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直系ではない継体天皇の即位③
最後の地方豪族の反乱であった磐井の乱から3年
継体天皇は82歳で崩御した
継体天皇の後継者には長男の勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)が選ばれた
勾大兄皇子は第27代の安閑天皇となったが
在位してたった2年で崩御してしまう
次の天皇には安閑天皇の弟である桧隈高田皇子(ひのくまのたかだのみこ)が即位し
第28代の宣化天皇となる
しかしこの宣化天皇も即位してたった4年で崩御してしまうのだった
この2天皇は在位期間が大変短いので
日本書記での紹介も少ないのだが
安閑天皇に関して興味深い記述がある
磐井の乱から進められてきた直轄領の設置は
朝廷の経済的な力をしっかりと付けて
一方で地方豪族の力を弱めていくようにして
地方支配をより強力に推し進めるのが目的であった
このころ、各地の豪族を国造(くにのみやつこ)に任命し
朝廷に奉仕させる地方行政官制度が整っていった
そして宣化天皇は大臣に蘇我稲目(そがのいなめ)を任命する
ここから、いよいよ蘇我氏が登場してくることになる
宣化天皇が崩御して第29代天皇は
継体天皇と皇后の手白香との間に生まれた
欽明天皇が即位した
安閑天皇と宣化天皇は継体天皇が北陸地方にいたときに生まれた子たちで
この2天皇の母親は地方豪族だった
それに比べて欽明天皇の母は仁徳天皇の子孫であり
位的にも正当な血筋であるといえる
安閑、宣化と欽明は
継体天皇の崩御後すぐに生まれた並立する別の政権だったという説もある
安閑と、宣化は大伴金村が担ぎ、それに対抗するかたちで
蘇我稲目が欽明天皇を推して擁立させたといわれている
安閑天皇と宣化天皇がともに短期間で崩御し
結局、政権は欽明天皇に一本化されるが
欽明天皇が即位すると
大伴金村は30年前に起こった任那4県への百済への割譲を承認した件を持ち出され失脚した
吉備氏や平群氏らを倒して政権の中枢にたどり着いたが
これを機会に勢いは失われた
この安閑、宣化と欽明はの並立する政権の件についての説は批判も多い
しかし、大伴氏と蘇我氏の間で暗闘があったことが事実として捉えられ
勝者となった蘇我氏は欽明天皇に妃をおくり
それ以降政権に大きな力を持つ大豪族となっていった
直系ではない継体天皇の即位②
日本書記において、継体天皇について書かれている項目は
ほとんど朝鮮半島がらみのことが書かれている
百済が朝鮮半島の西南部を得たいと
日本が足場を置いていた任那(加羅諸国)からの4県の割譲の承認を求めてきた
大伴金村は百済との友好関係が大切だと考えて
この割譲を承認したが
このことによって大伴金村に対する不満が巻き起こり
このことが原因で政権の大立者が失脚することになる
また新羅も任那に干渉しはじめ
その勢力を排除するために
継体天皇は近江の毛野臣に6万人の軍政を用意して
任那に向かわせようとした
そこに伏兵が現れる
北九州に基盤を置く筑紫君磐井(つくぢのきみいわい)だった
この筑紫君磐井は新羅から賄賂をもらったから
妨害に来たと言われている
筑紫君磐井は、九州の北部の豪族を次々と倒して
この地の基盤を固め玄界灘を海上封鎖し毛野臣軍の朝鮮半島への航路を防いだ
朝鮮半島への遠征軍の将軍である近江の毛野臣は筑紫君磐井を討伐すべく軍をあげ
九州の北部を舞台に戦闘を開始した
これを磐井の乱(527年)という
この磐井の乱を鎮圧するのに朝廷は苦労した
ついに大伴金村は、大連の物部麁鹿火(もののべのあらかい)に全権を委ね九州に向かわせることにした
その翌年の528年に、物部麁鹿火は筑紫の三井郡(現在の福岡県小郡市周辺)で筑紫君磐井を討ち取り、磐井の乱は終わった
磐井の乱は一豪族のたんなる反抗ではないのだ
朝廷はこの時期から、今までは各地域の豪族に任せていた関節支配から
朝廷が人民を支配する直接支配へと舵をきっていった
この方針に反抗したのが磐井の乱だったといわれている
筑紫君磐井は、新羅と独自に交易を行い
権益を保ってきたが、それが脅かされる恐れに対しての反乱だった
