衣装を身につけ少女に変装した

少女の姿で宴に潜入した小碓命は
熊曾建に気に入られた

熊曾建は、小碓命をそばに置いて酒盛りを始めた

宴が最高潮になったとき
小碓命は懐にかくしていた剣を抜き
熊曾建の兄のほうの胸を刺しぬいた

その光景を目の当たりにした弟は
慌てふためいてその場を逃げ出した

小碓命は逃げ出す弟を追いかけて
尻に剣を突き立てた

弟は息も絶え絶えになりながらも訴えた
「西には我ら兄弟よりも強いものはいなかった
ところが大和には我らよりも強いものがいたようだ
建の名前を献上すりので
今後は倭建御子と呼んで敬おう」

しかし、その訴えを小碓命は聞かずに
熊曾建の体を斬り裂いた

九州の熊曾建を屈服させた小碓命は倭建を名乗り
その足で出雲建を倒すために出雲へ向かった

出雲建に近づいた倭建は
木で偽物の剣を作り
それを出雲建に渡して立会を申し込んだ
出雲建は受けて立ったが木の剣では戦うことができない
あわてた出雲建を倭建は一刀両断に斬り倒した

大任を果たした倭建は
晴れて大和へ帰還した
父に今回の戦果を報告するために…

倭建命の遠征①

12代の景行天皇は、多数の妃を召しており
子の数は80人とも言われている
その中で特別に愛情を注いでいたのが大碓命(オオウスノミコト)と小碓命(コウスノミコト)の兄弟であった

あるとき景行天皇は、9代の開化天皇の孫にあたる美濃(岐阜県)の大根王(オオネノ
ミコ)の二人の娘がとても美しいとの評判を聞き、妃にすることにした
そこで、大碓命を派遣して迎えに行かせることにした

ところが、その二人の娘を目にした大碓命は
あまりの美しさに自分のものにしたくなった
そして景行天皇を裏切って二人と結婚し、天皇には違う女性を差し出したのである

景行天皇は、その事実を知って悩んだが
大碓命をとがめることはなかった

大碓命は、気まずい思いから天皇と顔を合わせることを避け
朝夕の食事にも同席しなくなった
天皇は大碓命に態度を改めさせるために、小碓命に説得を頼んだ

小碓命に説得を命じて5日が経っても
大碓命は食事の席にやってこなかった
天皇は小碓命に、まだ話をしていないのか?と問いただすと
すでに教え論したと答えた

どのようにしたのかと聞くと
夜明け前に大碓命が厠に入るのを待ちかまえて
手足を引きちぎってムシロに包んで投げすてたと言う

小碓命は天皇の言葉を「復習せよ」と誤解をして
勝手に制裁を加えてしまったのだ
父思いで誠実な小碓命は
父を悲しませた不実な兄が許せなかったのだろう

しかし、この行為に天皇は恐ろしくなった
この子が秘める荒々しさは危険に感じた

勇猛ではあるが、災いを招く危険もあると思ったのだ

父に忠誠を誓った証の兄への制裁
しかし父はその忠誠を疎ましく思っていた

そのころ九州南部では、熊曾建(クマソタケル)という二人の兄弟が
朝廷に従わずに反抗を繰り返していた

景行天皇は小碓命を遠ざけるために
熊曾建の討伐を命じた

小碓命が戦いで亡くなってもいいと考えての派遣だったのである

沙本毘売の悲劇③

垂仁天皇は亡き皇后である沙本毘売命の遺言に従い
彼女の従姉妹たちを宮中に召した

その従姉妹たちは4人
比婆須比売(ヒバスヒメ)、弟比売(オトヒメ)、歌凝比売(ウタゴリヒメ)、円野比売(マトノヒメ)の四姉妹である

ところが垂仁天皇は、比婆須比売と弟比売は喜んで迎えたが
歌凝比売と円野比売は容姿が醜いという理由で国許に帰してしまった

円野比売は、こんな恥ずかしい思いをして故郷には帰れないと
山城国の相楽(さがらか=現在の京都府木津川市周辺)で首をくくろうとする
しかし死にきれずい乙訓(おとくに=現在の京都市南西)まで行き、そこにあった深い淵に身を投げて自害した

この話も悲しい話だが
邇邇芸命が木花之佐久夜毘売を選び、石長比売を容姿を理由に遠ざけた話と似ていて
創作された物語であると指摘する見方もある

垂仁天皇は、多遅摩毛理(タジマモリ)を遠くの常世国に遣わして
いつもよい香りを放ち続ける橘の実を持ち帰るように命じた

常世国は海の向こうにある、命が生まれ出る国だ
また、橘の実とはみかんの実を指していると言われている

多遅摩毛理は苦労を重ねて常世国にたどり着き
実のなった橘の木を手に入れて、意気揚々と大和を帰ってくる
しかし多遅摩毛理の帰りを待たずに垂仁天皇はすでにこの世の人ではなかった

