古事記 Archive
神武天皇へつなげて
全国には、大小8万を超える神社がある
その神社には、大きく4つの区分けが存在している
その区分けを「社号」という
社号は、神社名に付いているので
それで確認することができる
社号には「神宮」「宮」「大社」「社」がある
例えば、明治神宮や、出雲大社
などの「神宮」や「大社」の部分である
鳥居や拝殿、本殿にあげられた額からも、それを知ることができる
以下が、それぞれの社号の意味である
「神宮」は、天皇や皇室の先祖神を祭神とする、規模の大きい神社である
代表的な神社は「熱田神宮」「石上神宮」「鹿島神宮」「香取神宮」「鵜戸神宮」「平安神宮」などがある
「宮」は、皇室にまつわる人物や、人間神などを祭神にする神社である
代表的な神社は「香椎宮」「聖母宮」「北野天満宮」「日光東照宮」などがある
「大社」は、出雲大社のみの社号だったが、明治以降、規模や格の高い神社に使われるようになった
代表的な神社は「出雲大社」「諏訪大社」「春日大社」「多賀大社」「熊野本宮大社」などがある
「社」は、大きな神社から祭神を勧請している小規模の神社である
代表的な神社は「祇園社」「稲荷社」「天神社」「八幡社」などがある
ちなみに天皇という言葉は
初代からあったわけではないようだ
初代の神武天皇は
当時の呼び名は「彦火火出見大王」(ひこほほでみだいおう)
であった
天皇号ができるのは
天武天皇(第40代)のころとされている
奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から
「天皇」という文字が書かれた天武時代の木簡が発掘されたので
それが裏付けとなっている
次の代の持統天皇のときに発布された
飛鳥浄御原令で、天皇号が正式に法令化された
だから、それ以前の天皇の呼び名は
後になって付けた死後の名前である
天孫降臨②
邇邇芸命(ニニギノミコト)は、笠沙の岬(現在の鹿児島県薩摩半島の野間岬)で 見目麗しい木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)を見初めた
結婚したい邇邇芸命は、許しをもらうために
木花之佐久夜毘売の親である大山津見神(オオヤマツミノカミ)のところに使者を派遣した しかし、大山津見神は献上品を添えて、一緒に姉である石長比売(イワナガヒメ)も差し出してきた
しかし、石長比売は恐ろしい容姿だったため 邇邇芸命は姉だけを親のもとに返した
親である大山津見神曰く
「姉妹を差し出したのにはわけがある。石長比売との子の命は岩のように永遠になり、木花之佐久夜毘売との子は咲き誇る木の花のように栄える。しかし、妹の方だけを選んだので生まれてくる子たちの寿命は限りあるものになってしまった」
これは、天皇が人間と同じ寿命である…ということに対し 整合性をはかるためのストーリーであると考えられている
邇邇芸命と一夜を共にした木花之佐久夜毘売は懐妊し出産の時を迎えた
しかし、邇邇芸命は木花之佐久夜毘売を疑った 生まれてきた子は地上の神の子ではないか…?と 木花之佐久夜毘売は、「高天原の御子であるから、必ず無事に生まれるはずだ」と 産屋に入り、自ら火を放った
燃え盛る炎の中で木花之佐久夜毘売は3人の子を生んだ
その3人の子は
火照命(ホテリノミコト)、火須勢理命(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホオリノミコト)
といい
炎の中での出産にも関わらず、3人とも無傷で 木花之佐久夜毘売は天の血をひく子であることを証明した この3人は天照大御神の曾孫にあたり
火須勢理命は初代天皇の神武天皇の祖父となる
木花之佐久夜毘売は古事記では、神阿多都比売(カムアタツヒメ)という別名で語られることがある
この名称から九州の阿多地方の氏族の女神であると考えられている
そして後世になって
木花之佐久夜毘売は富士山の神として祀られ 石長比売も石の神として神奈川県の大山お祭神となり 人々から信仰を集めている
天孫降臨①
天照大御神と高御産巣日神は環境が整ったということで 地上に天照大御神の子である天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)を降すことにした
その命令を受けた天忍穂耳命は高御産巣日神の娘の万幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト)との間にできた子である邇邇芸命(ニニギノミコト)を自分の代わりに降臨させるように頼んだ
高天原の最高神である天照大御神と高御産巣日神は、それを承諾した
最終的に地上の統治に指名されたのは邇邇芸命であった
邇邇芸命は天照大御神の孫にあたるので天孫と呼ばれるようになる
なぜ、降臨する神が急きょ変更になったのであろうか?