地方の権力を守ろうとした豪族と
大和王権との戦いだったのだ
地方の豪族が中央政権に逆らうことは、この磐井の乱を最後になくなり
これ以降、大和王権が中央集権化に向けて加速していくのだった
直系ではない継体天皇の即位①
第25代天皇の武烈天皇がわずか18歳で崩御したことで
天皇直系の皇位継承者が誰もいなくなってしまった
これは大和王権が始まって以来の大きな事件だった
武烈天皇の時代に平群氏を滅ぼして朝廷の後ろ盾となった
大伴金村(おおとものかなむら)は
仲哀天皇の5世にあたる子孫の倭彦王(やまとひこおう)が丹波にいることを知り
時期天皇になってもらうために兵を使って迎えに行かせた
しかし、倭彦王は兵を見るなり話も聞かず
殺されてしまうと勘違いをして失踪してしまった
倭彦王は困ってしまい
次の天皇候補者とし応神天皇の5世である北陸にいる男大迹王(おおどのおう)を立てることにした
男大迹王は、この申し出に最初は難色を示していたが
ついに臣下の願いを聞き入れて承諾した
男大迹王は河内の樟葉宮(現在の大阪府枚方市)で即位
第26代の継体天皇が誕生した
皇位継承者が不在という前代未聞の危機も乗り越えることができた
応神天皇の5世という
直系とは縁遠い天皇の即位だったが
そのことを補うかのように
継体天皇は皇后に仁賢天皇の娘である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を迎えた
この継体天皇の体制は
北陸の豪族が攻め上がり、従来とは異なる新王朝を設立したという説もある
継体天皇は樟葉の次に筒城(現在の京都府京田付近)に遷宮して
山城の乙訓(現在の京都府長岡京市付近)に移り
その後、大和の磐余(現在の奈良県桜井市)に宮を置いた
大和に入ったのは即位から20年もの月日が経っていた
旧王朝を倒すのに時間がかかってしまったため
大和入りが遅れたという
しかし、この継体天皇は日本書記の中では扱いが弱い
新王朝を創設した華々しい様子では語られてはいない
北陸の豪族が朝廷に居座ったようでもなく、武烈天皇の臣下がそのまま残っているので
新王朝を創設したという説にもいろいろ疑問が残る
直系ではない継体天皇の即位に対し
快く思っていない勢力もあったようだが
継体天皇は、旧勢力を脅かすようなこともなく
手白香皇女の婿扱いという地味な存在だったかもしれない
雄略天皇の強権と吉備氏の反乱
5世紀後半になると朝鮮半島は複雑な時代になっていた
高句麗が百済と新羅を圧迫していた
日本書記の中では
この朝鮮半島の3国よりも日本が上であると書かれていて
雄略天皇の外交の様子を伝えている
百済とは友好的な関係であったが
新羅との関係は複雑だった
高句麗に裏切られた新羅を助け
その見返りとして新羅王に天皇に逆らわないように促した
しかし、従わない新羅に対し
紀小弓宿禰(きのおゆみすくね)らを派遣し討たせた
日本は朝鮮半島に対し領土的野望を持っていたが
日本軍の内紛が原因で失敗に終わることになる
やがて高句麗が百済の首都ソウルを陥落させて
百済は滅亡の危機を迎えることになる
雄略天皇は久麻那利(こむなり)を送って復興させた
そして日本にいた末多王(またおう)に百済の王に命じた
雄略天皇の時代は独裁的な王権だったと日本書記は伝えている
気に入らないことがあると
すぐに臣下を処刑してしまう恐怖の天皇として
強権を振るう専制君主制だった
その専制君主制に対して反抗したのが岡山県を支配していた吉備氏だった
吉備氏は、孝霊天皇の皇子である吉備津彦(きびつひこ)を祖先に持ち
日本武尊、応神、仁徳天皇に妃を出すなどした大豪族だった
雄略天皇の専制君主に不満を抱いていた吉備臣前津屋(きびのおみさつきや)は
その鬱憤を晴らすために
強い鶏を自分に見立て、弱い鶏を雄略天皇に見立てて
鶏たちを戦わせていた
このことは雄略天皇の怒りに触れ
即座に前津屋一族は葬られてしまう
雄略天皇は、怒りの矛先をその同族である田狭にも向け
田狭を半島南部の任那に追いやり、妃の雅媛(わかひめ)を奪った
それを知った田狭は新羅と共に雄略天皇への反乱を企てた
