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第二十回 「叡尊・忍性」・・(平成19年10月1日)

宇治浮島十三重塔

宇治浮島十三重塔

 叡尊は鎌倉時代中期の真言律宗の僧で、奈良西大寺を復興した僧として知られます。はじめ高野山に真言密教を学び、のち戒律の復興を志して西大寺の僧となります。 その後、東大寺で自誓受戒し、海龍王寺を経て西大寺に戻り、律宗を復活させました。 貴賤を問わず広く帰依を受け、鎌倉幕府より招かれて鎌倉に下り、広く戒を授け、律を講じました。また、国分寺や法華寺の最高にも努め、尼への受戒も再開しました。

 忍性は、はじめ母の遺言によって出家し、勧進聖として西大寺再建に加わった際に、叡尊と出会い、弟子入りします。弟子入りしてすぐに出家の儀式をやり直し、叡尊の元で一から教学を学び直します。その一方で常施院を設け、ハンセン病患者救済の他、様々な社会事業に取り組み、会わせて律宗の布教にも取り組みます。 その後関東に赴き、北条市の信頼を得、北条重時の葬儀を司り、師の叡尊と共に極楽寺を中心に活動を展開しました。また、重源の後を承けて、第十四代の東大寺大勧進にもなっています。

 

 さて、彼ら子弟は、重源の活動を奈良で目の当たりにしていたはずです。彼らと重源との間に、直接的な師弟関係はありませんが、「舎利信仰」継承という点では、きわめて強い精神的つながりがあるように思われます。二人は、多くの石塔や舎利塔の建立に寄与しましたが、その根底に重源の舎利信仰・舎利塔信仰の影響があることは否定できないでしょう。

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宇治浮島十三重塔

二人が関わった石塔・仏塔について、いくつかあげてみましょう。
 まずなんと言っても有名なのは、国の重要文化財である、「宇治浮島十三重塔」でしょう。京都宇治、平等院鳳凰堂前の浮島にそびえるこの塔は、高さ約15mの花崗岩製で、全国一の高さを誇っています。

 

 

 

 

 

これは、叡尊が宇治橋再興の際に建てた供養塔で、尹行末の造った般若寺の十三重塔と並び称される、鎌倉時代の名品です。 この塔は、江戸時代半ばに、洪水で流失しましたが、明治時代に川中より発掘され、一部を補ってはいるものの、ほぼ当時の姿でそびえ続けています。

西大寺奥の院の五輪塔

西大寺奥の院の五輪塔

同じく国の重要文化財である「極楽寺五輪塔」は、鎌倉型五輪塔の最高傑作とも称され、高さ4m弱、安山岩製で、関東では最大級の五輪塔です。

これは忍性の墓として、彼の没後すぐに建てられたとされています。これと同類のものが、叡尊の墓として西大寺奥の院にもあります。 また「箱根山五輪塔」と称される3基の五輪塔は、一般に曾我兄弟の墓と言われておりますが根拠のない俗説で、近くにある「箱根宝篋印塔」と共に、忍性を中心とした、この地方の「地蔵信仰」によって生み出されたものです。五輪塔の背面には「右志者、為地蔵講結縁衆等、平等利益也、永仁三年十二月」の銘文があり、また正面には地蔵菩薩立像が彫られていることからも、そのことがわかります。

 

箱根山五輪塔

箱根山五輪塔

 

 

 

 

箱根宝篋印塔
箱根宝篋印塔

 ちなみに、兵庫県丹波地方には「五輪塔は地蔵様を現している」という伝承があるそうです。 忍性を中心に生まれた地蔵信仰ですが、この信仰は、恐らくは当時の石工達あるいは勧進僧によって広められたのではないでしょうか。 嘗て重源が率いた石工達は、叡尊・忍性に受け継がれました。 また、東大寺の勧進事業も重源から忍性へと引き継がれています。 そして重源の小野別所は兵庫県にあります。 こうした歴史的な事実から、重源・叡尊・忍性は、舎利信仰・地蔵信仰を背景に、最新の石材技術を日本全国へと普及させたことに、 大いに寄与したと言えます。お墓としての五輪塔の全国への伝播に、彼らの果たした役割はきわめて大きいと言えるでしょう。

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