札幌・恵庭・千歳・江別の石材店 丸五石材工業
日本神話と汎神論
「国生み神話」は、国土の誕生だけではなく
この世の全ての物や人…万物全ての誕生の源である
その全ては、イザナギとイザナミの二柱の髪によって生み出された
「神の生み子」である
日本の国土や、あらゆるものに「神」の血が流れている
国土は、もちろん、海、川、草木などの植物、人、動物…
そして、もちろん微生物にも、「神」の血が流れていて
全てのモノに神が宿る「汎神論」の世界である
また、その世界は「八百万の神々の国」とも言われている
「国生み神話」を読むと、気がつくだろうが
国生みの主役は、二柱の神ではなく
「女神イザナミ」が主役であることがわかる
イザナミは、この世のあらゆるモノを生み続け
息絶え絶えの状況でも、生み続けることは止めないのである
すなわち、私達は、イザナミの子孫なのである
私達は、ごく自然に
亡くなることを想像すると
「土に帰りたい」とか、「故郷の大地に帰りたい」などと発言する
これは、自分の亡骸を大地に帰したい…という感情であり
大地に帰すこと、すなわち
イザナミは日本の「国生みの母」であることから
太古の「亡き母=妣(はは)」なので
私達は、亡くなると「妣の国」に帰ることを強く望む
そして、妣の大地に帰るところが、大地に建つ「お墓」ということになるのだ
ひとつ、日本の国の成り立ちで
おもしろい言葉の表現方法がある
日本の思想は
国は、「うむ(生む、産む)」または、「なる(成る)」
というように表現する
また、西欧では「つくる(創る)」と表現する
これは、日本の思想史を理解する上で
非常に役立つ、重要なキーワードである
そして、この「うむ」「なる」でも
言葉に違いがあり
神話には、多くのモノが出てくるが
イザナギと、イザナミが男女の性的な交わりをして生んだ
神々や、モノは「うむ」と表現され
それ以外に
高天原に初めて登場する神や
イザナギ一人だけの世界に登場する神は
男女の交わりがないので、必ず「成る(なる)神」という表現になっている
その逆に西欧では
国は、神が創造したもの…という思考である
いわゆる「一神教」であり
多くの神々によって全てのモノが存在する日本のような思想は
「汎神論」「多神教」と呼ばれている
昔、この汎神論は、西欧の宗教と比べて未発達である…
と考えられてきたが
最近では、その評価に変化が見られ
「神話は、人類の宝庫である」との見方も強くなってきている
儒教における先祖祭祀と祖先崇拝
古代の中国は、アジア圏において先祖祭祀において先進国であった
近隣の、日本や朝鮮半島が、先祖祭祀をないがしろにしていた…というわけではなく
先祖祭祀や、祖先崇拝の習慣は存在していた
中国が先進国である…という意味には
先祖祭祀や、祖先崇拝を思想として体系化し、それを記録に残していた…という意味である
この概念から考えると、日本や朝鮮半島は、先祖祭祀における後進国であると言わざるをえない
古代中国は、現代まで約3000年以上もの間
家庭生活はもちろん、政治にいたるまで常に先祖祭祀や祖先崇拝は重要な行事であり、正当性を持って行われてきた
ここでの中国の先祖祭祀や祖先崇拝と比較のため
儒教の先祖祭祀や祖先崇拝と比べてみる
ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは
儒教は、カテゴリーとして「宗教」には属さないと考え
儒教は、世俗社会の「道徳倫理」であると解釈している
以下、マックス・ウェーバーの言葉を引用する
「救済の思想などは、儒教的倫理にはもちろんまったく存在しなかった。
儒教徒は、社会的な無作法というあさましい野蛮から救済されること以外に、霊魂の輪廻からも、あの世で受ける殃罰からも(両者を儒教は知らなかった)、生からも(これを儒教は肯定していた)、与えられた社会的世俗からも(この世俗のチャンスを儒教は自制によって抜け目なくものにする考えだった)、悪または原罪からも(原罪というものを儒教は知らなかった)、その他のなにかあることからも、「救済」されることを願わなかった。「罪」であると儒教にみなされることができたのは、ただ、孝弟というひとつの社会的な基本義務の侵害だけであった」
