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2011-01

~1からやり直さないように~家督は祖先のプレゼント

現代、家督や育成環境に囚われず

自分の進みたい道を選び、自己責任で歩んでいく-という生き方が当たり前のようになってきていて

商売を営む家などは、後継者問題に頭を悩ませ

商売を継ぐ子があればありがたがり

子も時には商売人の子であることを恨み、自分の夢を諦めてまで継ぎたくないとか

好きな道に進みたい…などと、実家の商売と全く違う道に進む場合も多い

 

昔は、今のように職業の選択肢も少なく

そもそも、職業を選ぶという概念より

どのように生き延びていくか?が最も重要な課題であり

生きていくために必死に田畠を耕し

その子が、引き続き生活していけるように田畠を継がせ、子が多いようなら新たに開墾し、与えたのである

 

これが、一代のみでリセットされ

人は家督を継がずに、一から開墾し

田畠を手に入れて、農業を営む-

などということになれば、大変な労力となり

なにより社会全体の効率が悪すぎやしないか?

 

先祖のさまざまな経験が知恵となり、基盤となり

その家督を継ぐことで、同じ過ちを犯すことなく

先祖の知恵を取り入れ、それに自らの経験や知恵を加えて、より高めたものを子孫に伝えていく-これがまさに進化である

 

血縁、地縁も引継ぎ

小さな社会の中で、絆や人間関係も繋いでいく

その縁を大切に育て、助け合っていく

 

現代は、近所付き合いや、親戚付き合いを煩わしく思う人も多く

小さな単位の家族で生活する人も多いが

 

昔のように、家督を継ぎ、地縁、血縁を大切にする生き方の方が効率が良く、無駄が少ないように感じられる

 

家督を煩わしく思うより

自分で積み上げる苦労や効率の悪さを考えると

ありがたいプレゼントであることが理解できるだろう

 

家督とは、商売の屋号ではなく

その中に含まれる縁や、知恵などの

多くの時間を割かなければ手に入れることのできない「無形の家督」が含まれることにも目を向けていただきたい

行方不明者の墓~一家族の決断~【8】最終回

5月の法要に向け、家族が動き出した

そもそも行方不明者を死者として扱い、法要を行なってもよいものなのか?

お世話になっているお寺に聞いてみた

返事は「住職に聞いてみないと…」と、言葉を濁したが

本意ではない様子が伺える

「遺体もないのに、法要を行い、戒名を付けてもいいものかどうか…」

 

おそらく「縁起でもない」という意見もあると思う

失踪者は生きている可能性も「0」ではないのだ

 

北朝鮮の拉致事件を見ていて思った

国民の大半は、30年近くの時を経てまさか失踪者が戻ってくるとは!と驚きだったのではないだろうか?

みな一様に諦めムードも感じられ

失踪者家族達がしきりに生存に望みを託し

真相の究明を訴える

そして、一部の生存者が戻ってきたのだ!

感動的な再会のシーンを見て、本当に良かったと心から思った

 

法要を行い、戻ってきたらどうするのか?

そんな考えもよぎったが

それは、それで嬉しいことじゃないか!!

 

人は…世間は…

生きているか、死んでいるかわからない人に対して

「死」の可能性を言及することはタブーとされている

 

しかし、失踪者家族は

そのことに縛られ続け

あてもないのに、望みを捨ててはいけない心情に駆られる

 

失踪者を死者と扱うと

悪人になったような気分になってしまうのだ

 

いつまで続くかわからない

目的の無い道は

生きていく人間を束縛していく

 

失踪した弟を死者として供養することは

生きている可能性を否定した薄情者なのだろうか!?

 

私は…

一旦区切りをつけて

もし生きていたらその時に考える…という結論を出した

 

否定する人もいるかもしれない

しかし、世論のために生きているわけじゃない

自分が納得すればいいのだ

 

そして、私は今後

もし、失踪家族に出会って

その家族が、失踪者に縛り続けられる人生を送っていたら…

解決策の一つとして、私の経験を話していきたいと思っている

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