日本中世には、高野聖に代表される、各地を歴訪して勧進と呼ばれる募金活動の一環として仏教の普及活動をおこなった僧侶集団がいくつか存在しました。
今回取り上げる行基菩薩は、その先駆的な存在と言えるでしょう。
行基は天智天皇の時代(668年)に生まれました。10代半ばで出家し、法相宗等の教学を学び、やがて集団を形成して関西地方を中心に貧民救済や治水、架橋などの社会事業活動をおこないました。彼は民衆を扇動する者として弾圧を受けましたが、これは、彼を信奉する民衆が多かったことを物語っています。
723年に、自発的な開墾を奨励する「三世一身法」が発布されると、池溝開発を始めとする行基の活動は急速に発展し、その存在を無視できなくなった朝廷は、731年、ついに得度を許し、738年には彼の布教活動が公認されます。741年までに、行基とその仲間たちが畿内一帯に造った施設は、寺34・尼寺15・橋7・池15・溝7・堀4・樋3・湊2・直道1・布施屋9か所に及んだということです。
時の天皇、聖武天皇は行基に深く傾倒し、741年には大仏建立の勧進(募金活動)に起用し、745年には彼のために新設した「大僧正」の位を授け、更には「大菩薩」の称号を授けています(749年)。それから間もなく、行基は大仏完成を見ることなくこの世を去ります。その亡骸は、遺言により火葬に付されたとのこと。
さて、行基に限らず、後世の様々な「聖」集団も含めてですが、民衆生活の中に仏教が広まっていく課程で、彼らの貢献は非常に大きなものがあったと言えます。聖の集団は本寺からの衣食住の支給がないために、生活のほぼすべてを勧進に依存していました。勧進をうける替わりに、彼らは社会事業活動をおこなっておりましたが、その中には葬送をおこなう集団もおり、他には高野山納骨をおこなう集団もありました。こうした聖集団の仏教的な活動によって、民衆が仏教に触れる機会は非常に増えたと思われます。
もちろん、学校教科書に記載されているように、鎌倉仏教の隆盛が現在に至るまでの、日本の仏教信仰へ多大な影響を与えたことは否定しませんが、その前段階としての、聖集団の活動は無視できないと思います。
こうした聖集団の先駆的な存在であった行基の集団にも、当然ながら、葬送に関する活動がおこなわれていたと考えることができるかと思います。
五来重という宗教民俗学者が、行基の葬送に関する活動について、興味深い仮説を立てております。以下に、私見を交えてその概要をまとめてみました。
行基の生きた時代は、ちょうど古墳文化が廃れてきた時代に重なります。大化改新後に発布された「薄葬令」によって墳墓の規模が縮小し、やがて古墳そのものが造営されなくなります。ほんの数世代までは巨大な古墳が造営され、関連する祭祀にも非常に多くの人間が関わっていたわけですが、こうした時代変化に伴って、古墳に関わってきた多くの氏族が、その職を失ったはずです。五来氏は、こうした氏族集団が、行基の集団に加わったのではないか?という仮説を立てました。実際、723年に、行基の集団が急に大きくなったと思われる史料が残っています。また、行基の足跡には、数多くの土木事業が残されております。こうした活動には、古墳造営で培った技術を持った集団が大いに貢献した、とは考えることはできないでしょうか。そして彼ら技術者集団は、元来が葬墓に関わってきた人々です。行基の仏教的な活動の中にも、彼らの影響は残されていたはずです。
また行基は、自身を火葬に付すことを遺言したように、火葬を推進したと思われます。行基は、近畿を中心に「四十九院」と呼ばれる、小規模な道場のようなお寺を建てたとされています。この四十九院すべてには火葬場があったという説もあります。
そして、この四十九院というのは、本来は弥勒菩薩が居住する「兜率天」の四十九の内院をさします。行基の四十九院も、これにちなんだものと考えられます。というのは、奈良時代以降、弥勒信仰が盛んになってくるからです。
日本の仏教墓には、四十九院と呼ばれる、外柵として木や石の杭を打ち込み、これに横棒を通した独特のスタイルがあります。高野山奥の院墓地では特によく見られるスタイルですが、これも弥勒信仰にまつわるものではないかと思われます。
ところで、この、墓の回りに杭を打ち込んで外柵とするお墓のスタイルは、日本古来の「モガリ」の習慣であると言われます。四十九院という日本独自のお墓のスタイルに、日本の伝統習俗と、仏教思想の融合を見て取ることはできないでしょうか。そして、こうした文化的融合に、行基集団の活動の影響を見ることは、行きすぎた想像でしょうか。
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