このように、儒教は、現実生活での倫理に従い義務として
先祖祭祀や祖先崇拝を行ってきた
先祖祭祀が死後の問題として、死後の世界が思想的に深められることはなかったので
儒教は、宗教ではない…という考えである
仏教は、輪廻転生や因果応報の考えで
儒教の欠陥を補った形になったのだが
そのような基本問題が儒教の先祖祭祀や祖先崇拝には見られないのである
お墓について家族で話し合う
高齢になると心配になるお墓問題
自分の親が高齢になった時や、親の死に直面した時など
家族でお墓のあり方を考える機会がある
その一方、お墓問題は
若干、非日常的な雰囲気もあり
なにかしら自分に降り掛かってくるものがないと
日頃から考えている問題でもないので
いざ、お墓について考える機会に直面した場合
お互いの考え方の相違が露見することも多い
なんとなく、こうではないか…?と予測だけで曖昧にしておくと
実際に、話し合う場面になって揉めることも多いようだ
昔は、先祖代々お墓を継承し
その家の長男が、継いでいく…というルールがあったので
その家の長男は、小さいころからお墓を守ることを言葉として聞いていているので
ある程度の覚悟もできていたかもしれない
しかし、現代は、そのルールが
家族の形態や環境によっても、様々で
子どもが少ないことや
女性しかいない場合
子どもが遠方にいることで、優先順位が変わるなど
一概に、長男が継ぐ…ということだけで片付けられなくなっている
そして、問題に直面してから
憶測を持ち寄り、話し合うので
スムーズに進まない場合も多く
覚悟のないまま、お墓を守る役目を負ったり
親の立場だと、「アテ」にしていた子どもがお墓を守れない事実を知り
愕然とする場合もある
そんな、揉め事を避けるために
個人墓や、夫婦墓など
継承問題を考えなくてもよい方法を選択する人も増えてきた
現代社会は、ライフスタイルの変化に伴い
様々な、生活上での選択を迫られる機会が増えてきた
しかし、日常的なことであれば
対応もスムーズなのだが
お墓問題のように、頻繁に気にする機会が少ないのに
事柄は大きい場合には
考え方の違いが多きく露見してしまうようだ
何が正しく、何が間違っているのかも
ジェネレーションギャップという言葉で片付けられれば良いのだが
問題は、そんなに簡単でもなく
結婚している場合などは
双方の親、そして夫婦間の考え方も埋めていかなければならない
準備のない死の場合は
その決断する時間は、あまりにも短く
溜飲が下りないうちに決定が下されることも少なくない
そのようなことを避けるためにも
日頃からお墓についての考え方をすりあわせておく必要がある
死の問題を日常から言葉に出すことに
タブー感のある雰囲気もあるが
日頃から死を見つめることは、すなわち
「生きる」ことを見つめることになるのだ
誰も、平等に訪れる「死」
だからこそ、確認しておきたい事柄である
死を語る時…それは、家族の絆や愛情を感じる作業でもあるのである
夫婦で同じ墓に入る意味
夫婦は、同じ墓に入ると決めた他人である
その墓の意味を噛み締めて
仏教の夫婦についての教えを
少し現代風にアレンジしたものを紹介していく
墓が、夫婦にとって
ただの祭事の一部でないことが明確になってくるだろう
夫婦とは、鏡である師である
夫婦とは、自分に都合の良い幸せを与えてくれる存在ではない
夫婦とは、人生を共に闘う同志である
夫婦とは、恋愛関係の延長ではない
結婚まで至る夫婦は
同じステージのモノが共に足るを知るために一緒にいるのだ
結婚は、夢物語ではなく、学びの機会である
しかし、多くを学び、共有し、慈愛の心をお互いに投げかけた夫婦は
恋愛関係以上の大きな幸福感を手にいれることができる
結婚のルールは
求めないこと
許すこと
認めること
相手のために努力し、尽くすこと
見返りを求めないこと
自分の選んだ結婚相手である
投げかけると
これらはタイムラグがあっても返してくれるだろう
過剰に求めれば、心は離れていく
結婚生活は、自己成長の舞台である
自分に学びがあれば、それだけで大成功なのだ
共に同じ墓に入ると決めた者同士は
その長い道のりの中
自分の伴侶を、自分の思い通りにコントロールすることが結婚ではないことを知り
共に成長したことを喜び
苦労も喜びも、一緒に乗り越えた同志
