Home > Archives > 2010-03

2010-03

二種類の分家

日本の「家族制度」は、約300年以上に渡って

二種類の主義が存在している。

 

「長子家督法」と、「分割相続法」だ。

 

「長子家督法」とは、家の幹を太く強くしようとする考えで、家を継ぐもの(ほとんどがその家の長男)が特別の待遇を受け、家の力を保つ方法。

 

「分割相続法」とは、どの子にも幸せになってもらいたいと、ほぼ平等に相続させる方法である。

 

 

時代背景や、その土地柄、考え方によりどちらかを選択することになるのだが

やはり、双方共にメリット、デメリットが存在している。

 

現代の考え方からいくと「分割相続法」が良い選択のようにも思われるが

歴史の中では、一概にそうとも言えない時代もある。

 

戦国時代から江戸時代にかけて

軍隊を領主が自分の土地から召集する場合などには

家をしっかりと保つ「長子家督法」が適当であったと思われる。

 

家が一番弱る原因として、農作物の収量の減少が大きく

これでは多くの人を養うことができない

平等にしたのでは、みんな飢え死にしてしまうからだ

いざ召集しようとしたら、誰もいないでは話にならない

 

このように

家を継ぐもの以外の人間には辛抱してもらい

家を維持する必要があった時代もある

 

 

そう考えると

兵の召集の必要がない現代では

「長子家督法」のメリットがないように思われるが

それでも「長子家督法」を続ける地域がある背景には

 

・御先祖様に申し訳ない

・今までの慣わしを省くことで、なにかと噂になってしまう

 

と、いった原因が考えられる。

 

家が衰えかかった前触れではないかと噂されるのを避けるため

旧家や門閥(良い家柄)では、この分家の問題には慎重に考えざるを得ないのである。

家の初代~御先祖になる~

その家の初代とは、知りうる限り一番古い血統-

との解釈もあるが

すばらしく業績を残した故人に対し、子孫が代々祭っていくことに決め

その人を「家の初代」と呼ぶことはめずらしいことではない

 

例えば家の次男か三男で、本来であれば家を継ぐ人間ではないのに

何かのめぐり合わせで大名に取り立てられ、勤めを果たし

結果として、相当の禄(給与)を受けた人物であった場合に

その者を家の初代として代々祭っていく場合などである

 

その場合、その親-つまり「御先祖」と呼ばれる人物の親は代数から消えるわけではなく

過去帳にも、その親の名は残り続けるわけで

お盆に帰ってくる「ほとけ様」の一人にはかわりはない

 

そのようなことから

昔は、「この子は、御先祖様になる素質がある」

などという、現代から考えると少し不謹慎な感もある言葉が存在していた

これは『死んでしまう』という意味ではなく

先に書いた、立派な業績を残し「家の初代」となりうる大物の素質があるという褒め言葉なのである

順番から言えば家の次期当主に決定しているものに使用されることはなく

次男以降の、本来であれば当主になる者ではないが

新しく家を成し、当主となる可能性の高い者に使われていた

 

そして、この言葉は度々本人の目標として発せられる場合もあった

 

「私は、御先祖様になりたい」-

 

御先祖様にするかどうかは、その人の死後

子孫達が「立派な人なので、この人を初代として代々祭っていこう」と決めることなので

死んだ後までの目標を掲げて生きていく生き方は

現世の欲に目標を設定しがちな私達には見習うべき心がけのようにも思われる

「先祖」についての解釈

「先祖」と、聞いて人々は何を思うであろうか?

自分の血をたどった一番古いと思われる人

もしくは、その家が代々祭るべき系列であろうか?

 

日本は、古くからこの両者の少しニュアンスの違う解釈を受け入れ、言葉を使用してきたように思われる。

 

江戸時代徳川家は、途中養子で繋ぎながら続いてきた家系であることは、周知の事実である。しかし、その養子も元をたどれば、徳川家康が多くの子を成し、尾張、紀伊、水戸家を作り上げていった子孫。血の濃さにこだわらず、徳川の「名」を残すことで長く反映させていく仕組みを作り上げたのだ。

 

徳川家が先祖を祭るとは

その家の名を繋げてきた人々を祭ること

あくまでも直系をたどる作業ではないことが伺える。

家を代々守ることは、その家のならわしを繋ぐこと。伝統を引き継ぎ、より高めて次世代へと繋いでいくこと。

 

自分に現在起こっていることを「先祖」に感謝する機会には

「血」はもちろん、家の「ならわし」も、自分の中にあることを感じ

双方に感謝を示すことも損ではないのではないだろうか。

Home > Archives > 2010-03

 

このページのTOPに戻る