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第十五回 「覚鑁その一」・・(平成19年5月1日)

 興教大師覚鑁(1095~1144)は「真言宗中興の祖」と称される平安後期の僧侶です。

真言宗は、空海以後、教学的にはあまり発展しなかったのですが、覚鑁は「伝法会」を復興し、当時流行の浄土教を真言教学に於いていかに捉えるかを理論化しました。また、覚鑁が晩年過ごした根来寺を本山とする「新義真言宗」や新義真言宗から分派した「豊山派」「智山派」の開祖としても知られるように、真言宗の教義に新たな展開を開きました。

 13歳で得度出家した覚鑁は、35歳にして古式な真言宗の伝法を悉く灌頂し、弘法大師以来の才と称されます。翌年より、腐敗した高野山の建て直しに着手します。 この年、鳥羽上皇の院宣により「大伝法院」を建立、その後、大伝法院と金剛峰寺の座主を兼任し、高野山全体を統治することになり、本格的に高野山の改革に乗り出します。 当時、真言宗の腐敗を嘆き、書き記した「密厳院発露懺悔文」は、現在も真言宗各派に於いて、宗教家の自覚と自戒を促す経文として、広く唱えられています。

覚鑁は強行に高野山の改革を押し進めますが、これに反発した僧派閥と激しく対立し、1140年、ついに覚鑁の自所、金剛峰寺境内の密厳院が急襲され焼き討ちに遭い、高野山を追放されてしまいます。なお、この際、覚鑁の命を狙った刺客が、密厳院本尊の不動明王像の背後に覚鑁が潜んでいると判断して斬りつけたところ、像から血が流れたのを見て驚き退散し、覚鑁は一命を取り留めたという、有名な「きりもみ不動」の伝説が生まれました。

 高野山を追われた覚鑁は、弟子と共に根来山に退き、根来寺を建立、大伝法院や密厳院を移して、独自の教義を展開します。
1143年、覚鑁は死去しますが、その後、弟子頼瑜を中心に覚鑁の教義を発展させ、「新義真言宗」へと発展します。新義真言宗の本山、根来山は、後に豊臣秀吉との確執の末に討伐を受け壊滅します。根来山を逃れた僧侶達は、京都智積院・大和長谷寺に逃れ、そのままそこを拠点とし、それぞれ真言宗智山派・真言宗豊山派と称して現在に至ります。また、根来山は、1623年、紀伊藩主徳川頼宣の許可がおり、復興に着手し、寛政・文化・文政年間頃に復興を果たし、現在に至ります。

 「日本人のお墓」という視点から覚鑁上人を見た場合、大きく二つの功績を挙げることができます。ひとつは「五輪塔」の生みの親であるということ。もうひとつは真言密教と浄土思想を融合させて「真言念仏」をうち立てたことです。というのは、浄土思想とは「死後の思想」に他ならないからです。
井上光貞氏によれば、覚鑁は高野山の本寺出身ではなく、外来の浪人であり、山内の上人と交わりの深い人であったことは注目すべきこと(『日本古代の国家と仏教』)としています。高野山の最高位である金剛峰寺の座主にまでなった覚鑁ですが、元来「真言念仏の別所聖」即ち「高野聖」であったことが、彼の思想と行動に決定的な影響を与えたと思われます。高野聖であったことをバックボーンとして、覚鑁は真言と念仏の同一性を唱え、「五輪塔」に「死後の即身成仏」の意味を込め、また死後と現実世界の浄土に、本尊の大日如来「密厳浄土」をシンボルとする密厳院(念仏所)を高野山に建立したと思われるのです。

 この覚鑁の生み出した「五輪塔」と「真言念仏」については、次回以後に詳しく述べることとします。

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