死後も同じ場所にいることを考えると
その墓の存在も大きな目標や希望となる
夫婦間に問題がある人は
今一度、夫婦間で
どのような形で墓に入るのか…を考えてみる機会を設けてみると
おのずと答えが見えてくるかもしれない
儀式ではなく
魂となった後、成仏した後のことを考えてみると
もっと答えはシンプルになるはずである
墓は、骨を埋葬する所ではなく
生きる指針になる、通過点なのである
日本の心と美学
人が死を迎えるにあたって
日本人の宗教や、歴史や文化は切っても切り離せないものになっている
日常生活の中で、宗教観などを意識することはなくても
長い歴史の中で、変化は多々あれど
司祭の習慣は、人生の節目で誰もが関わることになってくる
現代は、比較的その習慣も、あくまでも習慣として行うことが多く
その思想や歴史に触れる機会も少なくなってきているように感じる
しかし、この習慣が現代のような形になったのにも理由があり
なにかしらの役割を持っていることは否定できない
それは、思想を深く考える機会が少なくなったとしても…だ
この思想などには、深い意味があり
それは、人が幸せに暮らすヒントだったり
人が生きていく上での、本来の意味を見いだすことにも役立っている
先人の深い知恵と教えがあり
それが、ブラッシュアップされて、現代へ、次世代へと脈々と受け継がれていくことへの責務が私達に問われている
今、少しずつ日本古来の考えや風習が見直されてきている
日本の心は、実はストレス社会で生きる私達への
解決のメッセージも含まれているようにも思う
武士道が脚光を浴びたり
日本文化が見直されたり…
その全ての過程が、私達の生きる意味への回答にもなっている
その中でも、死生観…というもの、特に「死」に関しては
人々が長年に渡り、何かしらの解決を求める事柄ではないだろうか
「死」に関する精神的な学問や教えは
誰もが向かえる局面への、恐怖や疑問の解決の糸口になってくる
私達の先祖である人々が、どのような過程で
それらを解決してきたのかを紐解く作業は
安心と安らぎをもたらすことも多い
そして、他国と比較しても
その思想や美学は
非常に効率的であり、無駄がなく、スマートで、つまるところ真理である
この殺伐とした現代社会において
日本の美学や心を見直すことは
大きな収穫があることは、間違いないように感じるのである
仏教での三道悪
仏教には六道輪廻の考えがあると
以前も記したことがあるが
仏教では、現世での行い如何によっては
天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道
の、いずれかに転生すると言われている
そして、地獄、餓鬼、畜生の3つは、三悪道と呼ばれていて
皆が、避けて通りたいと考えている道である
そして、三悪道に落ちないためにも
現世での行いに気をつけて
来生を、より良い転生ができるように願うのである
しかし、その道が厳しく
欲を滅し、厳しい規律を守り修行に励まなければ
三悪道を避けることはできないと考えられていた
そして、悟りを開いた状態(=解脱)を目指すのである
その道は、煩悩を捨てる道であるため
多くのものは、その道を断念せざるを得ない場合も多く
しかし、三悪道に転生する恐怖もあり
死後の解釈を変えて
全ての死者が仏になれるようなシステムに変わっていった
現代の日本では、宗教観も
冠婚葬祭の時のみに登場するような形で
その教えを深く考えずに
儀式だけを執り行う場合も少なくない
もっと酷い場合には
婚姻する場合と、葬式をする場合に
全く違う宗教の儀式を行うことも少なくない
故に、その宗教観の中に
三悪道に転生する恐怖もなく
取りあえずは、追善供養を行うことで
現世での行いが悪くても
成仏できることになっている
しかし、その敗者復活戦のようなシステムに変わったことによって
現世で良い行いをすべきである…という観念が薄れて
多少悪いことをしても、成仏できる…と考えるのであれば
まだマシな方で
儀式のためのパフォーマンス的な捉え方では
現実主義に偏り過ぎて
目に見えることだけを信じるようになり
行い云々以前の問題となってしまう
そうならないためにも
真理を伝えるべき人間が
正しい解釈を伝えることが重要になってくる
