第16代天皇の仁徳天皇は弟である宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)
と皇位を譲り合って、継承者がなかなか決まらずに
宇遅能和紀郎子の死によって天皇となった
仁徳天皇は、善政を敷いたことで
理想的な天皇の姿であると称賛されている
ある日、仁徳天皇は山に登って国土を眺めていた
民家を眺望していても煮炊きの煙が全く上がっていないことに気付く
国民は貧困によって食事もできない状況だと気づいた
そこで仁徳天皇は国民に対して
3年間の税金の免除を決めた
税収がないので宮殿の修復を行うこともできない
宮殿は傷み、雨漏りが激しくなり
濡れない場所を探しながら移動して生活しるようなありさまだった
しかし仁徳天皇は民家から煮炊きの煙が上がるまで
税を徴収することはしないと決め
煮炊きの煙を確認して、ようやく税の徴収を再開した
国民を慈しみ大切にする政策によって
国は栄えて
国民は「聖帝の御代」と天皇の政策を称賛した
仁徳天皇は大和を離れて、難波の高津宮に宮殿を構え
朝鮮半島の先進土木技術を持つ渡来系の秦氏に治水事業を行うように命じた
山国の大和よりも難波の高津宮の方が
海外との交流には便利だったが
難波には淀川と大和川が流れ
それに加えて生駒山地の東に大きな湖もあるので
水害に悩まされる地域でもあった
仁徳天皇は水害に悩む国民を救うために
茨田(現在の大阪府寝屋川市)に治水用の提を作らせた
そして海に繋がる大きな堀江を作り
低湿地の水を抜き耕地を広げた
さらに田畑に引くための灌漑用水を確保するために
丸邇池(現在の大阪府富田林市または奈良市池田)や依網池(現在の大阪府堺市池内)
も秦氏に作らせた
小掎江(現在の大阪市天王寺区)を拓き
墨江の滝(現在の大阪市住吉区)も新設し
水上交通を整備し
茨田には朝廷直轄の穀倉も築造させた
一説にはこれらの大規模な土木工事は
のちの時代に行われたとも言われていて
仁徳天皇の功績を美化するために
ここにまとめられていると考えられている
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