札幌・恵庭・千歳・江別の石材店 丸五石材工業
日本の庶民の仏教
インドにおける大乗仏教の「空」や「廻向」の考えによって
仏教は、大きな転換期を迎えた
古代インドの「六道輪廻」の説や、「因果応報」の考え方に
この大乗仏教の「廻向」の思想が
日本の仏教の歴史を語る上で欠かせないものとなってくる
なぜなら、これらは
日本の仏教的な、先祖供養や葬儀、お墓などの仏事を支える
基盤ともいえる思想だからである
そのような意味でも、これらの思想は
現代にいたっても、日本人に大きな影響を与えてきたと言ってもいいだろう
そして、日本の宗教を語る上で欠かせないのが
庶民の仏教である
昔は、現代のように情報伝達技術が発達しておらず
口伝えに語られたもの、書物に残っているものなどを参考にしても
どの程度、正確に伝わったかは定かではないが
それが、本来の仏教とは違うのではないか?と庶民の解釈に批判的な学者もいる
しかし、現代のお墓などの風習を考える上で
この庶民の仏教の解釈は欠かすことができない
それは、1500年以上もの間に築きあげてきた日本人のアイデンティティとも言えるからである
それを純粋なインドの仏教思想と違うからと言って評価せず
学者などが無知な庶民の俗信と決め付けるのはナンセンスである
これだけ長い間、日本人の心に確実に息づいている思想であるから
何かの不具合が発生した場合には
自分の感性を信じて、浄化し、軌道修正する力はあったはずである
長い歴史の中では、何度も誤った選択をしていたこともあったかもしれない
それも、歴史や人々を伝達する中で、基軸を固めていったのであろう
そうでなければ、仏教がこんなにも長い間、日本人の心に住み続けるはずもない
庶民は、生活の中の
幸せ、不幸、長生き、病気、死、死後のことから、身近な問題まで
人生の真理を追究する上での思想の矛盾などについて
日本古来の思想以外に納得できるものがあると
それが外来のものであっても積極的に取り入れてきた
そのような日本人の柔軟さが
現代の先祖供養のあり方を創造してきたのだと考えられる
その背景には、日本人の受け入れ方のみならず
中国文明のすばらしさも忘れてはならない
裏を返せば、仏教や儒教をはじめ
その思想や宗教に、日本固有の宗教では及ばなかったような
日本人が納得する高度な内容が含まれていたということだ
それほど、当時の中国は、文明先進国であったのである
大乗仏教について
以前にも大乗仏教について書いたが
いま一度、おさらいしておく
簡単にいうと、自分だけじゃなく他人も救うことを目指すのが大乗仏教
「自利利他」(じりりた)行の実践である
この大乗仏教を語るにあたり欠かせないのが
「廻向」(えこう)という考え方である
インド古代仏教では、現世の行いが来世を決める「輪廻転生」の考え方があるのだが
この場合、自分の行いは自分に返ってくる…という原則がある
しかし「廻向」とは、自分の良い行いを他人に分け与えることができる考え方である
簡単に説明すると
地獄に行くしかないような悪人に対して
自分の余っている良い行いを分けてあげて
成仏させる…という、業報の鉄則を破った恩寵の宗教なのである
この大乗仏教の業の仕組みを銀行口座になぞらえて説明し、功徳を預金と考えると
1. 預金と借金は、幸福と不幸とに、つまり金額の多い・少ないに(量的に)対応する(=物理的必然性)
2. 預金も借金も持ち主だけのもので、他人には権利も責任もない(=自己責任性・自業自得)
3. しかし、自分の預金は、他人に融資できる(=方向の転換)
4. 預金は家や車などのものや精神的なものに転換できる(=内容の転換)
つまり3の方向の転換が「廻向」ということになる
預金が持ち主のものだけでも、他人のものでもないからこそ
自分の意志で自由に、他人にゆずることができるように
功徳も自分の意志で振り分ける…という考え方が大乗仏教といえる
因果応報の考えでは、自分の悪行(借金)が
自らの責任で地獄の苦しみを受けなければならなかったものが
大乗仏教では、みんな解消されてしまうことになる
苦しみは喜びを求める心から
この世の中では、特に現代の人々は
「欲求を満たすこと」で、幸せになれると考えている人が多いのではないだろうか?
