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第十二回 「良源」・・(平成19年2月1日)

 良源(912~985)は、第十八代天台座主として、比叡山延暦寺中興の祖として知られる僧です。諡号は「慈恵大師」、正月三日になくなったことから「元三大師」とも呼ばれます。

 彼は良くも悪くも処世術に長け、弁論の立つ人物だったようです。最澄直系の弟子ではないにも関わらず、「応和の宗論」など、南都仏教の論客と争論して論破したり、村上天皇の皇后の安産祈願をおこなうなどして頭角を現していきました。良源が天台座主に就いた当時、延暦寺は度重なる火災のために、根本中堂をはじめとする多くの堂塔を消失し、荒廃した状態にありました。これに伴って僧侶の風紀も乱れていたのですが、「二十六ヶ条起請」を公布して僧侶の規律維持に勉め、摂関家からの多くの寄進を得て、延暦寺の復興に尽力しました。比叡山の三塔十六谷は、まさに彼の時代に完成したのです。

 良源の活動によって、延暦寺は他の宗派を圧倒し、末寺や荘園も増大して世俗的にも強大な存在となりました。しかしこの結果、延暦寺には多くの貴族の子弟が入山・出家するようになり、彼らが座主や高僧の地位を独占するようになります。また巨大に膨れ上がった僧侶集団は、以後、門閥化が進み、結果、良源が延暦寺の俗化の基を作ったとも言えます。 良源は様々な形で民間信仰の対象となっており、「豆大師」「角大師」とも呼ばれ、魔除けのお守りにもなっています。またおみくじを考案した人ともされており、様々な伝説が残っています。

 さて、彼のお墓や葬儀に関する業績として注目すべきは、なんといっても比叡山浄土教の拠点となった「横川常行堂」を発展させたことと、『往生要集』を著した源信の師であったこと、と言えるでしょう。 中国の天台宗では、「四種三昧」と総称される、四種の修行法が説かれておりますが、日本の天台宗では、このうち、「常行三昧」と「半行半座三昧」の二つが重視されました。簡単に言いますと、「常行三昧」とは「念仏行」であり、「半行半座三昧」は「法華行」です。横川常行堂はその名の通り、念仏行をおこなう場所です。ここから良源の多くの弟子が巣立っていくことになります。横川常行堂で注目すべきは、はじめて「称名念仏」がおこなわれたことです。ここにまさに鎌倉仏教の端緒を見ることができます。天台宗の教えそのものが、法華経と浄土教を柱としていることは、すでに度々書いてきたことですが、「南無阿弥陀仏」と唱える称名念仏による常行は、まさに良源の時代に始まったことで、より直接的な影響を見ることができます。 一方、お墓について見ますと、彼の遺言『慈恵大僧正御遺告』に、以下のような言葉があります。わかりやすく現代語に改めてみました。

(私は)生前に石卒塔婆をつくる段取りをしておきたい。もしそれが私の死に間に合わないときは、しばらくは仮の卒塔婆を建て、その下に三四尺ほど掘り下げて墓穴をつくり、穴の底に骨をおいて土で埋めよ。そして四十九日のうちには石卒塔婆をつくって建て替えよ。この石卒塔婆は弟子のおまえたちが時々来て礼拝するための目印であるから、卒塔婆の中には『随求陀羅尼』『大仏頂陀羅尼』『尊勝陀羅尼』『光明真言』『五字真言』『阿弥陀陀羅尼』などの真言を安置せよ。生きているうちにそれを書きたい。

 ここにでてくる石卒塔婆が、建立当時どのような形であったかは不明ですが、形はさておいて、この遺言の中でとても重要なのは、自らの死後、弟子が墓参することを念頭に置いている、ということ。また墓参によって、自分と弟子のために、滅罪の効力のある真言を卒塔婆に納めたことの二点です。

 おそらくこの頃から、仏教的な建墓・墓参・供養が、生者と死者が共に滅罪され、ひいては極楽往生の思想へと繋がる兆候が見えはじめていると言えるのではないでしょうか。

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