これは古事記を作成する時に、女帝の持統天皇から孫の文武天皇に譲位されているが その状況が反映され、太上天皇として幼い天皇を後見するということで 持統天皇を天照大御神に 文武天皇を邇邇芸命になぞらえたのではないかと言われている
邇邇芸命が地上に降りようとした時に 高天原と地上をつなぐ道の辻に、天と地を照らす不思議な神が現れた
天宇受売命(アメノウズメノミコト)が命じられて名前を聞くと
猿田毘古神(サルタビコノカミ)と名乗り、案内役を買って出た
高天原は邇邇芸命に天児屋命(アメノコヤネノミコト)や天宇受売命など八神を従わせて
三種の神器(八尺の勾玉、八咫の鏡、草薙剣)を与えて降らせた
一行は雲を押し分けて進んでいき、九州の日向の高干穂の霊峰に降り立った
そこには天孫に仕えるために天忍日命(アメノオシヒノミコト)らが到着を待っていた
「この地は朝日がよく差し、夕日が明るく照るいい国だ」と邇邇芸命は語り
太い宮柱を建てて大きな宮殿を建設して、そこで暮らすことにした
その日向の高干穂は、現代のどの場所にあたるのであろうか?
有力な候補は二カ所あり
宮崎県北部の高干穂町と、宮城県と鹿児島県の県境にそびえる霧島連山の高干穂峰だ
しかし、高干穂は土地の名称ではなく 神霊が降りるための高く積んだ稲穂のことを意味するという説も存在する
大国主神の国譲り④
諏訪から出雲に帰ってきて
建御雷(タケミカヅチ)は、再度大国主に国譲りを迫った。
すでに事代主(コトシロヌシ)も建御名方(タテミナカタ)も高天原に従うことを誓っている。考えを聞こう。
ここにきて大国主は地上を献上することを誓った。
国譲りが成立し、天照大御神の子を地上に送る準備が整ったのだ
国譲りは、高天原が天皇家の祖先に地上世界を支配することを命じ
地上世界の最高神であった大国主が地上世界を譲ったことを記した物語である。
これは高天原の直系である天皇家が国を支配するという
正当性の根拠を示している天皇家にとっては大切な物語なのである
国譲りの物語は、一応神話であって事実ではないとされているが
そもそも巨大国家でもなっかた出雲が物語の舞台とされているのか?
大国主は出雲に留まらず、日本全国で広く信仰される神だった。
その大国主に対して、神の中でも上位にあたることを主張するのが国譲りである。
大和から見て日が沈む方向にある出雲を黄泉の国に見立てて
そこに追いやって祀ったために、出雲が物語の舞台として選ばれたと考えられている。
大国主は国譲りを認めるかわりに条件を出した
「宮柱を太くして立て、大空にそびえる立派な神殿を建ててほしい。
その願いをかなえてくれたら、幽界に退き静かに暮らそう」
と。
この大国主の国譲りの条件は
出雲大社の起源を物語っている。
出雲大社の成立時期は不明なのだが
出雲大社は古くから立派な社殿が造られるようになっていった。
平安時代には奈良の東大寺大仏殿を超える高さ48mにもなっていたという。
発掘調査でも鎌倉時代のものと思われる巨大な宮柱が発見されており
大国主の国譲りの条件を裏付ける証拠となっている。
その高層な社殿は国譲りの代償であり
大国主の無念の魂を鎮める目的だったのであろう
今の出雲大社の本殿は江戸時代に建てられたものだが
その物語を継承しているかのように
千木までの高さが24mもあり
全国の神社の中でも群を抜く高さである。
大国主神の国譲り③
出雲の稲佐の浜で、大国主神の前に建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)ガ現れた。
建御雷之男神は、高天原にいる天照大御神と高御産巣日神から送りこまれた
三番目の使者である。
この建御雷之男神は、かなり強力な武神で
剣の柄を海面に刺して、刃の先に胡坐をかいて座り
大国主神に向かって言った
「地上は天照大御神と高御産巣日神の命で、高天原の御子が治めることになった。国を譲る気持ちはあるか?」と。
大国主神は、美保関の岬にいる事代主神(コトシロヌシノカミ)を呼んで意見をきいた。
