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2010-10

行方不明者の墓~一家族の決断~【3】

弟が失踪してから10年ほどは

陰膳を用意していた

弟の席に食事を用意して

家族みんなで食事をする

 

「陰膳」という存在を始めて知った

食事の時、弟が座るであろう場所を歩くと

ひどく怒られた

 

最初は、弟の食事は捨てられていたが

家族が食べてもいいらしいという情報を聞いてからは、母が弟の陰膳を食べるのが我が家の食事のスタイルとなった

「いただきます!」のあと

父と私と妹が食事をする、一拍おいて(弟が食べた後)母が食事をスタートさせる

 

私は、たまに弟の夢を見るようになった

夢を見てカレンダーを見ると、弟の誕生日であることがほとんどである

 

行方不明者の夢を見る時

年を重ねていることが確認できると、その人は生きている

行方不明の時のままで夢に出てくると、その人は死んでいる

と、いう迷信の存在を知ったので

母に弟の夢を報告する際には

「大きくなってたよ」と伝える

「じゃあ、生きているんだね」と母も喜ぶ

夢の中の弟が大きくなっていたのかどうかわからない

ただ、母が喜ぶのでウソをついた

 

陰膳や、夢の迷信など

行方不明者が家族にいなければ知らなかったことばかり

恐らく、戦争不明者の家族などが

希望を捨てないために、考え出した習慣なのだろう

 

行方不明とは、残酷である

ある意味、「死」よりも家族を憔悴させる

死んでいるのではないか?という恐怖と

生きているのではないか?という希望の狭間で

長い時間と心が支配される

 

「死」というものは

長い時間をかけて、受け止められていくものだ

しかし、行方不明というものは

気持ちの落としどころ見つけられず

長い時間を過ごしていく…

 

戸籍上、弟は生存しているのだ!

しかし、姿は見えない

じゃあ、いつを区切りに除籍をすればいいのか?

 

人の平均余命で割り出すのか?

認定死亡の届出が可能なのは

失踪から7年と定義されている

 

失踪から20年

新しい方向を考えるため

私たち家族は、現実を直視しはじめた

行方不明者の墓~一家族の決断~【2】

とりあえず学校には事情を説明して
しばらく学校を休むこととした

こんなことを親に言うと
ショックを受けたり、怒られたりすることが目に見えていたので言わなかったが
私は、なんとなく弟がもう帰ってこないような気がしていた

携帯電話などは無い時代だ
事情を知った知人などから電話がかかってくる
近所では、捜索隊が組まれ
みんなで探しに行こうと計画を立てている
少しでも情報を集めようと新聞に記事にしてもらった
よくわからない人が、よくわからない占い師のような人を連れてきて
「急がないと大変なことになる!」
と騒いでいる

人は、人が死ねば
対応の方法は知っている
しかし、当然ながら行方不明者に対する対応の仕方を知らない
マナー本にも、葬儀のマナーは書いてあるが
行方不明者の家族の対応方法など書いていない

どうしたらいいかわからないが
何もしないなんて考えられないのか
様子や詳細を知りたいのか
新聞に掲載と同時に、電話の数が増えていく
対応するのは、家で留守を任されている16歳の私だけだ

親に報告するためにも
何月何日何時に、誰から電話があったのかメモに記載していく
きっと親は、あとから
この人達にお礼と報告の電話をすることになるのだろうと思った

この電話は、ものすごい数だった
私の小学校の担任の先生やら、遠い親戚やら
知らない人もいっぱいいた
心配してくれることはありがたいことだが
同じことを説明している私は、疲れてしまった

昼は電話の対応で疲れ
夜は金縛りで眠れない
たまに帰ってくる親も疲れている

家の中は、不思議な緊張感が漂い
日常とかけ離れた空気が流れている

警察や自衛隊が出動して行われた捜索も
何日かして打ち切られた

あきらめきれない親は
週末には、施設のある町に家族で出かけ
車を走らせながら弟を探した
「よそ見をしないで、集中して!ホラ!家の影とかにいないか、ちゃんと見るんだよ!!」
と母は捜し方の指導をする

私は、もう弟はいないのではないか?と漠然と感じていた
探したって無駄だと思った
しかし親には言えない

現実的に考えて
15歳の少年が、山の中で生き続けることは考えにくい
ましてや、弟は知的障害者だ
一人で生きていくことは不可能だ
生存の希望が考えられるストーリーを作り出していく
誰かに連れ去られ育てられているのか?
北朝鮮の拉致問題なのか?

「弟は、死んだのではないか?」
と、いう言葉は家庭では絶対タブー
みんな頭の中でよぎりながら、口には出さずに
20年が経過した。

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