それゆえ、人は欲求を満たすことと、苦しみを取り除くことでより幸せに近づくことができると信じていて
人生のほとんどを、欲求の補填と、苦悩の排除に使うのである
食欲、性欲、睡眠欲を満たし
快適さ、便利さを追求し
暑ければ涼しくし、寒ければ温かくする
そこに物欲、名誉欲…など、それこそ108つにもなるであろう煩悩を満たすべく
不快なものを取り除くべく、模索していく
仏教では、その幸せの源のように思われる欲求こそが
苦しみの元であると考える
苦しみとは、すなわち「欲求が満たされない」という不満であるから
欲求そのものがなければ、苦しみも発生しないと考える
「あらゆる現象には、永久に不変なもの(=我)はない」
世の中に起る全てのことは無常なのである
人の命も無常であれば
人の心も無常である
無常である…という意識を日常の中でも持っていれば苦しみは半減するであろう
仏教では「主体となるもの(=我)」を全く認めず
完全に否定をした「無我」の立場をとる
では、もしそうであるなら
私たちが実際に見たり聞いたり触れたり感じたりするものは何なのだろうか?
それは一瞬一瞬に変化する一切のものがある条件(=縁)によって生み出している現象にすぎない…と仏教ではいっている
つまり、そのものだけでは存在しないものが
ある条件を備えることで、固定的に連続しているように感じられる「現象」で
その現象が、この世の真の姿(実相、真如)である
これらを「縁起」という
縁起とは、読んで字のごとく「縁って起こる」という意味で
「因果」ともニュアンスが似ている
これも大乗仏教が起こると
解釈が少し変わってきて
「永久に不変なものとして存在しない」のであれば
ものの本質は「空」であると考えられた
この「空」によって「縁起」を解釈すると
「迷いも悟りもその本質は『空』である」と、大胆な解釈になってくる
その「空」を知ることが智慧であると考えられるのである
ちなみに智慧とは、般若のことであり
般若はサンスクリット語で「パンニャ」の音写である
この場合「正しく『空』を知る」智慧で
音は同じだが「知恵」や「智恵」とはハッキリと区別されている
六道輪廻
輪廻転生という考え方は、仏教において深く語られる言葉
簡単に言うと「生まれ変わり」ということだ
科学合理主意を唱える現代では否定的な人も多いのだが
仏教においては、古くから輪廻転生は真理として語られてきた
そして輪廻する場所は、また同じ場所というわけではなく
六つの世界に輪廻する…という考えが「六道輪廻」である
その六道とは「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天」の六つである
人間、もしくは全ての生き物がこの六つのいずれから転生してきて
来世も、この六つのどれかに転生すると考えられている
では、どのようなことで転生する場所が決まるのだろうか?