ライフスタイルの変化とお墓の無形化
その昔、家は長男が継ぎ
娘や、次男以下の息子たちは家を出て新しい家を作っていた
それが、経済成長と都市化が進むことで
長男も家から出ることになり
高齢となった親は老後の介護を求めて子どもの住む都市へと移動した
それに伴い、親が守っていたお墓も移動を余儀なくされていったのである
このように都市型共同墓所は
地縁、血縁による地域共同体からに人間の離脱、お墓からの離脱の中で
お墓の流動化や無縁化、個人化へと移行していったのである
人々が、地域からの強いつながりから離れて
個々に合った生き方を選択していく上で、お墓のありかたも変わっていったのである
個人の自由が叶えやすい世の中になったことで
人々は、地縁や血縁の繋がりやしがらみから脱却することになった
これは、物理的な脱却だけではなく
精神的にも脱却していくことになったのではないだろうか…
死後、人の世話になることを避け
散骨…という方法も生まれてきた
先祖の繋がりも、子孫への繋がりをも避けることは
すなわち、全てを自分の責任で完結させる…
人に迷惑をかけない…という考え方に繋がってきているように見受けられる
自分自身の体なのだから、死後の行く先も自分で決める
…ということは、自分の繋がりを否定する考え方にも見えてくる
昨今、自分の存在意義に疑問を持つ人が増えている一方で
その存在を自分の裁量でき決める考えが、当たり前のようになってきている
「限られた命だから、好きな物を食べて、好きなように生きていく」
そこには、仏教の輪廻転生も、因果応報の考えも排除され
死=無
という考え方
死んだら、何もかも終わりだから
好きに生きて何が悪い…という、単独的な考えが
物質科学至上主義の世の中では、当たり前になってきている
そもそも仏教の考えでは
肉体は借り物であり
死後は、その肉体を自然に戻さなければならない
それゆえに、「自分体は、自分の好きに使っていい」という考えには至らない
不徳が、子孫に影響を受けることを考えると
自分の代だけの問題ではなくなるので
その行いには細心の注意を払わなければならない
そのような考え方が基盤となり
地縁、血縁の絆が深まり
自分の代だけで物事の決着をつける考え方にはなっていなかった
このような、現代社会のライフスタイルの変化が
お墓や、地縁、血縁の考え方も変え
人生観を変えていっていることは否めないだろう
何が正しいのか…という議論はここでは控えるが
ライフスタイルの変化と思考の変化が
どのような結果になっているのかは冷静に考えていかなければならない問題である
初詣
元旦を迎え、初詣に出かける人も多いだろう
ここ最近のパワースポットブームに乗って、神社へ参拝する人々も年々増加の傾向にあるようだ
前述させていただいたことがあるが
神社は、寺やお墓と違い
先祖が奉られているわけではない
神道の信仰にもとずき作られた祭祀施設である
そして、この初詣という慣習が出現してきてから
まだ日が浅い
元々は「年篭り」と呼び
大晦日から元日にかけて、家長が恵方の社寺に泊まり込む風習があったが
明治以降には、家長に限らず
元日に参拝する風習となり
鉄道会社も、それに便乗する形で路線を拡大していった
恵方の概念も消えていき
参拝する寺社に規定もなくなり
最寄りの…または、好みの寺社に出向き
一年の計を願うことが習慣となってきた
そもそも、参拝とは
神に我欲を押し付けるものではなく
そこに存在する神に
様々な事柄に感謝することである
しかし、昨今の初詣に代表される参拝は
何かを祈願したり、神に我欲を押し付ける場へと変化してきている
一年に一度しか参拝しない人も多く
その参拝マナーには辟易することも否めない
境内は、人に溢れ
神の通り道も塞がれ
そこに神が存在するような神々しい空気も感じることが難しい
その上、我欲の達成を願う人々の多さで
神も、正月期間中は不在のようにも感じる
私自身は、上記の理由から初詣を習慣にしてはいないが
その歴史の浅さが理由ではなく
参拝する人の心持ちの問題も多い
風習や文化に関しては
歴史の長さが重要ではなく
その内容が問題になってくる
歴史の浅い習慣であっても
それが大きな意味を成すものであれば
問題ではないだろう
