中臣鎌足は天皇でさえ見下す蘇我氏を倒そうと動き出した
中臣鎌足は仏教の受容に関する件で物部守屋に味方をして
蘇我馬子に刀を削がれたことで因縁もあった
しかし、打倒蘇我氏のために共に戦ってくれる仲間を大々的に集めることもできないので
王族に近づき、内密に共に戦う同志を探していた
そして、蘇我氏を倒すために最もふさわしい人物といえる
中大兄皇子に飛鳥寺で開催された蹴鞠の席で出会うことになる
中大兄皇子は皇極天皇と舒明天皇の長子であり
まだ若いが蘇我氏への恨みは強い
しかし、すぐに動き出せば身に危険が及ぶ可能性がある
ふたりは密かに蘇我氏を倒すための計画を練り
蘇我氏の反主流の倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)を加担させることに成功し
さらに佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)や葛城稚犬養連網田(かずらきのわかいぬかいのむらじあみた)も仲間にした
山背大兄を倒したあとは
さすがの蝦夷や入鹿親子も警戒しはじめた
邸宅を柵で囲ったり、武器のための倉庫を建てたりもした
外出の際は兵士に護衛をさせて敵からの攻撃に備えた
中大兄皇子と中臣鎌足は6月12日に決行しようと決めた
その日は、朝鮮半島から使者たちが来て板蓋宮(いたぶきのみや)で天皇に貢物を奉る日だった
さすがの入鹿も天皇の前では兵に護衛をさせることもできない
儀式が始まると中大兄皇子は通用門を封鎖した
中臣鎌足も弓を構えた
だが肝心の入鹿が姿を見せると
佐伯連子麻呂も葛城稚犬養連網田も気後れしてしまい動けなくなってしまった
そんな二人の姿を見て中大兄皇子が斬りかかった
それを見た佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田も後に続きい入鹿にとどめを刺した
翌日、事件を知った蘇我氏の軍は瓦解し
蝦夷も討たれることになる
宣化天皇の時代以降、長い年月にわたって
権力を握っていた蘇我宗家も滅んだ
目の前で衝撃的な惨事が起こったことで
皇極天皇は皇位を退き、弟の軽皇子(かるのみこ)に譲った
この事件はこの年の干支にちなんで
乙巳の変と呼ばれている
生前に皇位を譲る「譲位」が行われたのは
これが初めてだった