事代主神は献上することを認めた。
しかし事代主神はそのあと、天の逆手を打ち
自分の船を転覆させて柴垣に変化させて
その中に隠れてしまった。
この事代主神の行動に関しては諸説あるのだが
天の逆手という方法は、呪術的な柏手のやり方で
本当は献上をしたくない事代主神が、柴垣に籠ることで
無言の抵抗をしたのではないか…という説もある。
大国主神と建御雷之男神が出雲の稲佐の浜で向き合って交渉しているところへ
大きな岩を指で弄びながら大国主神の子である建御名方神(タケミナカタノカミ)が現れた。
建御名方神は、献上に反対していた。
そこで建御名方神は、建御雷之男神よりも自分の方が強いと信じ
建御雷之男神に力比べを申し出た。
最初に建御名方神が建御雷之男神の手首をつかんだ
しかし建御雷之男神は、その腕を水に変化させて
その次に剣に変化させたので
建御名方神は恐ろしくなり手を放してしまった。
次は、建御雷之男神の攻撃の番となったが
建御名方神の手を握ったとたん簡単に握りつぶしてしまった。
負けを悟った建御名方神は逃走してしまった。
建御雷之男神は逃げた建御名方神を長野県の諏訪湖まで追い詰めて
建御名方神を殺そうとしたが
建御名方神は必死に命乞いをして
諏訪から生涯一歩も出ないことを誓って
地上の世界を献上することを約束した。
建御名方神を諏訪で祀っているのが諏訪大社である
この諏訪大社は全国で五千社の分社数を誇る神社となった。
その理由は
建御名方神は国譲りでは敗れてしまったが
平安時代には東国の武神として
鎌倉時代には北条氏が後ろ盾となり
武士の守護神として各地に勧請されることになったことによる。
大国主神の国譲り②
「大国主神が築いた地上の世界は、天照の子である天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)が治めるべきである」
と、高天原にいた天照大御神と高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)は宣言した。
大国主神は天照大御神の弟の須佐之男命の子孫であるが
本来ならば、地上は高天原の直径が支配するものであるとの考えから宣言がなされた
天照大御神と高御産巣日神は天忍穂耳命を地上に送ったが
地上は乱れていて、騒がしいと言い
天と地をつなぐ天の浮橋まで行って戻ってきてしまった
そのままでは、天忍穂耳命が地上に行き、地上の世界を治めることができない
そこで天照大御神と高御産巣日神は、天上にいる神々を集めて
地上の乱れを静めるために誰を派遣するか話し合いの場が設けられた
その結果、天上界の最高神から任命されて
その最高神の系譜である天皇が地上に君臨することになった
この場面が古事記の中でも最重要項目であり
古事記を編集するにいたった最大の目的は
この天皇が最高神から任命されて地上界を任せられているという
王権の正当性…説得力のためであると考えられているからである
地上の乱れた神々を服従させるために
天照大御神の二男で、天忍穂耳命の弟である天菩比神(アメノホヒノカミ)が派遣されることになった
しかし天菩比神は、その使命を忘れ大国主神に媚びていた
ちなみにこの天菩比神は出雲国造家の祖先とされている
出雲国造家は代々出雲大社の宮司となり、それは現在も続いているという
現在の宮司は千家尊祐氏で84代目となっている
天菩比神に続いて派遣されたのが天若日子(アメノワカヒコ)である。
この天若日子は野心家で、地上支配のために大国主神の娘を娶った
高天原は天若日子の様子を探るために
雉の鳴女(ナキメ)を地上に派遣した
しかし天若日子は弓矢で鳴女を射殺してしまった
その矢は鳴女を貫き
高天原まで届いた
それを拾った高御産巣日神は
地上に投げ返す
「もし、天若日子に邪心が無いならば当たるはずがない」と
しかしその矢は天若日子に当たってしまい
天若日子は天罰が下り絶命してしまうことになり
天若日子の野望も消えてしまったのだ
大国主神の国譲り①
