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2016-07

諸国平定

10代目の崇神天皇は
大物主神となどの神々を鎮めて世の中を平安に導いた

しかし他の地方は、まだ朝廷に屈することがなかったため
王権を広めるために各地に将軍たちを送り込み武力での鎮圧をねらった

その武将のひとりである崇神天皇の叔父にあたる大毘古命(オオビコノミコト)が北陸地方に向かうために幣羅坂(へらさか)…※現在の奈良市北
に来ると、奇妙な歌をうたう少女に出会った
その歌は天皇の命が狙われていることをほのめかす内容だった

天皇の殺害を計画していたのは建波邇安王(タケハニヤスノミコ)
崇神天皇の叔父(大毘古命)の異母兄であった

大毘古命は軍勢を率い出発し
建波邇安王の軍と木津川を挟んで向かい合った

戦いはすぐに決着することになる

大毘古命の軍の放った矢が建波邇安王に命中し
建波邇安王の軍は雪崩を打って逃げ出した
大毘古命の軍はそれを追い詰めて滅ぼして勝利したのだった

その後、再び北陸地方に出撃した大毘古命は、その地を平定した

伊勢から東北地方までの太平洋側の一帯に将軍として派遣された建沼河別命(タケヌナカワワケノミコト)も服従しない豪族を駆遂していった

崇神天皇の兄弟である日子坐王(ヒコイマスノミコ)も丹波地方で敵を打ち負かした

そして北陸地方から進んでいた大毘古命と建沼河別命の父子は
相津(福島県会津)で出会った
そのエピソードから相津(会津)と呼ばれるようになったと言われている

日本書記では、その他に瀬戸内海沿いの制圧も加えることで
四道(四つの地方)将軍の物語となっている
崇神天皇は、実在の人物として信ぴょう性が高いと言われているが
この将軍派遣を行い地方を制圧した物語は
フィクションではないか…とも言われている

新潟県が大和王権に属するようになったのは
大化改新のあとである説が濃厚である
太平洋側の東国も崇神天皇の時代に掌握していたとは考えにくい

つまり事実とは考えにくい事柄も多いのだ

将軍派遣自体が天皇の偉業を示すための作り話である可能性が高いのである

記録実在すると思われる初代天皇 崇神天皇

記録上は第10代目天皇である崇神天皇

しかし、その前の天皇は実在の天皇ではない可能性が高いため
実在する天皇の初代は、崇神天皇と言っても差し支えないであろう

 

崇神天皇は3世紀後半から4世紀初頭の天皇であったようだ

 

崇神天皇は、疫病に悩まされた

疫病の大流行により国が滅びる危機に直面する

 

崇神天皇が神に意見を求めると

夢の中に三輪山の大物主神(オオモノヌシノカミ)が現れて
役病は自分が起こしたもので、末裔の意富多々泥古(オオタタネコ)に祀ってもらえば

祟りをしずめ、世の中は安らかになると語った

 

崇神天皇は、さっそく意富多々泥古を祭主に命じて

大物主神を三輪山に祀らせた
さらに天の神、地の神にも、社を定めると

猛威を振るっていた疫病もしずまり、平穏が戻ってきた

 

この物語は、崇神天皇が神々の祭祀権を握り、政権内に取り込んだことを示している

 

そして話は意富多々泥古の先祖の話に変わる

 

意富多々泥古の先祖、大物主神と活玉依比毘売(イクタマヨリビメ)の恋愛物語である

 

輝くほど美しい活玉依比毘売のもとに、ある夜、高貴な男性が訪ねてきた

このふたりは結ばれて、活玉依比毘売はすぐに身ごもった

活玉依比毘売の両親が不審に思って
活玉依比毘売を問いただすが、相手の名前も知らないという

 

父が相手の男の素性を知ろうと活玉依比毘売に知恵を授け

糸巻きに巻いた麻糸を針に通して

男性の着物に刺すように命じた
活玉依比毘売が父の言う通りにすると

その麻糸は三輪山に鎮座する大物主神の社に達していた

 

糸巻きに三輪だけ糸が残っていたことから

この地を美和(三輪)と名付けたという

 

この話は、大物主神の拠点である三輪山の近くに崇神天皇が宮を置いたことで

王権と在地神との関係が深いとことを示している

 

4世紀後半からは、この三輪山信仰は大和王権の拡大とともに地方にも波及し
大物主神と同一視されることで王権強化に貢献していくことになる

神社の基本スタイルは、この三輪山信仰が形成したとする説もあるほどだ

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