これは、前世での行ない(業や宿業、インドではカルマなどと言われる)の良し悪しによって転生場所が決まると言われている
「前世での善いおこないの結果としては楽を、悪いおこないの結果としては苦しみを
必ず来世で受ける」という考えが『前業楽果、悪業苦果』(=「善因善果、悪因悪果」)というものである
そして六道は、どの世界に転生したとしても「死」と「苦」はから
逃れることはできない
「死」と「苦」の存在する世界は、仏教において最終目的ではないのだ
六道輪廻の原因はすべて「煩悩」の影響を受けている
智慧あるものは、本当の幸せや真理を追い求めて修行の道を選んだりするが
無知であることで欲望に振り回される魂は、その欲望に沿った生き方をした結果
その行いが業として、次の転生を決定する
だから仏の道を目指す者は、煩悩を断ち切り
永遠に繰り返される六道輪廻の道から抜け出すことを目指すのである
これがすなわち「解脱」である
「解脱」というのは、涅槃のことであり菩提ともいう
この六道輪廻の循環から抜け出し解脱するものが成仏できるのである
解脱したものは、煩悩に振り回される六道の此岸(娑婆世界)を離れて
彼岸の浄土を往くことを許され、仏の国へ往生することになる
仏の国の浄土には「死」も「苦」もなく
悩み、苦しみ、死の恐怖から解き放たれ
往生した人は、二度と六道輪廻を繰り返すことはないと考えられているのだ
それゆえ、現世に置いて功徳を多く積み
魂をより高い世界へ引き上げる努力や修行を行なうのである
「霊」と「霊魂」について
一般的に「霊」や「霊魂」という言葉はよく使われているが
実際に何のことを指しているかについて具体的に説明することは難しいだろう
「霊」は、死んだものから抜け出した「魂」と考えられる場合が多く
子どもなどが使う「おばけ」というのも、この「霊」に該当する場合がある
よくテレビなどで霊媒師が登場し
霊を憑依させ、会話をする…などといったものが行なわれていたり
「霊がたたる」といって、お払いをするものがいたり
その解釈によっても、「霊」のニュアンスは多少違ったものになってくる
ここでは、「霊」は存在するのか、しないのか?
といった検証をするつもりはない
この「霊」というものは、一体どのように考えられていた存在なのかを説明していきたいと思う
私達は、お墓参りをする際、もしくは仏前に手を合わせる際
自然と心の中で、対象となる故人に向かって話かけている場合が多い
「安らかにお眠りください」
「安らかに往生してください」
「ご冥福をお祈りします」
「私達を見守ってください」
などが多いだろう
その声を掛けている相手が、「霊」であると考える場合が多い
それは、「霊」の存在を感じて行なっている儀式ではなく
(感じている人もいるのかもしれないが…)
頭の中で、その存在を信じて声を掛けている
もしくは、そうするものだと慣習になっているものなのだろう
お墓や位牌に、故人がいると信じ
その故人に向かい、自分の気持ちを伝えることで
先祖とのつながりを感じることができれば
それはそれで、幸せなことなのである
古代中国や朝鮮半島では
その故人に話しかける「なにか」を「霊」や「霊魂」と呼んでいたので
そのまま日本でも、そう呼ばれるようになったと考えられている
さかのぼって、インド仏教では本来「霊」や「霊魂」の存在は考えられていなかったようだが
生まれ変わる場所を示す「六道輪廻」という考えがある
中国では、「霊」の存在がなんとなく信じられていたので
インドから中国に仏教が伝わった際には
「六道輪廻するのは霊魂」と、考えられるようになった
それが、そのまま日本に伝わってきたと考えられる
インド仏教では、実は「霊」の存在は考えられていなかった…という事実は
中国に伝わった仏教の中では、なかなか受け入れられず
中国仏教に歴史上でも、この「霊」の存在は大問題になっていた
それは、古代中国の「霊魂観」が人々の生活の中に
長い間にわたって、根強く定着していたことから
「霊」の存在を否定していたわけではないが
そのような形で語られていないインド仏教に対して受け入れることが難しく
少し解釈を自分達の都合に合わせて変更して
中国仏教となっていたようである
「門明け」「門開き」
「年始の挨拶」というものを最近はあまり見なくなってきたが
以前は、正月の朝に、お世話になっている人々に
新しい年もくれぐれもよろしくお願いしますと出向く光景が多く見られた
地方によっては、身内以外の人々の家に正月早々に突然訪問することを憚られる傾向もあるが
本家を守っている家などでは、現在も分家や、仕事上の交際相手が訪問してくることを前提として、祝い酒や、もてなしの料理を不足なく用意している家も見られる