天上の高天原を治めていた天照大御神(アマテラスオオミカミ)と高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)は、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)に地上の世界を支配るように命じた
地上の世界を支配するために地上界の王である大国主神(オオクニヌシノカミ)
に国譲りの交渉のために使者を二回派遣したが、二回とも失敗に終わってしまった 次の作戦として、力の強い神の建御雷之男神(タケイカヅチノオノカミ)を地上に送り 国譲りを力づくで迫った
大国主の子である建御名方神(タケミナカタノカミ)は譲渡に反対し抵抗したが 建御雷之男神に屈服させられて諏訪(現在の長野県)に幽閉されてしまった 大国主は自分を祀る神殿を建てることを約束させて 地上界を譲渡し、幽界に去っていった その大国主神の神殿として建てられたのが 出雲大社であると言われている 出雲大社は現代でも古代より連綿と続いている出雲国造家である千家氏が代々宮司を努め、社殿は国宝に認定されており、神社建築の中でも最古である
その出雲大社から歩いて20分ほどの場所にある稲佐の浜は 高天原からの使者建御雷之男神と大国主神が対峙した場所だと言われている
名方神が追い詰められた場所が 現在の住所で長野県諏訪市にある諏訪湖であると言われている 古事記にも登場する諏訪湖は氷結して、その氷がせり上がる様子が 蛇体である建御名方神が体をくねらせて妃神のもとに通った様子であると言い伝えられている その建御名方神が祀られていると言われているのが 同じく長野県諏訪市にある諏訪大社である 国譲りで敗れた建御名方神は諏訪の地域を出ないと誓い祀られている 諏訪神社は国内に1万社以上あると言われているが その総本社が諏訪地方の上社と下社である 現代でも、古事記ゆかりの地や物語にまつわる祭事などが残っているので 理解を深めるために訪れるのもよいと思われる
水と日本の歴史
日本は海に囲まれている島国であり
河川も多く、川や海からの恵みを多く受けてきた国である
その一方、最近では東日本大震災の大きな津波災害があり
津波、河川の氾濫、台風の被害など
水に関する災害が多い国でもある
日頃は、その恵みに神の存在を感じ感謝をするが
災害などが起こると、神の怒りだと捉え
その怒りを静めるために、様々な儀式を行う
その儀式のひとつに人身御供がある
実際に日本では、生贄の風習は少なかったようだが
それでも、風習や慣習としてはないが
近畿地方を中心として人身御供の記録は残っている
その生贄は、人の場合は少なく
動物が差し出されることが多かったという
特に多いのが牛で、その他のも猪や鹿など多くの動物が犠牲となったようである
この人身御供は、諸外国と比較した場合
日本は圧倒的に水に関係するものが多いのも一つの特徴である
神話の中にも人身御供と思われる内容の話も多く
ヤマタノオロチの話もそうだが
ヤマトタケルの東征の際に后の弟橘比売が
荒れる海の中に入水した話や
現在の大阪府門真市にある茨田堤の話の中にも
河川の氾濫を抑えるために少女が人身御供となった記述が日本書記の中にある
基本、生きているか、そうでないかは関係なく
お供え物とは、神に気を静めてもらうためのプレゼントであり
酒や米、花、お金…様々なものが現代でもお供え物として使われていて
あまりにも、状況が悪い場合(多くの命が犠牲になると想定される場合)には
自分達にとって、より大切なものをお供え物として献上した方が
大きな効果が得られると考え
人の命、それも若く美しい命が一番効果が高いと考えられて
年頃の美しい少女が犠牲となることが多いようだ
村を守るためと説得され
断ることも許されず
その犠牲となった少女達…
そして、その親の心情を考えると居た堪れない気持ちになるが
日本は、そうやって水との共存を模索しながら
災害と向き合ってきた国なのだ
根之堅州国はどこにあるのか?
