記紀に表れる、最も重要な三神は、天照大神・月読命・スサノヲ命です。神々の「生まれ方」「現れ方」について、この「三貴子」の話によって、父神イザナギが神話の中でどのような意味を持つのかを探ってみましょう。
まずは、再度以下の一段を引用します。
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イザナギが左の目を洗った時に天照大神が、右の目を洗った時に月読命が、鼻を洗った時に健速須佐之男命が現れました。イザナギはたいそう喜び「私はたくさんの子を次々と得たが、最後に三人の貴い子達を得ることができた」言うと、首飾りの玉をゆらゆらと揺らしながら天照大神に与えて「おまえは高天原を治めなさい」、月読命には「おまえは夜の世界を治めなさい」、スサノヲ命には「おまえは海の世界を治めなさい」と、それぞれに任されました。みなイザナギの言いつけ通り治めましたが、スサノヲだけが背いて治めず、あごひげが胸まで伸びても泣き叫んでばかりいます。その泣き方は、青々とした山が枯れ海河が干上がるほどに激しいものでした。するとまるでハエがうるさくどっと湧き出したように悪神があたりに満ちあふれ、わざわいが起こり始めました。父神イザナギが「なぜ任せた国を治めずに泣きわめくのか?」と訊くと、スサノヲは「私は亡くなった母さんが行った妣の国、根の堅洲国へ行きたくて泣いているのです」と答えました。これを聞くとイザナギはたいそう怒り、「それならおまえはこの国にすんではならん!」と言ってスサノヲを追放しました。 *****************************************************************
イザナギとイザナギを対比してみると以下のようになります。
「女-男」
「火-水」
(火の神を生んで死亡したイザナミと川でみそぎをしたイザナギ)
「けがれ-みそぎ」
(死後の汚らわしい姿のイザナミとみそぎをするイザナギ)
「あの世-この世」(=「死-生」)
(死亡したイザナミと生き残ったイザナギ)
「もの-たま」
最後の「もの-たま」の対比とは、つまり「具体的な事象」と「観念や精神」との対比です。神話の中では、イザナギとイザナミとで生んだ神々が前者にあたり、イザナギ単独の行為で現れた神々が後者にあたります。
ですが、日本神話の構造、より深く正しく読み解く上で、大変重要な点は、「もの」と「たま」の神々が、どういう「生まれ方」「現れ方」をしたのか、その違いを確かめることにあります。
イザナミは、イザナギとまぐわうことで「もの」を生み続けました。神話では「もの」は男女の交わりによって女性から生まれます。これを仮に「ものの次元」と名づけます。「ものの次元」では、神々は「生まれ」ます。
「ものの次元」で、こうした生物や生物的なものの生死には、プラスとマイナスを交互に繰り返す、連鎖的なサイクルがあります。
お産の「産褥穢(マイナス)」によって「新たな命(プラス)」が誕生し、また「死体」の「腐敗(マイナス)」(死穢)によって、「新たな価値(プラス)」が生まれる、という交互サイクルの連続です。
一方、イザナギの「たま」は、男女の交わりがなく、イザナギの次元に神々が登場します。これを「たまの次元」と呼びます。「たまの次元」では、神々は「現れ」ます。 「たまの次元」には生物的な生と死はありません。したがって「ものの次元」のようなプラスとマイナスのサイクルはありません。曲がったもの(マイナス)を真っ直ぐ(プラス)にして、正常な秩序を回復する世界です。
ここで「ものの次元」と「たまの次元」をまとめてみましょう。
「ものの次元」とは、自然界における「物質・現象」のすべてを含み、人間の五感(目・耳・鼻・舌・皮膚)で実感することができる「もの」です。それはイザナミの「女性原理」による世界(カテゴリー・範疇)に属しています。イザナミは「大地母神」的な性格を有する存在として描かれます。イザナミは、その後、自然界のあらゆる物の中に溶け込んで、「もの」の活動を司り、自然界の秩序を保っています。
しかし、その後の神話では、表面に登場することはほとんどありません。つまり、汎神論的に「もの」と融合して一体化してしまいます。そして人々によって、自然界の秩序が乱された時、イザナミの死体に宿った八つの雷神が、様々な自然災害を起こして、警告や罰を与えると考えられます。
「ものの次元」では、常に生成と死滅を繰り返します。その活動の例は、男女の性によって生まれ死滅する、生物の世界です。しかし、自然界の無生物も、自然界の法則によって、なんらかの生成と死滅を繰り返していることに変わりはありません。また、神話の用語「うむ」「なる」の区別では、必ず「うむ」が使われます。
葬墓に関して言えば、遺体やお骨など、形のある人体に関わりますから、「お墓」のウェイトがたいへん大きなものである。と、ひとまず指摘しておくことにします。(つづく)