雅媛が吉備系の皇子である星川を立てて反乱を起こす
吉備氏はこれを支援したが
大伴室屋(おおとものむろや)によって鎮圧される
このことによって大和王権成立の時からの大豪族だった吉備氏は没落した
意祁と袁祁②
- 2017-07-01 (土)
- 古事記
正式な皇位継承者として都へやってきた意祁と袁祁に
平群氏の志毘臣(しびのおみ)が反抗的な態度を示した
袁祁が気に入った娘を横取りしてみたり、歌で挑発したりした
調子に乗った志毘臣は意祁と袁祁の殺害を計画するような歌を
臣下の前で歌ったりした
平群氏は雄略天皇の時代に大臣となり
葛城氏にかわって力を付けてきた豪族だった
平群氏の反抗的な態度は
葛城氏の血縁の兄弟が突然出現したことによる反発だった
現在は弱体化している葛城氏だが
ここで意祁と袁祁の兄弟が皇位につけば
再度力を付けて台頭してくるかもしれないとも考えたのだろう
意祁と袁祁は相談して兵を送り志毘臣を葬った
何かと邪魔をしてきた志毘臣の存在がなくなると
皇位継承への道が開けてきた
意祁と袁祁の兄弟は話し合いの結果
袁祁が皇位を継承し第23代顕宗天皇が誕生した
皇位についた顕宗天皇は殺害された父、忍歯の遺骸を探すことから始めた
殺害現場を目撃した老婆の証言をもとに
ようやくばらばらにされた遺骨を探し出した
遺骨発見の功労者である老婆には褒美を与えた
そして苅羽井で自分たちの食事を奪った豚飼いの老人や
父の殺害に関与した蚊屋野の韓岱には処罰を下した
そして、顕宗天皇は父の殺害を企てた雄略天皇がどうしても許せなかった
しかし雄略天皇はすでにこの世にいない
そこで、雄略天皇の陵を破壊して非道に報いようと考えた
その計画を引き受けたのは兄の意祁だった
しかし意祁は陵の一部を壊しただけで帰ってきてしまい
これ以上、破壊するのはよくないと顕宗天皇を説得した
顕宗天皇は意祁の説得に応じることで報復の連鎖が絶たれることとなった
安康天皇の時代から続いてきた骨肉の争いも幕を閉じたのだった
古事記の物語はここで終わる
あとは、仁賢天皇から推古天皇までは
簡単な紹介となっている
古事記は文字通り古い時代の天皇家の話
あとは古事記の書かれたころから見たら近代史として扱われる
意祁と袁祁①
雄略天皇が崩御して雄略天皇の息子の白髪命(シラカミノミコト)が王位を継いだ
白髪命は皇族の中では唯一の皇位継承者だった
白髪命は第22代清寧天皇として即位する
しかし清寧天皇は、後継ぎを作らないまま崩御してしまった
雄略天皇が、ライバルたちを葬り続けたつけがまわり
とうとう皇位継承者が誰もいなくなってしまった
臣下たちは皇統存続の危機にさらされ
雄略天皇に殺された忍歯王(オシハノミコ)の妹である飯豊王(イイトヨノミコ)に政務を託した
初の女性天皇と言えば推古天皇だというのが周知の事実であるが
古事記では飯豊王が宮の名称まで書かれていて天皇として捉えていたふしがある
「仁徳天皇から推古天皇まで19天皇」と書かれているが
飯豊王を含めないと19人にならないことになる
正史上での初の女性天皇は推古天皇だが、それ以前に幻の女性天皇がいた可能性が高いことになる
男子の皇位継承者が途絶えてしまって
都には困惑が広がっていたが
そんな中、朗報が届くことになる
播磨の志自牟(現在の兵庫県三木市志染町)で、山辺連小楯(ヤマベノムラジオダテ)が
亡き忍歯王(オシハノミコ)の遺した子を2人見つけたという
意祁と袁祁という2人の皇位継承者の登場に
人々は安堵した
この兄弟は、それまで苦労の連続だった
雄略天皇に兄弟の父が蚊屋野(現在の滋賀県八日市市)で殺されると
兄弟は危険を感じてその場を離れて
苅羽井(現在の京都府木津川市綺田)に逃げた
この場所で強欲な豚飼いの老人に食料を奪われ
食べるものがないまま玖須婆(現在の大阪府枚方楠葉)の渡しを越えて
志自牟へやってきたのだった
兄弟は皇族の血を引きながら下層民になってしまい
馬の世話をしながら志自牟の豪族に従えていた
山辺連小楯がその豪族の宴会に行った際に
袁祁が自身の生い立ちを歌にして歌ったことから
その身分が発覚した
この情報は後継ぎを待ちわびている都へ早馬を使って伝えられた
