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第三九回 「墓石の原点~その2~」・・(平成21年5月1日)

 葬式と位牌はきわめて精神的・観念的な色合いが強い文化的なものです。
 しかし「お墓」は、文化の度合いが葬式や位牌より少なく、「どこまでも自然界のものであろうとする文化的なもの」といえます。
 お墓は文化的な思考がつくりだしたシンボルですが、反面、死者を「大地へ帰す所」として自然が強く残っていますし、死者そのものは常に自然に属し、イザナミの「ものの次元」であろうとします。イザナミからイザナギへ「事戸を度」した隠れた意味とは、イザナミが「自然のままに死を受け入れ、死の世界で新たに生きる」決意だったからです。

 したがって、はじめから文化として考え出された「葬式」や「位牌」にこうした性向がないのは当然です。

 ここで「自然」と「文化」について、基本的な違いを見ておきます。
 死・死体・死体の腐乱・骨などはいずれも、文化的にどんな意味付けをしても、最後まで「自然」そのものです。そこが位牌や葬儀とは違います。
 「自然」とは、地震・台風・雷などの自然現象を見てわかるとおり、人がどんなに制御しようとしても、コントロールできないもの、また予測不可能なものです。もし予測しようとすれば巨額の経費がかかります。
 一方「文化」とは、「人間の脳」が考え出したもので、法律・習慣・時間・学問・経済・情報などのように、どこまでもこれらを、人は際限なく秩序だてて、合理的にコントロールしようとします。
 たとえば、犬の放し飼い・立ち小便・会議中の居眠りやおしゃべり・痴漢行為などの「自然のままの行為」に対して「文化」は、あらゆる規制を講じて何とかこれをコントロールしようとします。もしそれができない時は、文化の世界から取り除きにかかります。
 つまり「自然」と「文化」は二律背反の対立する概念です。

 とすると人間の「死体」とは、実に「やっかいなシロモノ」ということになります。
 文化的にどこかでケリをつけても、何万年か後に突然「骨」として自然の姿のままあらわれるので、その都度、
 文化的な決着をつけなくてはなりません。
 そこで人はあらかじめ、死体や骨に対して「永代供養」という文化的決着をはかり、永続性のある「墓地」に埋葬する必要が生じます。つまり死体に対して人は一種の予防「危機管理」をしているのです。
 しかしそれでもなお、埋葬された死体や骨は永久に「自然のまま」でありつづけるので「やっかい」なのです。

 お墓は「自然(ものの次元)」と「文化(たまの次元)」がせめぎ合う、ちょうど中間あたりに位置する「シンボル」として、「文化」の側から二つの次元に「折り合いをつけたもの」ともいえます。
 これが神話の「事戸を度す」という言葉の背景に隠された「日本人のお墓」の意味です。

 ちなみに、以下は筆者の「こじつけ」ですが、イザナギの側に限っていえば、「事戸」は「異なる戸」の「異戸(異界・他界・あの世への入口の戸)」だったのかもしれない、と思っています。それなら「事戸を度す」は「この世からあの世への戸を開けて送り出す」ことになります。
 また、『日本書紀』の「絶妻」は「絶際」ではないか、とも思います。「際」とは「境界」のことで、「この世」と「あの世」の瀬戸際を意味し、「絶際」とは「ここまでがこの世、その先はあの世で、断絶している」ことを「宣言」した、とも考えられます。
 しかし古代の用事例を詳しく調べたわけではないので、確信はありません。あくまでも「こじつけ」です。

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