私利私欲の祈願達成が習慣になってしまっては
神道とは、真逆の方向へ向かうことになる
私は特定の宗教を信仰してはいないが
神と向かい合う時
その時の流れを肌で感じ
日本人として、この国に生を受けたことに感謝し
自分が「今、ここ」にいることを今一度認識し
繋がりを持って次世代へ受け継ぐことを
その恩返しとして行うことを誓う…
それが、日本人としての心であると思っている
地縁、血縁を考える
現代人は、比較的、地縁、血縁のことについて
深く考える機会が少なくなったように思う
特に、私が住む北海道は
開拓されて日が浅く
昔から住んでいる人よりも、移住してきた人の割合が高いので
世襲制に対する考え方も
本州に比べると、薄いように感じる
本州に実家のある長男に嫁ぐ友人などは
古い土地ならではの「長男の嫁」という立場に苦しみ、悩んでいた
私も昔は、この世襲制に対し
不平等である…とか、合理的ではない…とか
個人の希望が優先されにくいこの封建的大家族精度に対し
不信感を抱いていたことがあった
しかし、様々なことを学ぶうちに
この封建的大家族制度の合理性や
非常に、人としてスムーズな暮らしができる考え方であることが理解できるようになってきた
こと仕事において
現代人は、個人の実績を最優先に重んじる傾向にあるが
地縁や血縁が、商売において
どれほど重要であるか…を、理解することは
非常に大きなことだ
先祖から何を受け継ぎ
子孫に何を残すのか…
これは、人が代々繋がるアンカーポイントにいる私達が
必ず考えるべき問題であり
ここを外して人生を考えてしまうと
非常に不便なことになる
本来、商売に関しても
何代も先に継いでいくことを前提として考えていくことが前提だった
それほど、信頼や縁を繋ぐことは
容易いことではないのだ
農家にしても
長男に田畑を譲り
次男以降には、困らないように
開墾して、与えていた
昔の人は、身を持って
一人では生きていけないこと
地縁、血縁の重要性を感じてきたのだ
そこで自然と感謝の心が生まれ
人の絆が生まれ
人を敬い
先祖に感謝をし
子孫の幸せを願う構図ができるのである
自由を主張するあまり
地縁、血縁の存在の大きさを見逃してしまっては
それは、もしかしたら大きな損害なのかもしれない
心理学で解釈する幸せとは
- 2013-12-01 (日)
- 仏教について
心理学の観点からの幸せは
どう解釈しているのだろうか?
哲学でも幸福論は様々な学説がある
宗教学…仏教においては、解脱=六道輪廻からの脱却が究極の幸せとされている
マズローの自己実現理論をご存知だろうか?
マズローの欲求段階説とも呼ばれている
人には、5段階の欲求があり
低い欲求から順番に満たされていき、欲求が変化するというものだ
私は若干異論もあるが
わかりやすいのでこれを使って説明する
その5段階は下記
1、生理的欲求
2、安全の欲求
3、愛の欲求
4、名誉の欲求
5、自己実現の欲求
人は1番が満たされていないと
2番以降の欲求はでてこない
食事に困っている人には、名誉やお金より
まず空腹を満たすことが優先になる
例えば、あなたが夫に不満があったとする
その夫が山で遭難して行方不明になったとしたらどうだろう…
あなたは、生きていてさえいてくれれば何もいならい…と願うだろう
しかし、生きて帰ってきたら
きっとまた不満を言うだろう
お金に困っている時は
余裕がなくても、ことは足りる収入があったら、それだけで幸せだと願う
しかし満たされれば、もっと収入が欲しい…など欲求が増える
それは永遠に満たされることのない
レールに乗っているいうことだ
そして人は満足感に耐性を持つ
ある人が10万円くれたとする
とても嬉しい
だが、その人は毎日10万円をくれるようになると
耐性ができ、当たり前になり
最初と同じ満足感は得られない
それどころか急に中断されると不満に思うだろう
人の欲求は底なし沼
留まることを知らない
不満や悩みの根源は
これらの欲求が満たされないことから発生することが、ほとんどだ
そのようなシステムになっているのだ
この欲求のシステムをキチンと理解することから
幸せの追求が始まる
本当の幸せの追求に役立つ知識となってくるのではないだろうか?
- サイト内検索
- Feeds
- Meta