スサノオは根之堅州国(ねのかたすくに)に住むと言われている
その根之堅州国とは、現在のどこに存在するのだろうか?
スサノオはクシナダヒメと結婚し
子供がうまれると根之堅州国に住まいを移した
根之堅州国は通称「根之国」と呼ばれていて
根之国は黄泉国と同義語であると解釈されているので
根之国は死者の国を意味することになる
この根之国とは、どこにあるのだろうか?
古事記には死者の国へ行く道は、出雲の黄泉比良坂(よもつひらさか)にあると記されている
しかし「出雲国風土記」には、出雲郡の宇賀郷に「黄泉の坂、黄泉の穴」という場所があると記載されている
そこは、今の島根県出雲市猪目洞窟であると言われている
その出雲国風土記には
出雲郡の北の方に脳(なぎつ)の磯と呼ばれている場所があり
その窟戸(いわと)に穴があり
夢にこの窟に来るものは必ず死ぬ
と伝えられていた
そのことから、この場所が「黄泉の坂、黄泉の穴」と呼ばれるようになったようだ
出雲と「死」は以前から関連があった
黄泉国と同義語である「根之国」の言葉の意味は
死者の国が地下にあること
根は地下に向かって伸びること
が関連付けられ由来となって
根之国が死者の国であると解釈されている
イザナミが葬られた場所も
現在の島根県安来市だと言われている
スサノオが住む根之国は
出雲の地下深くに存在する国だということがわかる
そして、その地下に通じる道…根之国の出入口が、出雲のいたるところにあったと言われている
出雲大社の北側にある日御碕神社には
アマテラスを祀る「日沈宮(ひしずみのみや)」という社殿がある
アマテラスを主祭神とする伊勢神宮は
日の昇る位置にあるので、出雲とは対極にある
伊勢神宮は「陽」の位置であれば
出雲大社は「陰」の位置
そのようなことから出雲は死の国に通じる場所であることは
様々な角度からも言えることである
オオクニヌシと八十神
出雲の国を建国したオオクニヌシには大勢の兄がいる
その数は、あまりにも多いので
まとめて八十神(やそがみ)と呼ばれている
この八十神は、因幡のヤガミヒメと結婚したいと願っていた
そして八十神は、因幡へ向かった
その時に、雑用係として、荷物持ちとして連れて行ったのがオオクニヌシである
八十神とオオクニヌシは、ヤガミヒメのもとにたどり着いた
そして、八十神はヤガミヒメに求婚した
しかし、ヤガミヒメは八十神ではなくオオクニヌシに嫁ぎたいと宣言した
このことに怒った八十神は、オオクニヌシを消そうとして
真っ赤に燃える大岩をオオクニヌシの上に落したり
大樹の隙間に挟んだりして殺してしまった
オオクニヌシは、八十神に二回殺されたが
その度に生き返ったのだが
このままでは危ないと思ったオオクニヌシの母神は
オオクニヌシをスサノオのいる根之国へと送った
根之国で新しい力を得たオオクニヌシは
地上に戻ってきて、八十神を撃退した
この八十神は、古事記での扱いはあまりいいとは言えない
そもそも、何人なのか、何十人なのかも不明であるし
個々に名前も与えられていず
兄弟の中で名前が明確なのはオオクニヌシだけであり
あとは、全員ひとくくりにされてしまっている
嫁ももらえず、最後はオオクニヌシによって退けられてしまうので
少しかわいそうな気もする
しかし、それは仕方のないことなのかもしれない
そもそも、この話はオオクニヌシが出雲を建国するまでの一過程い過ぎず
兄達は、やはり主役ではないので
申し訳ないが、この程度の扱いしかないようだ
根之国から戻ってきたオオクニヌシの話の中心は出雲の建国についてなので
八十神を撃退した話も、古事記ではたった一行しか扱われていないのである
しかも、なぜ一番末っ子が主役なのだろうか…
古代は、家督を一番下の弟が継ぐという末子相続が一般的であった
八十神もスサノオの子孫ではあるが
末子相続の慣例に従い、末弟であったオオクニヌシが
スサノオの後を継ぎ、葦原中国を治めることになったのである
- サイト内検索
- Feeds
- Meta