しかし、正月はあくまでも「内で祝うもの」として
身内以外への年始の挨拶は、3月中に終わらせておくのが良いとか
場合によっては、6月までには一度は訪問しておくのが礼儀である…など
年始の挨拶は、元旦に限ったことではなく
年が明けて、最初の訪問日を「年始の挨拶」と解釈する風習もあるのである
四国の中央の山地のかなり広い地域では
「本家への年頭礼」を「かど明け」と名付けて
一家一統の厳重な作法としている場所もある
同じ風習は、ほかの地域でも見られ
元旦の早朝(おそらく日の出前)に分家のものが本家に出向き
本家の表の戸を開く風習を「門明け(かどあけ)」と呼ぶ場合がある
これは、初春の神を本家に招き入れる意味があったようだ
近年では、その後に本家が分家に出向き
門を開けにいく地域もあるようだが
これは、本家、分家の交際を「七分三分にしよう」という考えで
改良された、比較的新しい風習のようである
しかし、本家の者の訪問は
分家の訪問の後になっていたようなので
本家に開けてもらうまで、門を開けずに待っていたのでは
あまりに時間が遅すぎるように思われるので
この風習は、形上のものであって
本質は、両家で行き来して、祝い酒を酌み交わすのが
「門明け」の正体になっていき
だんだんと、その名に沿った行動がなくなり
名前だけが残るので、なんとも不明な感じは否めなくなる
長野の方では、分家のものが注連縄を持参し
本家の神棚に張り渡すことを「門開き」と呼んでいた
正月の飾りは、大晦日に飾ることを「一夜松」と呼んで嫌う風習もあるので
正月の、2、3日前には飾ることを考えると
この場合の「門開き」は、正月ではなく、年末の行事として捉える方が自然である
中国での仏教の受容~儒教、道教と仏教の違い~
弘法大師・空海は25歳の時「聾瞽指帰」を執筆している
これは空海自身の自伝的な内容も多く含まれているが
儒教・道教・仏教の三つの教えの特徴を説いた思想書である
その書の最後に空海は次のような意味の言葉を残している
「儒教も、老荘も現世のことばかりに特化して説かれていて、来世の果報を願ってはいない」と
儒教・道教と仏教の違いは様々あるが
大きな違いといえば、仏教は来世があると想定されていることだろう
その違いによって大きな影響を受けた中国の例がある
参考は、元大阪大学名誉教授の森三樹三郎氏の「中国思想史」による
六朝人は、仏教思想のうち、どのような部分に惹かれたのであろうか
(六朝時代は220~589年の約370年間である)
六朝人の知識人達は、儒教を離れての老荘思想を学ぶようになる
この老荘思想と仏教の哲学は、根本的に共通項が多く見られた
仏教の思想が「空」であるのに対して
老荘の思想が「無」であるということを考えてもわかるだろう
むろん両者は完全に同じものとは言えないが
少なくとも「有」を否定から出発する思想…という点では同じだろう
六朝人は、なじみの深い老荘を通じて、仏教を理解しようとしたのは
ごく自然の成り行きであろう
このことから、六朝初期の仏教の教えは、老荘的な色合いの強いものになっていた
この老荘よりの仏教のことを「格義仏教」と呼んでいる
しかし、仏教に対する哲学的理解は
専門家である僧侶や、これに近い水準に達した知識人に限られていて
全体からすると、ごく少数のものであった
一般の知識人や民衆などは、この思想とは全く違った角度から仏教に触れていったのである
それこそが、仏教の「輪廻の説」である
輪廻説は、ご存知の方も多いように「生まれ変わり」のことである
人生はこの現世の一世だけではなく
生前の過去に無限の前世が存在し
死後の未来にも無限の来世が続くと考える説である
そしてこの「前世」「現世」「来世」の三世は
互いに無関係ではなく、前世の行為の善悪は現世の禍福をもたらし
現世の行為の善悪は、来世の禍福を招く…というものである
この三世を跨いで、因果応報の理が働くので
中国人は輪廻説のことを「三世」の説、または「賛成報応」の説と呼んでいた
従来の中国では、現世だけしか考えていなかったので
この仏教の輪廻説が世に広まった時は、大きな衝撃を受けたと伝えられている
そのことは『後漢紀』にも記されているので引用する
仏教の説くところによれば、人間は死んでも、その霊魂は滅びず、ふたたび新しい肉体に結びつく。その人間の生時に行った善悪は、死後の世に必ず報応を受ける。したがって仏教の尊ぶところは、善をおこない、道を修め、これによって霊魂を錬ってやめず、最後には無為の境地に入り、仏となることである。この様な仏教の生死報応の説い接した王公大臣は、みな恐怖の念をおぼえ、自失しないものはなかった。
あら年とあら御霊
喪の穢れを忌み嫌う…という感覚は
現代社会において、どのくらい残っているだろうか?
