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第三四回 「神代の物語~その8~」・・(平成20年12月1日)

 先月に引き続き、今月は「たまの次元」について見ていきます。

 「たまの次元」とは文化全般の中で「意識・精神」の活動によって生まれる広い意味での「思想」や「観念」で、人間の五官(目・耳・鼻・舌・皮膚)では捉えることのできないものです。
 神話では、意識や精神は男神イザナギの「(男女の性交渉とは別の意味での)男性原理」の世界でできています。そしてイザナギは「天父神」的な性格を以て描かれてます。
 イザナギもまたイザナミのように、あらゆる人々の精神活動の中に入って、例的な「たま」(霊魂・魂・心・脳のはたらきなど)としてそのはたらきを司り、人々のあらゆる文化的な活動を秩序だてています。イザナギもその後の神話に表立っては登場せず、汎神論的に「たま」と一体化してしまいます。
 「たま」の次元では「ものの次元」と違い、男女の性交渉とは無縁の世界でできあがった精神活動ですから、生物的な生成や死滅はありません。
 考え出されて様々に展開しても、ひとたび人間によって考え出された思想や観念は、決してこの世からなくならないのが最大の特徴です。仮にある時代・ある特定の地域に伝承されないことや、流行り廃り、あるいは忘れ去られることはあっても、絶対に「なくなってしまう」ことはありません。
 また人々の意識や精神の中には、人間にとって正常な「よいもの」ばかりを生み出す心(「たま」)が植えつけられているだけでなく、「よこしまな」考えの元となる「禍津日神」や「悪神」が、「狭蝿如すように、どっと湧き出して万物に満ち溢れ、妖を発」すことがあります。しかしイザナギは、同時に、わざわいを起こす邪心を元の正常な秩序あるものに直すはたらきの神(直毘神・直毘霊)も、人々に植え付けました。だからいつも、人は自分の心をどちらの神にゆだねるか、が問われます。
 神話の用語「うむ」「なる」の区別では、常に「なる」が使われます。
 葬墓では、霊魂をお祭りする「位牌」がよい例です。ただし、お墓もこの次元から考え出されたものです。

 

   

 これが神話における、イザナギとイザナミの意味する本質です。
 以上から、神話においてイザナギとイザナミの二神が「たま」と「もの」の二つの次元のシンボルとして、見事に描き分けられていることがわかります。

 そこで、「マイナス二重構造」の問題に戻ります。
 イザナミが生んだ「もの」にはプラスとマイナスがありました。もちろんイザナギの「たまの次元」にも「禍津日神(第一のマイナス)」と「直毘神(プラス)」のように、プラスとマイナスの神が登場します。
 しかしイザナギの「たまの次元」には、第一のマイナスを新たなプラスに転換させる「死の穢れ」の「偉大なマイナス(第二のマイナス)」が存在しません。
 なぜなら「たまの次元」には「死」がないからです。
 代わりに、本来のプラスである、「直毘神」が登場しますが、その神には「偉大なマイナス」のはたらきがありません。
 とすると「たまの次元」では「マイナス二重構造」は成立せず、人々にとって「豊かなもの」を新たに生み出すことのない世界になります。

 しかし私達が生きている現代の世界は「もの」と「たま」があり、しかも「偉大なマイナス」によって豊かなものを生み出しています。だから神話の祖先たちは、「たまの次元」にも「偉大なマイナス」を生み出して、私達の現代にまでも残していたに違いないのです。
 では、祖先たちが神話に織り込んだ「たまの次元」の「偉大なマイナス」とはなんだったのでしょうか。 
 私達は、その「秘密」を「神話」の中から読み解くしかありません。そのためにもう一度「偉大なマイナス」の構造を、別な角度から考えることにします。

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