多遅摩毛理は採ってきた橘の木の半数を皇后に献上し
残りの半分を天皇の御陵に捧げて、声を上げて泣き叫んだ
「ようやく持ち帰ることができたのに」と絶叫したあと、多遅摩毛理はその場で亡くなった

中国の神仙思想では、常世国の実には寿命をのばす薬効があるとされていて
天皇が長寿を願って多遅摩毛理を派遣したのではないか?とも考えられている
(これは古事記や日本書紀では説明されてはいない)

また多遅摩毛理は渡来系氏族出身で、神仙思想に通じていたために遣わされたと言われている

沙本毘売の悲劇②

亡き皇后の忘れ形見である本牟智和気(ホムチワケ)に垂仁天皇は
愛情を注いで育てた
珍しい小舟を地方から取り寄せて一緒に乗って遊んだりもした

しかし本牟智和気は髭が胸に届くような年齢になっても
言葉を話すことができなかった

ある日、本牟智和気は空を飛ぶ白鳥の鳴き声を聞いて
初めて片言の言葉を口にした

それを聞いた垂仁天皇は大喜びして
山辺之大鶙(ヤマノベノオオタカ)にその白鳥を捕まえるように命じた

山辺之大鶙は白鳥のあとを追って
紀伊国に行き、播磨から山陰地方を経て
東国をめぐり、越国の和那美の水門で捕獲することができた

山辺之大鶙は白鳥を垂仁天皇の献上したが
それを見ても本牟智和気は言葉を発することはなかった

ある日の夜、垂仁天皇の夢の中に神が現れて
「私の神殿を天皇の宮のように荘厳につくってほしい。そうすれば本牟智和気は会話ができるようになる」と語った

夢に現れた神は、どの神なのか占ってみると
出雲の大国主神であることがわかった
垂仁天皇は本牟智和気を供につけて出雲の参拝に向かわせた

大国主神の社に詣で
大和に帰ろうと一行が斐伊川まできたときだった
突然、本牟智和気が供に話しかけた
口が利けるようになったのである

垂仁天皇は大国主神に感謝をして
出雲の社を立派な社殿に建て替えさせた

物語は他に本牟智和気が出雲で
肥長比売(ヒナガヒメ)と一夜をともにする
肥長比売の正体が蛇だったことに驚いた本牟智和気は急いで大和に逃げ帰る話も登場する

この話の意図は
蛇は古代より水と司る水神としてあがめられていることから
本牟智和気の大人への脱皮を語る話とも捉えられるが
本牟智和気は逃げてしまっているので
皇族と在地神の結婚はタブーである…という説話の可能性もある

沙本毘売の悲劇①

第11代の垂仁天皇の皇后である沙本毘売命
その沙本毘売命のもとに同母兄である沙本毘古王が訪ねてきて
天皇と自分とでは、どちらを愛しているか?
と突然訊ねてきた

とっさのことだったので
沙本毘売命は兄の方が愛おしいと答えてしまう

沙本毘売命と沙本毘古王は開化天皇の孫にあたり
垂仁天皇の従兄弟にあたる

古代では異母兄弟どうしの結婚は認められていたが
同母兄弟どうしはタブーとされていた

沙本毘古王は天皇を殺して妹の沙本毘売命を奪い
天皇の座につこうと考えていた
そして沙本毘売命に小刀を渡して
垂仁天皇の殺害を命じた

沙本毘売命は自分の膝枕で眠る垂仁天皇に3度小刀を振り上げるが
失敗に終わってしまう
兄である沙本毘古王と夫である垂仁天皇の間で板挟みとなり
涙が頬を伝って夫の顔に滴り落ちた
その涙で目を覚ました垂仁天皇に、沙本毘売命は兄の陰謀を伝えてしまう

それを聞いた垂仁天皇は、謀反を潰そうと軍勢を送った
沙本毘古王は城に籠って軍勢を待ち受けた
沙本毘売命は兄を心配して、その城に駆け込んだ

沙本毘売命はその時、垂仁天皇の子を身ごもっていたのだった

沙本毘売命を深く愛する垂仁天皇は
城を囲ったまま攻められずにいた
そのうち、子どもが生まれ
沙本毘売命は、その子を城の外に出して
立派に育ててほしいと垂仁天皇に託した
沙本毘売命は兄と死ぬ覚悟だったのである