近しい人の死に対して
現代は、1年は喪に服すと言われているが
昔に比べれば、その行動の制限は軽くなってきているように思われる
現代は、日常生活が経済活動を基盤としているためか
喪に服す行動の制約が、大きな弊害となることは否めない
そんな現代の都合上、「喪の穢れ」…などと悠長なことを言っていると
生活がままならなくなるからだろう
そして、たとえ行動が制限されなくとも
死者を悼む気持ちに変化はない…と言い切ることが難しいのも現実である
簡素化された死者に対する儀式―
当然、先祖に対し思いをはせる時間も少なくなり
瞬く間に、日常と変わらぬ生活を送っている
その結果、家から死者が出ること事態が
昔に比べて、大事になっていないのだ
行動があるから思いがあるのか?
思いがあるから行動になるのか?
どちらにしても、現代の行事様式では
先祖に対する「思い」が軽くなっていること間違いないだろう
時代や、地域によっても大きく違ってくるが
死者に触れたものは「穢れ」と扱われ、生活上で大きな不便を強いられる
極端な場合には、隔離されたり
死者に触れたものが、別の者と接触した場合にも
二次感染的な扱いをされて
「穢れ」は、一種に伝染病のような扱いもされていた
公式行事(朝廷の儀式)に携わるものは
身内に死者が出た場合には
職務に関わることも許されず
一定の期間が過ぎるまで、謹慎状態となった
当然、めでたい席、晴れの行事に関わることは許されず
正月も、通常のように迎えることができない
喪に服しているものは、人様のしめ縄をくぐることは禁止され
そのかわりと言ってはなんだが
正月を迎える前に、お見舞いという形で訪問を受ける
「あら年(死者を出した年)の見舞い」である
見舞いの言葉は
「本年は存じも寄りませぬあら年でお淋しゅうございます」
「ことしは誠にお淋しいお年取りでござんす」
などと言われていた
めでたい年始のあいさつができないことに対する嘆きでもあるのだが
そちらは死者だ出たので、めでたい行事ができないが
私達は、淋しさに付き合いもせず
お祝いをしてしまうけど、悪く思わないでくださいね…
というニュアンスも含まれていたという
近年は「あら年」という言葉も使われなくなってきていて
死者を出した家…という疎外感も感じることがなくなった
生活が便利になればなるほど
死者に対する行いは、簡素化されていくようにも思われる
仏教の変化
仏教とは何か?と聞かれて
答えを出せる人はどのくらいいるだろうか?
日本人の多くが信仰しているとされている仏教であるが
地域差、宗派などにより解釈は様々で
行事の執り行ない方でしか、説明できない場合も多い
仏教はどんな宗教か?
そして仏教の最終目的は何か?
