第30代の敏達天皇が崩御した
対立する蘇我馬子と物部守屋は
敏達天皇の葬儀の場でお互いを激しく罵りあった
体の小さい蘇我馬子が太刀を帯びて弔辞を述べると
物部守屋はその様子を見て
「獣を射る大きな弓で射られた雀のようだ」と罵った
逆に物部守屋が体を大きく揺すりながら
弔辞を述べていると
蘇我馬子が「鈴を付けたら面白い」とからかった
お互いを認めない両者は
もはや修復は不可能な段階にきていた
第31代の次期天皇は用明天皇となった
用明天皇は欽明天皇と蘇我馬子の妹との間にできた子で
蘇我馬子は蘇我家の息のかかった天皇だけに
この機会に自ら仏道に帰依しようとしたが
やはり物部守屋は用明天皇を公然と批判した
さすがに朝廷を敵にまわすことで危機感を感じた物部守屋は
拠点の河内に帰り、戦争の準備を始めた
そんな中、用明天皇は崩御した
物部守屋は軍勢を率いて
皇位を狙う穴穂部皇子(あなほべのみこ)を担いで政権を狙った
蘇我馬子は穴穂部を襲撃して命を奪った
蘇我馬子は軍勢を率いて
物部守屋の拠点である河内へと向かった
その隊には、用明天皇の子である厩戸皇子(うまやとのみこ)のちの聖徳太子がいた
両軍は衣摺で激突したが
朝廷の軍を担当する物部氏に蘇我氏は劣勢となる
厩戸皇子は霊木で仏教の守護神四天王像を作り
仏に誓いを立てた
「もし勝たせてもらえたら、四天王のために寺を建てます」と
蘇我馬子も仏教を普及させるために寺を建てると誓い勝利を祈願した
その二人の願いは通じ物部守屋を倒し軍も崩壊した
これによって蘇我馬子は朝廷をも凌ぐ勢いの権力者へと上りつめたのだった
厩戸皇子は加護に感謝して
約束通りに摂津に四天王寺(大阪府天王寺区)を創建
蘇我馬子も飛鳥に法隆寺(現在の飛鳥寺、奈良県明日香村)を建てた
百済で仏道を学んだ尼僧の善信尼には桜井寺(現在の向原寺)を寄贈した
このことによって仏教は国の教えとなり
普及の大きなきっかけとなった
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