以前、「死」が「けがれ」や「不吉」なものとして捉えられ
敬遠するようになったのは、最近の情報操作が原因ではないか?と書いたが
生活の中で敬遠しがちな、その「けがれ」は、新しいものを生み出す力として解釈されていたようだ
確かに「死」=「けがれ」「きたない」「こわい」
などのマイナスイメージは否めない
しかし、この死というものは
命あるもの…細胞の活動により、その形を保つものに関しては
避けて通ることのできない、必ず経験するものである
死は、細胞の機能停止により、その個体としての役割を終え
時の経過とともに腐敗していく
しかし、その腐敗活動は、新しい個体への生まれ変わりである
原子的な解釈では、地球全体として質量保存の法則が成り立つと考えると
その細胞は分解され(腐敗し)別なものへと生まれ変わり
その作業を半永久的に繰り返しているのが
地球上の生命体だ
その「死」は、新しいものの誕生への序章と考えることは
昔からあったようで
「古事記」を読み解くと
「死」ばかりではなく、排泄物のような「汚い」ものさえも
人々の生活に欠かせないものへの生まれ変わりとして描かれている
その考えは、単純に「けがれ」から「必需品」への生まれ変わりではなく
もっと高度な構造を持った哲学的な考えをもとに
多くの経験から会得した信憑性の高い論理となっている
そのように、先祖が多くの経験から会得した「死」に対する解釈を理解しないことには
現代、行なわれている「お墓」や「お葬式」の概念を
表面的にしか捉えられない可能性がある
今一度、本当の意味での「死」の迎え方を考えてみる必要があるのかもしれない