さて、北海道の夏といえばお盆まで。とはもう過去の話ですね。まだまだ暑い日差しが照りつける毎日です。お盆休み、みなさまもそれぞれにお墓参りに行ってこられたかと思います。私も両親の実家のお墓、親戚のお墓、友人のお墓など、いくつか回ってきました。その際、ここのところずっと書いている「五輪塔」を探してみたのですが、結局見つけることができたのは一基だけでした。 (写真)
一応、他人のお墓なので、望遠でこっそりと撮影してきたわけですが、やはり北海道という地域性もあるのでしょう。明治以前の長きにわたってお墓の定番スタイルであったという五輪塔は、ほとんど見ることができませんでしたね。 明治以降になると、現在のお墓のスタイル-棹石を中心に据えるお墓-が普及します。こちらについては、まだ勉強不足なのですが、以下想像を書いてみますと… ・石材の加工技術の向上・石材を使ったお墓の普及こうしたことが理由となって、五輪塔に替わって棹石が普及したのか、と感じています。
つまり… まず、加工技術が向上したことによって、直線的なデザインの加工が可能になったということがあげられるでしょう。石といってももちろん天然素材なわけですし、花崗岩は雲母や石英など、複数の結晶の集まりですから、長い直線に加工することは非常に大変です。その点、五輪塔は、丸や三角など、複数の立体を組み合わせた構造のお墓ですから、長い直線部分はあまりありません。加工技術の向上によって、シンプルなスタイルのお墓の作成が可能になったことで、棹石スタイルが普及し得たと言えると思います。また、明治維新後、身分差が解消され、多くの人々が石材のお墓を建立することが可能になります。公営の墓地も多くなり、様々な人々がお墓を持つことができるようになります。すると、当然たくさんのお墓が立ち並ぶわけですが、そうなると自分のお墓がすぐにわかるような形、が必要になってくるのではないでしょうか。その点、棹石スタイルですと、「○○家之墓」と大書することができますので、遠くからも自分のお墓を用意に見つけだすことができます。また、価格の問題もあるでしょう。加工技術が向上する、つまり加工用の機器が利用されるようになると、今度は複雑な形状の五輪塔よりは、シンプルな棹石の方が、価格面では安くなります。まぁこういった理由で五輪塔に替わって棹石のお墓が普及していったのでしょうね。
それにしても、どこの墓地もそうですが、カラスが本当に多いですね。やはり、食べ物をお供えする文化がある以上、どうしてもその食べ物を狙ってカラスなどが集まってくるのは致し方のないところですが、お供え物が荒らされていたり、カラスの糞でお墓が汚れているのは、やはり見ていて気持ちの良いものではありませんね。お仏壇と違って、毎日お墓に向き合うことは、ほとんどの方にはないと思います。めったに来ないからこそ、見ていないときにどんどん汚れていくのを、少しでも防ぐ方法はないものか、ちょっと調べてみていずれかの機会に書いてみようか、とも思っています。
さて、次号からは再び五輪塔のお話を書いていきます。鎌倉時代に入って、日本のお墓文化として広く根付いていく様子をとりまとめてみたいと思います。
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