兄弟の叔母で政権を預かっていた飯豊命は大変喜び
意祁と袁祁は皇位継承者として都に迎えられることになった
大長谷命の時代③
激しい権力争いで次々と身内を葬って
大長谷命は第21代の雄略天皇となった
その争いで見せた無慈悲とも思える様子は
皇位についてからもその片鱗を見せる
地方豪族の屋敷が豪華すぎるからといって焼き払わせたり
盃に落ち葉を浮かべたまま献上したことに怒り下女を殺そうとしたり
横暴な姿を古事記の中で書かれている
その一方で女性関係は優雅に描かれている
皇后となった吉野の童女、丸邇氏の娘である袁杼比売(オドヒメ)に歌をうたいながら愛をささやいたエピソードもある
そんな中で、雄略天皇にまつわる悲しい恋愛物語がある
ある日、雄略天皇は美しい少女であった赤猪子(アカイコ)を見染めた
赤猪子に将来宮に召すと約束をして、その約束を忘れてしまった
赤猪子は、その天皇の言葉を信じて待ち続けて
80年も経ってしまった
80年もの年月は美しかった時代の面影はなくなり
赤猪子は雄略天皇に対して、女の盛りを無駄にしてしまったと嘆いた
雄略天皇は虚しく過ぎ去ってしまった時間を想いショックを受けたのだった
一方、政治的には強権を振るい
国民から恐れられた雄略天皇の相反する弱い姿も古事記では伝えている
ある日、雄略天皇が葛城山に登った際に
大きな猪が現れて、矢を放つと猪が追いかけてくるので
木の上に登ったというエピソードがある
同じ葛城山では不思議な体験をする
天皇と同じ扮装をした一行が向かいの尾根に現れた
名前を聞くと、葛城山の一言主大神(ヒトコトヌシノオオカミ)だと答えた
雄略天皇は、神と聞いて拝礼し物品を献上すると
その一行は山の麓まで降りてきて天皇を見送ったという
この二つの話は、雄略天皇と葛城氏の和解とも解釈できる
葛城山は葛城氏の山であり
一言主大神はその氏神だ
その氏神を雄略天皇が敬ったということで
和解したことを伝えるエピソードになっているという説がある
雄略天皇の妃である韓比売(カラヒメ)は葛城氏の出身であることから
その時すでに力は弱まっていて
敵対する意味もなくなったと思われる
大長谷命の時代②
安康天皇の殺害の知らせを聞いた大長谷命は
今後のことについて相談するために兄である黒日子王(クロヒコノミコ)のもとに向かった
しかし相談しても黒日子王は報復に向かう様子はなく
怒った大長居谷命は兄を斬り殺してしまった
もう一人の兄である白日子王(シロヒコノミコ)の元を訪れたが
白日子王の態度もはっきりしない
大長谷命は白日子王を小治田(現在の奈良県明日香村)に連れ出し
穴に生き埋めにして殺してしまった
大長谷命は、兄たちが裏で目弱王を操っているのではないかと疑心暗鬼になっていたのだった
大長谷命は兵を集めて都夫良意富美(ツブラオオミ)を攻め
激しい戦いとなった
都夫良意富美は娘の訶良比売(カラヒメ)と領地を明け渡すと約束しながらも
目弱王をかばって戦い続けたが
ついに力尽きてしまい
最終的には、かばいきれなくなった目弱王を殺してしまい
自らも首を斬って自害してしまった
戦いに負けてしまった葛城氏は
このことによって力を失い凋落へと向かっていった
大長谷命は近江の人から熱心に狩りに誘われたので
弟の市辺之忍歯王(イチノベノオシハノミコ)と一緒に
蚊屋野(現在の滋賀県八日市市の蒲生野)に出かけていった
市辺之忍歯王の行動を不審に思った大長谷命は
罠だと疑って狩場に着いて矢を使って殺害してしまった
あまりの怒りに大長谷命は
さらにその遺体を切り刻んで埋めてしまった
市辺之忍歯王の子ども達は
危機が迫っているのを察し
播磨(兵庫県)に逃げて、牛飼いや馬飼いとして働き
地方氏族である志自牟(シジム)に仕えた
市辺之忍歯王は、履中天皇と葛城の黒日売の子で
葛城氏の血が濃いような皇子だった
市辺之忍歯王が大長谷命を殺害しようとした背景には
葛城氏の巻き返しの策だったと思われる
市辺之忍歯王が殺害されたことにより
葛城氏の勢力は弱まり
代わって平群や大伴、物部氏などが台頭してきた
また市辺之忍歯王は有力な皇位継承者でもあったので
殺害することで大長谷命の即位は盤石なものとなった
兄2人と弟、目弱王を葬ったあと
