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2017-10

推古天皇と聖徳太子①

物部守屋率いる軍に対し完全勝利した蘇我馬子は
空席となっている天皇の座に誰が就くのかを
姪であり故敏達天皇の皇后である炊屋姫(かしきやひめ)と相談して
崇峻天皇を第32代天皇として即位させるとことにした

崇峻天皇は欽明天皇と蘇我馬子の娘との子なので
蘇我氏の血を引く天皇となった

蘇我馬子はこの崇峻天皇を手駒の一つとしか考えていなかったが
次第に関係が悪化していき
蘇我馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて
崇峻天皇を殺害してしまうのであった

過去に暗殺された天皇は
安康天皇と崇峻天皇の二人だけである

このように王権を自在に操る蘇我馬子だったが
非難するものはもう誰もいなかった
政権で力を持つ元皇后の炊屋姫もこの件に関しては承認していたようだった

次に蘇我馬子は蘇我氏の繁栄のために炊屋姫を天皇にしようと奔走し
ここに初の女性天皇である第33代推古天皇が誕生した

他に男性の皇位継承者がいなかったわけではないが
女性を天皇に選んだのには理由があった
それは、どうしても蘇我氏の血を天皇家に入れたかったこと
そして蘇我氏の血が全く入っていない敏達天皇の遺児である押坂彦人皇子(おしさかひとのみこ)が天皇になることをどうしても避けたかったからである

蘇我氏の血が濃い厩戸皇子(聖徳太子)が皇位に就くまでの中継ぎではないか
という説もあるが、この時代には在位中に退位して皇位を譲る制度はなかった
一度、皇位に就けば崩御するまでその座に居続けなければならないので
聖徳太子を皇位に就かせることには無理がある
推古天皇は中継ぎではなく「蘇我王朝」を盤石なものにするための方策だったのだろう

推古天皇は聡明な女性であったようで
群臣からの信頼も厚かったことも皇位に就いた一要因であったとも言われている

蘇我馬子は自分の敷地内に小墾田宮(現在の奈良県明日香村)を開かせ
推古政権をコントロールしていった

この推古天皇が即位した593年から約100年間を飛鳥時代と呼ぶ
この時代に仏教は完全に定着し仏教文化が華開いた時代でもある

仏教伝来②

第30代の敏達天皇が崩御した

対立する蘇我馬子と物部守屋は
敏達天皇の葬儀の場でお互いを激しく罵りあった

体の小さい蘇我馬子が太刀を帯びて弔辞を述べると
物部守屋はその様子を見て
「獣を射る大きな弓で射られた雀のようだ」と罵った

逆に物部守屋が体を大きく揺すりながら
弔辞を述べていると
蘇我馬子が「鈴を付けたら面白い」とからかった

お互いを認めない両者は
もはや修復は不可能な段階にきていた

第31代の次期天皇は用明天皇となった
用明天皇は欽明天皇と蘇我馬子の妹との間にできた子で
蘇我馬子は蘇我家の息のかかった天皇だけに
この機会に自ら仏道に帰依しようとしたが
やはり物部守屋は用明天皇を公然と批判した

さすがに朝廷を敵にまわすことで危機感を感じた物部守屋は
拠点の河内に帰り、戦争の準備を始めた

そんな中、用明天皇は崩御した

物部守屋は軍勢を率いて
皇位を狙う穴穂部皇子(あなほべのみこ)を担いで政権を狙った

蘇我馬子は穴穂部を襲撃して命を奪った

蘇我馬子は軍勢を率いて
物部守屋の拠点である河内へと向かった
その隊には、用明天皇の子である厩戸皇子(うまやとのみこ)のちの聖徳太子がいた

両軍は衣摺で激突したが
朝廷の軍を担当する物部氏に蘇我氏は劣勢となる

厩戸皇子は霊木で仏教の守護神四天王像を作り
仏に誓いを立てた

「もし勝たせてもらえたら、四天王のために寺を建てます」と

蘇我馬子も仏教を普及させるために寺を建てると誓い勝利を祈願した

その二人の願いは通じ物部守屋を倒し軍も崩壊した

これによって蘇我馬子は朝廷をも凌ぐ勢いの権力者へと上りつめたのだった

厩戸皇子は加護に感謝して
約束通りに摂津に四天王寺(大阪府天王寺区)を創建

蘇我馬子も飛鳥に法隆寺(現在の飛鳥寺、奈良県明日香村)を建てた

百済で仏道を学んだ尼僧の善信尼には桜井寺(現在の向原寺)を寄贈した

このことによって仏教は国の教えとなり
普及の大きなきっかけとなった

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