簡単に説明すると
仏教とは、「仏に成ること」「成仏すること」を最終目的とする宗教であるといえる
人間の苦しみから解放されて
「悟り」を開くこと
その「悟り」を得た人を
「仏」「仏陀」「覚者」「如来」などというが
お釈迦様が目指したのは、この「悟り」を得た「仏」になることだったのだ
しかし、私達が普段使っている仏教という言葉には
様々な意味と内容があり
地域や、時代、宗派などによって違った形で表れている
仏教の基本となる中心的な教え(教義)は約2500年前にインドでお釈迦様によって説かれている
それゆえにこれを否定するような仏教は存在しないはずなのだが
長い歴史の間に仏教が、様々な地域に、多くの人々によって伝わったので
仏教はゆっくりと変化してきた
単純に2500年前にお釈迦様が説かれた「原始仏教」と
21世紀の日本で、私達が身近に感じている「現代日本の仏教」とでは
全く別のものと考えなくてはならないほど違うものなのだ
もし、お釈迦様が現代日本の仏教を知ったら
間違いなく「これは私が説いた仏教ではない」と言うはずだ
それほど、仏教と一言で言っても
人によっては、全く違う意味を持っているのである
なぜならば、これだけ長い年月をかけ
世界を股にかけて広く伝達されてきたので
その土地の文化・風習によっても解釈が変わり
歴史的背景によっても解釈が変わっていく
例えばインドの中だけでも
「原始仏教」「小乗仏教」「大乗仏教」
そして大乗仏教の中から生まれて最後の仏教となった「密教」まで
様々に変化している
地域でいうと
スリランカ・タイ・ミャンマー・カンボジアなどの南へ伝わった南方仏教
ブータン・ネパール・チベット・中国・朝鮮半島・日本などの北へ伝わった北方仏教
とでは、それぞれ独自の仏教を形成している
その他にも、何に重点を置くかでも変化を見せている
宗教は本来「学」と「行」が両輪のように連動するものだが
「学」を重んじる「学僧」と、「行」を重んじる「行僧」とが歴史上対立したりしていた
このように
歴史的な変化(時間的変化)、地域的な変化(空間的変化)、質の変化(質的相違)を理解して現代の仏教を解釈しなければ
仏教の本質は、見えてこないものなのだ
仏教の変化を理解しえ
初めて、仏教論の話に入っていけるのである
波羅蜜
仏教では、大きな川を挟んでこちら側の岸を「此岸」といい
むこう側を「彼岸」という
こちら側の世界は「俗世」であり迷いの世界である
むこう側の世界は悟りの世界「浄土」である
その大きな川を渡り、悟りの世界へ行くことを仏教では大きな目標とし
この世で修行を積むのである
人は「大乗」か「小乗」に乗り川を渡る
「大乗」と「小乗」とは
文字通り、「大きな乗物」と「小さな乗物」ということだが
小乗は一人しか乗れない小さな船と考えていいだろう
大乗は大きな船なので、多くの人を乗せることができる
その大きな船の船長が菩薩であると考えるとわかりやすいだろう
どちらにしても人が亡くなれば「彼岸」へ到達するのだが
何に乗って行くのかが大きな違いとなる
菩薩とは、自分だけ真理の追究を行なうのではなく
多くの迷える人々をも導き、真理を解き
誘導することも行なう崇高な魂であると言える
そしてその「菩薩」になるためには
六つの資格が必要である
その六つの実践科目が「六波羅蜜」である
「波羅蜜」は「波羅蜜多」とも書くが
この漢字に意味はなく
サンスクリット語の「パーラミター」の当て字である
パーラミターの元々の意味は「最高の状態」「究極理想の状態」と解釈されている
しかし中国や日本の仏教では伝統的にこれを
「彼岸へ到る行」や「さとりの世界へ到るための行」などと解釈されている
仏教で「六度」と言えば六波羅蜜のことである
その菩薩になるための条件である六波羅蜜は以下の六つである
1.「布施」…財施、法施、無畏施で、財産や物質を与えたり、真理の教えを説いたり、安心を与えること
2.「持戒」…戒律(ルール)を守ること
3.「忍辱」…苦難に耐え忍ぶこと
4.「精進」…たゆまず仏道を実践すること
5.「禅定」…精神を統一すること
6.「智慧(般若)」…真理を見極め、さとりを完成させること
- サイト内検索
- Feeds
- Meta