仁徳天皇の継承者は大長谷命ひとりとなったのだった
大長谷命の時代①
第20代天皇の安康天皇は
実の妹と禁断の恋に落ちた兄の木梨之軽王(キナシノカルノミコト)を排除して皇位に就いた
安康天皇は同母弟である大長谷命(オオハツセノミコト)をとくに目をかけていた
安康天皇は、若日下王(ワカクサカノミコ)を大長谷命の妻にしたいと考えた
その許可を得るために、その兄の大日下王(オオクサカノミコ)のもとに
根臣(ねのおみ)を送った
大日下王は、その提案に快く応じ
その証として押木の玉縵(おしきのたまかずら)を献上した
しかし、根臣は押木の玉縵が欲しくなってしまい
大日下王が拒絶したと嘘の報告をしてしまうのだった
安康天皇は、それを聞いて腹を立て
大日下王を殺してしまい、大日下王の正妻である長田大郎女(ナガタノオオイラツメ)を奪って皇后にしてしまった
大日下王は有力な皇位継承者だったので
安康天皇のこのような行動の背景には
政権基盤を確実に固める意味合いもあった
安康天皇は大日下王と長田大郎女の子である
7歳の目弱王(マヨワノミコ)を引き取って育てていたが
ふと心配になり皇后に相談した
「目弱王は、実の父を殺したのが自分だと知ったら反逆してくるのではないだろうか?」と
その時、御殿で遊んでいた目弱王はその言葉を耳にしてしまい
その場で刀をとって、安康天皇の首を落として
父の復習を果たした
そして目弱王は、そのまま大臣の都夫良意富美(ツブラオオミ)の屋敷に逃げ込んだ
都夫良意富美は葛城氏の長だった
葛城氏は履中、反正、允恭と3代にわたって外威として政権の核を担う実力者だった
安康天皇の母が皇族出身ということもあり
葛城氏は朝廷と距離を置いていたが
王家に対抗できるほどの大豪族である
目弱王は、そんな都夫良意富美のもとなら安全だろうと考えて逃げたと思われる
天皇の殺害という前代未聞の大騒動となったが
歴代の天皇が殺害されたのは
安康天皇と、第32代崇峻天皇だけである
皇太子の禁断の恋
実兄二人が皇帝となった男浅津間若子宿禰命は仁徳天皇の第4子だった
男浅津間若子宿禰命は体が弱く長く病床についていたので
皇位継承を断っていた
しかし妻たちの説得に応じるかたちで第19第允恭天皇となる
この皇位継承問題に関しては背後に外威として政権を支えていた
葛城氏の思惑もあったと言われている
允恭天皇は新羅王が派遣してくれた薬に詳しい金波鎮漢紀武(コムハチニカニキム)によって病も癒えた
允恭天皇は皇位に就くと
臣下や豪族の氏姓を正すことに着手した
臣下や豪族の中には
古くから朝廷を支えてきたとウソを言って
よりよい氏姓を獲得して出世しようとたくらむものが多くいたからだ
甘樫の丘(現在の奈良県明日香村)にある甘樫坐神社に群臣を集め
煮え立つ釜の中に手を入れる盟神探湯の儀式を行い真偽を占った
これによって、偽りの氏姓をかたる豪族はいなくなった
允恭天皇には9人の子がいた
允恭天皇は最年長の木梨之軽太子(キナシノカルノミコ)を皇位継承者として皇太子とした
しかしこの木梨之軽太子は愛してはいけない人を愛していた
同母妹の軽大郎女(カルノオオイラツメ)である
この時代の皇族は、異母兄弟との間であれば問題にはならなかったが
同母妹は決して許されない間柄だった
このスキャンダルが世間に知れ渡ると
木梨之軽太子は次期天皇には相応しくない人物と見られ
人々の信頼は無くなっていった
允恭天皇が亡くなり皇位継承問題が浮上すると
木梨之軽太子の弟である穴穂命(アナホノミコト)に次期天皇としての期待が集まった
その動きに反発した木梨之軽太子は
大前小前宿禰大臣(オオマエオマエノスクネ)の家に駆け込み武器を用意した
その動きを封じるために穴穂命は屋敷を囲んだ
木梨之軽太子は降伏し
伊予の湯(現在の松山の道後温泉)への流刑の処分が下された
流される木梨之軽太子は残された軽大郎女に歌を詠んだ
「鶴の声が聞こえたら私の名前を口にしてほしい」と
軽大郎女は木梨之軽太子のもとへ向かい
めぐり合えた二人は世をはかなみ死を選んだ
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