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2012-01

「霊」と「霊魂」について

一般的に「霊」や「霊魂」という言葉はよく使われているが

実際に何のことを指しているかについて具体的に説明することは難しいだろう

 

「霊」は、死んだものから抜け出した「魂」と考えられる場合が多く

子どもなどが使う「おばけ」というのも、この「霊」に該当する場合がある

 

よくテレビなどで霊媒師が登場し

霊を憑依させ、会話をする…などといったものが行なわれていたり

「霊がたたる」といって、お払いをするものがいたり

その解釈によっても、「霊」のニュアンスは多少違ったものになってくる

 

ここでは、「霊」は存在するのか、しないのか?

といった検証をするつもりはない

 

この「霊」というものは、一体どのように考えられていた存在なのかを説明していきたいと思う

 

私達は、お墓参りをする際、もしくは仏前に手を合わせる際

自然と心の中で、対象となる故人に向かって話かけている場合が多い

「安らかにお眠りください」

「安らかに往生してください」

「ご冥福をお祈りします」

「私達を見守ってください」

などが多いだろう

 

その声を掛けている相手が、「霊」であると考える場合が多い

それは、「霊」の存在を感じて行なっている儀式ではなく

(感じている人もいるのかもしれないが…)

頭の中で、その存在を信じて声を掛けている

もしくは、そうするものだと慣習になっているものなのだろう

 

お墓や位牌に、故人がいると信じ

その故人に向かい、自分の気持ちを伝えることで

先祖とのつながりを感じることができれば

それはそれで、幸せなことなのである

 

古代中国や朝鮮半島では

その故人に話しかける「なにか」を「霊」や「霊魂」と呼んでいたので

そのまま日本でも、そう呼ばれるようになったと考えられている

 

さかのぼって、インド仏教では本来「霊」や「霊魂」の存在は考えられていなかったようだが

生まれ変わる場所を示す「六道輪廻」という考えがある

中国では、「霊」の存在がなんとなく信じられていたので

インドから中国に仏教が伝わった際には

「六道輪廻するのは霊魂」と、考えられるようになった

それが、そのまま日本に伝わってきたと考えられる

 

インド仏教では、実は「霊」の存在は考えられていなかった…という事実は

中国に伝わった仏教の中では、なかなか受け入れられず

中国仏教に歴史上でも、この「霊」の存在は大問題になっていた

それは、古代中国の「霊魂観」が人々の生活の中に

長い間にわたって、根強く定着していたことから

「霊」の存在を否定していたわけではないが

そのような形で語られていないインド仏教に対して受け入れることが難しく

少し解釈を自分達の都合に合わせて変更して

中国仏教となっていたようである

「門明け」「門開き」

「年始の挨拶」というものを最近はあまり見なくなってきたが

以前は、正月の朝に、お世話になっている人々に

新しい年もくれぐれもよろしくお願いしますと出向く光景が多く見られた

 

地方によっては、身内以外の人々の家に正月早々に突然訪問することを憚られる傾向もあるが

本家を守っている家などでは、現在も分家や、仕事上の交際相手が訪問してくることを前提として、祝い酒や、もてなしの料理を不足なく用意している家も見られる

 

しかし、正月はあくまでも「内で祝うもの」として

身内以外への年始の挨拶は、3月中に終わらせておくのが良いとか

場合によっては、6月までには一度は訪問しておくのが礼儀である…など

年始の挨拶は、元旦に限ったことではなく

年が明けて、最初の訪問日を「年始の挨拶」と解釈する風習もあるのである

 

四国の中央の山地のかなり広い地域では

「本家への年頭礼」を「かど明け」と名付けて

一家一統の厳重な作法としている場所もある

 

同じ風習は、ほかの地域でも見られ

元旦の早朝(おそらく日の出前)に分家のものが本家に出向き

本家の表の戸を開く風習を「門明け(かどあけ)」と呼ぶ場合がある

これは、初春の神を本家に招き入れる意味があったようだ

 

近年では、その後に本家が分家に出向き

門を開けにいく地域もあるようだが

これは、本家、分家の交際を「七分三分にしよう」という考えで

改良された、比較的新しい風習のようである

 

しかし、本家の者の訪問は

分家の訪問の後になっていたようなので

本家に開けてもらうまで、門を開けずに待っていたのでは

あまりに時間が遅すぎるように思われるので

この風習は、形上のものであって

本質は、両家で行き来して、祝い酒を酌み交わすのが

「門明け」の正体になっていき

だんだんと、その名に沿った行動がなくなり

名前だけが残るので、なんとも不明な感じは否めなくなる

 

長野の方では、分家のものが注連縄を持参し

本家の神棚に張り渡すことを「門開き」と呼んでいた

正月の飾りは、大晦日に飾ることを「一夜松」と呼んで嫌う風習もあるので

正月の、2、3日前には飾ることを考えると

この場合の「門開き」は、正月ではなく、年末の行事として捉える方が自然である

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