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直系ではない継体天皇の即位②

日本書記において、継体天皇について書かれている項目は
ほとんど朝鮮半島がらみのことが書かれている

百済が朝鮮半島の西南部を得たいと
日本が足場を置いていた任那(加羅諸国)からの4県の割譲の承認を求めてきた

大伴金村は百済との友好関係が大切だと考えて
この割譲を承認したが
このことによって大伴金村に対する不満が巻き起こり
このことが原因で政権の大立者が失脚することになる

また新羅も任那に干渉しはじめ
その勢力を排除するために
継体天皇は近江の毛野臣に6万人の軍政を用意して
任那に向かわせようとした

そこに伏兵が現れる
北九州に基盤を置く筑紫君磐井(つくぢのきみいわい)だった

この筑紫君磐井は新羅から賄賂をもらったから
妨害に来たと言われている

筑紫君磐井は、九州の北部の豪族を次々と倒して
この地の基盤を固め玄界灘を海上封鎖し毛野臣軍の朝鮮半島への航路を防いだ

朝鮮半島への遠征軍の将軍である近江の毛野臣は筑紫君磐井を討伐すべく軍をあげ
九州の北部を舞台に戦闘を開始した
これを磐井の乱(527年)という
この磐井の乱を鎮圧するのに朝廷は苦労した

ついに大伴金村は、大連の物部麁鹿火(もののべのあらかい)に全権を委ね九州に向かわせることにした
その翌年の528年に、物部麁鹿火は筑紫の三井郡(現在の福岡県小郡市周辺)で筑紫君磐井を討ち取り、磐井の乱は終わった

磐井の乱は一豪族のたんなる反抗ではないのだ

朝廷はこの時期から、今までは各地域の豪族に任せていた関節支配から
朝廷が人民を支配する直接支配へと舵をきっていった

この方針に反抗したのが磐井の乱だったといわれている
筑紫君磐井は、新羅と独自に交易を行い
権益を保ってきたが、それが脅かされる恐れに対しての反乱だった

地方の権力を守ろうとした豪族と
大和王権との戦いだったのだ

地方の豪族が中央政権に逆らうことは、この磐井の乱を最後になくなり
これ以降、大和王権が中央集権化に向けて加速していくのだった

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