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「死穢」と「みそぎ」

古事記は大きく分けて「もの」と「意識(観念)」の二つの世界がある

 

「ものの次元」と「意識の次元」の二元論になっている
意識は「たま」(霊、魂、玉など精神や意識の働き)
そして、それぞれにプラス的なものとマイナス的なものが存在し、それぞれ描き分けられている

 

国生みの話は、眼(みる)、耳(きく)、鼻(におう)、舌(あじわう)、皮膚(ふれる)の五つの器官(五官)によって具体的に感じることのできる「もの」の世界の話だった

 

しかし、イザナギの黄泉の国の死穢をみそぎはらう話になると
様相が変わってくる

 

心で感じ、頭で理解することや
支配、人生、法則…など抽象的な、観念的な意識や精神に関わる話になり
「もの」を扱うことはなくなってくる

それは、観念の世界の物語なのだ

 

イザナギが黄泉の国でつけた死穢は、どういうものだったのだろうか…

 

本文では、こう書かれている
「私は何といやな、随分きたない国へ行っていたのだろう。私は身を禊ぎをしたいと思う」
(吾は、いな・しこめ・しこめき穢き国に到りて在りけり。故、吾は、御身の禊為む)

 

これは、前のイザナミの死が「火」と「けがれ」であったのに対し
イザナギのみそぎが「水」と「きよめ」で正反対になっている

 

これは「ものの次元」の「火—水」

「観念の次元」の「けがれーきよめ」の二つの次元に分けることができ
全て、対極関係で成り立つことから話が始まっている

本文からは、イザナギの体に付着した、きたないものは
「五官で感じることのできる具体的に汚いもの」ではなく
「きたない」と感じた意識や印象であり
精神的な「けがれ」に対する、不快感や嫌悪感であることがわかる

 

そして、その「けがれ」を落とすために

イザナギは川で禊ぎをするため身に着けていたものを全部脱ぎ全裸になる
その時に脱ぎ捨てたものから十二の神々が現れる

杖…悪霊の侵入を防ぎ止める神

 

帯…長旅(人生)を司る神

嚢…時間を司る神

 

衣…煩わしいことを司る神

 

袴…二つに分かれたものを司る神

 

冠…罪穢れを飲み込む神

 

左手の手纏…沖へ向かう神

右手の手纏…岸辺から遠ざかる神

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