祖先たちは、自然界から会得した叡智を無意識のうちに神話や昔話の中に織り込んでいきました。
祖先が会得したこの叡智は、現代でも自然の中で生活する農村の人には、経験を通じて身についています。
自然界の有機物には、
生物の死→肥沃な大地→生物の生成→生物の死→…
という「自然回帰」のサイクルがあります。
だから有機栽培をしている農村の人が全図を見れば、一目でその意味が理解できるはずです。
しかし文明社会に浸かった都会の人には実感できないかもしれません。むしろ抽象的な言い方で「否定の否定は肯定」とか、「マイナス」×「マイナス」=「プラス」と書いたほうが、理解できるでしょう。
神話を作った祖先の時代は、もちろん有機農法だけですから、自然界の仕組みを知り尽くしています。そうした経験から、人間にとって本当に「豊かなもの」は、死と穢れの「マイナス二重構造」からしか生まれないことを学んでいたのです。
また、火山の爆発、風水害、地震などの天変地異には、常に死と穢れ、財産の破壊という大きな犠牲と苦痛が伴います。
しかしそれが、やがて「豊かなもの」を生み出す「犠牲」であることも、祖先たちは長い長い年月の経験から学び取っていたに違いありません。
死の穢れを避けることができなかった祖先たちは、これを正面から受け止めるしかなかったのですが、それは「死を正面から受け止めることによってしか、人は、真に豊かなものを得ることができないことや、人として生きる意味を学ぶことができない」ことを会得したのです。
神話は、そのことを現代の私たちにメッセージしている、と私は確信しています。それは「死者」から「生者」への最大の贈り物なのだ、と思います。
そのことを忘れないためにも、祖先たちは「叡智のシンボル」として「お墓」を造り、大切にお祀りした、ともいえます。
だから「第二のマイナス」の偉大さを知った祖先たちは、鄭重に死者を祀り、死者を穢れとともに埋葬した、と思われます。それは神話が伝える「日本人のお墓」の原点であり、日本人がお墓に込めた「シンボル」の意味だったのです。
こうした視点で縄文期・三内丸山の列状墓群や、弥生期・吉野ヶ里の列状甕棺墓群を見直すと、いずれも日本神話を残した祖先たちの「叡智」を見事に受け継ぎ、表現していると言えるのではないでしょうか。
『古事記』の「葬」を「死者を野山に遺棄する」という意味の「はぶる」と読む向きもありますが、これまで見てきたように「死」「穢」に対する祖先の考え方から察するに、「鄭重な祀りをして死者を葬る」という意味の、「はぶりまつる」「をさめまつる」「かくしまつる」と読むべきではないでしょうか。
もし「死穢」を単なるマイナスとして、遺棄するのみであれば、それは単なる「死穢」の排除であり、そこからはなにも生み出されません。
そして、単なる遺棄の積み重ねだけの物語は、到底「神話」と呼べる代物ではないでしょう。