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第四一回 「墓石の原点~その4~」・・(平成21年7月1日)

 「黄泉戸」の「戸」は、この世とあの世の境界にある「石の戸(石戸)」で、これが後に民俗の「塞の神」や「道祖神」、あるいは仏教の「六地蔵」へと発展する原型です。

 ここでいう「石戸」とは、『万葉集』巻三「河内王を豊前国鏡山に葬る時、手持女王の作る歌三首」の「418 豊国の鏡山の石戸立て隠りにけらし待てど来まさず」また「419 石戸破る手力もがも手弱き女にしあれば術の知らなくに」とあるように、彼此の境界を示しています。そしてあの世とこの世が比較的簡単な「石戸」で仕切られている意味も見逃すことができません。
 私たちの祖先は、仏教がいうように「西方極楽浄土は十一万億土」の想像を絶するような宇宙の果てにあるのではなく、ごく身近に「あの世への出入り口」を感じていたのです。
 このことは柳田國男の『先祖の話』などにも多く取り上げられているのですが、その起源が神話にある「塞えぎる霊力を持った黄泉戸としての千引岩」と言ってよいでしょう。

 では、なぜイザナミを「道反」したり「塞」ぎらなくてはならなかったのでしょうか。
 これまでの答えなら「死の穢れ」と「イザナミの恐ろしい魔力(死者のたたり)」があるから、ということになるはずです。
 なるほど、神話のストーリーはそのようになっています。
 しかしここでもイザナミを「自然」、イザナギを「文化」に置き換えて読むと、隠れたもう一つの意味が浮かび上がってきます。

 イザナギ(文化)は、イザナミの死体の腐敗によって「死を確認」しますが、イザナミ(自然)もまた「黄泉の国の食べ物を食べたので、もう戻れません」と言って、自らの「死を確認」します。千引き岩を挟んで「事戸を度す」背景には、こうした二神の死の確認があって、はじめてその隠された意味を理解することができます。
 ここで重要な意味を持つのが、「死の穢れは豊かなものを生み出す偉大なマイナス」という叡智です。
 この叡智を、自然と文化の二つの側面から受け止めるとき、イザナギとイザナミのとった言動の「本当の意味」が理解されます。

 イザナミは死の世界で新たな再生(豊かなものを生み出す作用)の霊力を得た証として「黄泉津大神」となり、イザナギはこの世で文化の秩序を維持するための「生と死」をコントロールします。
 それがイザナミの「私は日に千人を殺す」と「それなら私は日に千五百人を産ませるまでだ」という、千引き岩挟んだ二神の会話です。
 そしてイザナギは「死の確認」を文化的なシンボルとするため、千引岩という墓石を作り、イザナミを「カクシマツル」ことで、イザナミの死とその腐敗を文化の世界でケリをつけています。
 従ってイザナミ(自然)もイザナギ(文化)も死の確認をしてそれぞれの世界に生きる決意をした以上は、今度は千引岩を境界に、千引岩の霊力によって二神がそれぞれの世界へ「道反」され、相手の世界へ踏み込むことを「塞えぎられる」のは当然のことです。
 それが「道反」と「塞ぎる」本来の意味だったのです。

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