空也上人の像と言えば、右手に鉦鼓・左手に鹿角杖、粗末な身なりの立像で、その口からは「南無阿弥陀仏」を表す六位の仏を吐き出す姿ですね。
生没は諸説あって判然としませんが、おおよそ10世紀中頃、平安中期に在俗の修行者として諸国を巡り、布教と社会事業に専心して、貴賤を問わず幅広い帰依者を得ています。
空也上人の仏教史上に於ける最大の功績は、民間に浄土教、もっと具体的には念仏を広めたことにあります。彼の立像の口から仏様が吐き出されているのは、まさにことことを象徴しております。このため、彼は「阿弥陀聖」「市聖」と称されて民間信仰の対象となり、記録では京都の六波羅蜜寺で生涯を終え、その墓も六波羅蜜寺にあるのですが、各地に彼の墓が建立されて、今もなお信仰の対象となっております。
また、彼は踊念仏・六斎念仏の祖ともされておりますが、これは、空也が経文中に見い出した釈迦の説教に感激し、踊り出したという経験から、そのことをヒントに生まれたといわれています。
空也自身は、例えば行基のおこなった東大寺建立の資金集めのような勧進をおこなった形跡がありません。より「念仏遊行」の色彩の濃い活動は、彼自身への信仰はもちろん、後世の鎌倉仏教の普及の大きな礎となっていることは否定できません。
さて、もうひとつ、空也の業績として大きなものがあります。平安中期第一級の文人貴族であった源為憲は、空也への弔辞として『空也誄』という文章を残しています。この序文に次のような文があります。
「曠野古原に、若し委骸有らば、之を一処に堆みて、油を灌いで焼き、阿弥陀仏の名を留む」
今でこそ、遺骸に向かって念仏を唱えたり、火葬の際に念仏を唱えることは、ごくごく当たり前に見られる光景ですが、所謂この「称名念仏」は、空也によってはじめておこなわれ、空也によって世に広められたのです。
前号でお話しした行基と共に、空也上人は、日本の仏教が死者を供養し、死後の幸福を願って積極的に死者に関わる伝統の一端を為し、身分の貴賤を問わず広く浸透させていったという意味で、非常に偉大な存在と言えます。
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