沙本毘売命への思いを絶つことができない垂仁天皇は
必死に説得を行ったが
沙本毘売命の気持ちは変わらなかった

沙本毘売命は自分の代わりに従姉妹たちを妃に迎えるように伝え
兄に従って城の中で命を絶った

悲しみに暮れる垂仁天皇は沙本毘売命が生んだ子を
大切に育てることを決意し
炎の中で生まれた、その子を本牟智和気(ホムチワケ)と名付けた

沙本毘売命は垂仁天皇を愛しながらも
情熱をぶつけてくる兄の心情に寄り添い命を絶った

そして垂仁天皇も、そんな沙本毘売命を許し
優しく慈しみ
二人の間の子を大切に育てようと決意する

二人の繊細な心情を綴った切ない物語である

ライフスタイルの変化と仏教

お釈迦様が解いた仏教の教えと、現在日本で語られている仏教では

全く別なモノになっている

これは、長い歴史と距離を移動するにあたって

少しずつ解釈が変わってきたようだが

現代の仏教の解釈と、原始仏教では別の宗教と言ってもいいほどの変貌を遂げているのだ

その解釈は枝分かれをして

ある意味、柔軟な都合の良い解釈もされながら伝わってきていて

現代では、葬祭時のイベントのマニュアル的なものになっている

日常的な信仰心はなく

死を迎えた時に、その宗派に則り解釈された作法で儀式を行い

全ての人は、成仏できることになっている

しかし原始仏教は、都合良く全員が成仏できるようなものではなく

現世の行い如何によっては、成仏することなく

その業に従い転生するものと教えられている

それ故に、人々は来世の果報を願い

成仏、またはよりよい転生を願って徳を積むのである

昔の宮家の人々が、任務の遂行後や後家になった後に出家するのも

来世の果報を願ってのことであった

俗世を捨て、仏門に入ることは

尊い行いであり

生きながらに世を捨て、欲を捨て、執着を捨て

心の浄化に励むのである

それに反して、現代の儀式では

現世の行いが、どのようなものであっても成仏できてしまう…という

ちょっと都合の良い解釈がなされているのは

歴史や時代が移り変わり

ライフスタイルが変化している影響もあるのだろう

しかし、それで現代人は後生が解決できたと安心しているのではなく

みんながやっているから、とりあえず儀式として執り行い

その意味など、あまり考えていない場合も多いのかもしれない

諸国平定

10代目の崇神天皇は
大物主神となどの神々を鎮めて世の中を平安に導いた

しかし他の地方は、まだ朝廷に屈することがなかったため
王権を広めるために各地に将軍たちを送り込み武力での鎮圧をねらった

その武将のひとりである崇神天皇の叔父にあたる大毘古命(オオビコノミコト)が北陸地方に向かうために幣羅坂(へらさか)…※現在の奈良市北
に来ると、奇妙な歌をうたう少女に出会った
その歌は天皇の命が狙われていることをほのめかす内容だった

天皇の殺害を計画していたのは建波邇安王(タケハニヤスノミコ)
崇神天皇の叔父(大毘古命)の異母兄であった

大毘古命は軍勢を率い出発し
建波邇安王の軍と木津川を挟んで向かい合った

戦いはすぐに決着することになる

大毘古命の軍の放った矢が建波邇安王に命中し
建波邇安王の軍は雪崩を打って逃げ出した
大毘古命の軍はそれを追い詰めて滅ぼして勝利したのだった

その後、再び北陸地方に出撃した大毘古命は、その地を平定した

伊勢から東北地方までの太平洋側の一帯に将軍として派遣された建沼河別命(タケヌナカワワケノミコト)も服従しない豪族を駆遂していった

崇神天皇の兄弟である日子坐王(ヒコイマスノミコ)も丹波地方で敵を打ち負かした

そして北陸地方から進んでいた大毘古命と建沼河別命の父子は
相津(福島県会津)で出会った
そのエピソードから相津(会津)と呼ばれるようになったと言われている

日本書記では、その他に瀬戸内海沿いの制圧も加えることで
四道(四つの地方)将軍の物語となっている
崇神天皇は、実在の人物として信ぴょう性が高いと言われているが
この将軍派遣を行い地方を制圧した物語は
フィクションではないか…とも言われている

