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「禍」と「直毘」

イザナギが、川の中瀬に身を沈めて体をすすいだ時にあらわれた

たくさんの禍々しい神が

八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おおまがつひのかみ)である

 

この二神は、ひどいけがれの黄泉の国へ行った際の「けがれ」がもとで現れた神である

 

そして、この禍を直すために現れたのが

「けがれ」と「禍事」をもとに戻す力のある

神直毘神(かむなおびのかみ)と大直毘神(おほなほびのかみ)である

 

この神々の、曲がる力と直す力は対極にあり

プラスとマイナス

人生の災いと、災いで曲がったものをまっすぐに戻し正常な状態に回復することを意味している

 

イザナギと、イザナミこそが対極にあり
それを比較してみると

「男」と「女」

「火」と「水」

「けがれ」と「みそぎ」

「あの世(黄泉)」と「この世」=「死」と「生」

「もの」と「たま」

 

となっている

 

イザナギとイザナミで生んだ「もの」

現れたのが「たま」

である

 

イザナミとイザナギは、まぐわいをすることで「もの」を生み続けた

神話の中では「もの」は、男女の交わりによって女性から生まれる

 

「もの」で解釈する次元では

生物や、生物的なものは
プラスとマイナスを交互に繰り返すサイクルの中にある

 

お産の「産褥穢」によって「新たな命」が誕生する

産褥穢はマイナス、誕生はプラスである

 

 

「たま」で解釈する次元は男女の交わりがなく

神々は、生まれるのではなく、現れるのである

 

この「たま」と「もの」の概念は
「天」と「地」の概念と言ってもいいのかもしれない

「もの」は、自然界における「物質、現象」の全て
これらは、五官で感じることができるものである

「たま」は「思想や観念」であり
五官では、とらえることができないものである

「物質や現象」は常に生まれては消え
生と死を繰り返しているが

「たま」の「思想や概念」は決して消えることはなく
忘れたり、その風習が物理的に行われなくても
「思い」は決して消えることはないのである

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