新潟県が大和王権に属するようになったのは
大化改新のあとである説が濃厚である
太平洋側の東国も崇神天皇の時代に掌握していたとは考えにくい

つまり事実とは考えにくい事柄も多いのだ

将軍派遣自体が天皇の偉業を示すための作り話である可能性が高いのである

記録実在すると思われる初代天皇 崇神天皇

記録上は第10代目天皇である崇神天皇

しかし、その前の天皇は実在の天皇ではない可能性が高いため
実在する天皇の初代は、崇神天皇と言っても差し支えないであろう

 

崇神天皇は3世紀後半から4世紀初頭の天皇であったようだ

 

崇神天皇は、疫病に悩まされた

疫病の大流行により国が滅びる危機に直面する

 

崇神天皇が神に意見を求めると

夢の中に三輪山の大物主神(オオモノヌシノカミ)が現れて
役病は自分が起こしたもので、末裔の意富多々泥古(オオタタネコ)に祀ってもらえば

祟りをしずめ、世の中は安らかになると語った

 

崇神天皇は、さっそく意富多々泥古を祭主に命じて

大物主神を三輪山に祀らせた
さらに天の神、地の神にも、社を定めると

猛威を振るっていた疫病もしずまり、平穏が戻ってきた

 

この物語は、崇神天皇が神々の祭祀権を握り、政権内に取り込んだことを示している

 

そして話は意富多々泥古の先祖の話に変わる

 

意富多々泥古の先祖、大物主神と活玉依比毘売(イクタマヨリビメ)の恋愛物語である

 

輝くほど美しい活玉依比毘売のもとに、ある夜、高貴な男性が訪ねてきた

このふたりは結ばれて、活玉依比毘売はすぐに身ごもった

活玉依比毘売の両親が不審に思って
活玉依比毘売を問いただすが、相手の名前も知らないという

 

父が相手の男の素性を知ろうと活玉依比毘売に知恵を授け

糸巻きに巻いた麻糸を針に通して

男性の着物に刺すように命じた
活玉依比毘売が父の言う通りにすると

その麻糸は三輪山に鎮座する大物主神の社に達していた

 

糸巻きに三輪だけ糸が残っていたことから

この地を美和(三輪)と名付けたという

 

この話は、大物主神の拠点である三輪山の近くに崇神天皇が宮を置いたことで

王権と在地神との関係が深いとことを示している

 

4世紀後半からは、この三輪山信仰は大和王権の拡大とともに地方にも波及し
大物主神と同一視されることで王権強化に貢献していくことになる

神社の基本スタイルは、この三輪山信仰が形成したとする説もあるほどだ

欠史八代~実在しない天皇~

初代天皇である神武天皇の死後、子ども達による権力争いが生まれる

子ども達の最年長にあたる多芸志美美命(タギシミミノミコト)が権力を握ろうとする

 

父の皇后であった義母の伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)を妻にして
邪魔になる伊須気余理比売の子…つまり多芸志美美命の3人のしようと企てた

その計画を知った伊須気余理比売は子ども達に、そのことを歌で知らせた

驚いた3人の子のうち次兄の神八井耳命(カムヤイミミノミコト)と末弟の神沼河耳命(カミヌマカワミミノミコト)が多芸志美美命を排除しようと立ちあがった

 

しかし神八井耳命が武器を手にしながら
多芸志美美命を前にすると弱気になってしまい討つことができない
見かねた神沼河耳命がかわって多芸志美美命の命を絶った

何もできなかった神八井耳命は弟の勇気に敬意を払い

神武天皇の後継者として神沼河耳命を立てることにした

 

こうして2代目天皇の綏靖(すいぜい)天皇が誕生する

 

その綏靖天皇の死後は、その子どもである安寧(あんねい)天皇が即位した

 

そして、その後は
4代 懿徳(いとく)天皇

5代 孝昭(こうしょう)天皇

6代 孝安(こうあん)天皇

7代 孝霊(こうれい)天皇

8代 孝元(こうげん)天皇

9代 開化(かいか)天皇

 

と続く

 

しかし、この2代目の綏靖天皇から9代目の開化天皇までは
古事記だけではなく日本書紀でも

ごく簡単なことだけしか語られていない

内容も、妃の出身や御子、皇族から派生した氏族、宮や陵墓の場所程度である

統治内容などに関しては一切語られていないため

この天皇たちのことを「欠史八代」と呼ばれている

 

この天皇たちのことについて書かれていない理由について

架空の存在である…という説が濃厚である

各種発掘調査の結果もその結論を裏付けていて
推古天皇のころに創作されたフィクションであると言われている

史実の上で実在が確かだと言われているのが
10代目の崇神天皇である

 

この「欠史八代」は王権の歴史を古く見せるため、より権威づけるために
あとから付け加えられた神話であると解釈する説が多い

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