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古事記 Archive

沙本毘売の悲劇②

亡き皇后の忘れ形見である本牟智和気(ホムチワケ)に垂仁天皇は
愛情を注いで育てた
珍しい小舟を地方から取り寄せて一緒に乗って遊んだりもした

しかし本牟智和気は髭が胸に届くような年齢になっても
言葉を話すことができなかった

ある日、本牟智和気は空を飛ぶ白鳥の鳴き声を聞いて
初めて片言の言葉を口にした

それを聞いた垂仁天皇は大喜びして
山辺之大鶙(ヤマノベノオオタカ)にその白鳥を捕まえるように命じた

山辺之大鶙は白鳥のあとを追って
紀伊国に行き、播磨から山陰地方を経て
東国をめぐり、越国の和那美の水門で捕獲することができた

山辺之大鶙は白鳥を垂仁天皇の献上したが
それを見ても本牟智和気は言葉を発することはなかった

ある日の夜、垂仁天皇の夢の中に神が現れて
「私の神殿を天皇の宮のように荘厳につくってほしい。そうすれば本牟智和気は会話ができるようになる」と語った

夢に現れた神は、どの神なのか占ってみると
出雲の大国主神であることがわかった
垂仁天皇は本牟智和気を供につけて出雲の参拝に向かわせた

大国主神の社に詣で
大和に帰ろうと一行が斐伊川まできたときだった
突然、本牟智和気が供に話しかけた
口が利けるようになったのである

垂仁天皇は大国主神に感謝をして
出雲の社を立派な社殿に建て替えさせた

物語は他に本牟智和気が出雲で
肥長比売(ヒナガヒメ)と一夜をともにする
肥長比売の正体が蛇だったことに驚いた本牟智和気は急いで大和に逃げ帰る話も登場する

この話の意図は
蛇は古代より水と司る水神としてあがめられていることから
本牟智和気の大人への脱皮を語る話とも捉えられるが
本牟智和気は逃げてしまっているので
皇族と在地神の結婚はタブーである…という説話の可能性もある

沙本毘売の悲劇①

第11代の垂仁天皇の皇后である沙本毘売命
その沙本毘売命のもとに同母兄である沙本毘古王が訪ねてきて
天皇と自分とでは、どちらを愛しているか?
と突然訊ねてきた

とっさのことだったので
沙本毘売命は兄の方が愛おしいと答えてしまう

沙本毘売命と沙本毘古王は開化天皇の孫にあたり
垂仁天皇の従兄弟にあたる

古代では異母兄弟どうしの結婚は認められていたが
同母兄弟どうしはタブーとされていた

沙本毘古王は天皇を殺して妹の沙本毘売命を奪い
天皇の座につこうと考えていた
そして沙本毘売命に小刀を渡して
垂仁天皇の殺害を命じた

沙本毘売命は自分の膝枕で眠る垂仁天皇に3度小刀を振り上げるが
失敗に終わってしまう
兄である沙本毘古王と夫である垂仁天皇の間で板挟みとなり
涙が頬を伝って夫の顔に滴り落ちた
その涙で目を覚ました垂仁天皇に、沙本毘売命は兄の陰謀を伝えてしまう

それを聞いた垂仁天皇は、謀反を潰そうと軍勢を送った
沙本毘古王は城に籠って軍勢を待ち受けた
沙本毘売命は兄を心配して、その城に駆け込んだ

沙本毘売命はその時、垂仁天皇の子を身ごもっていたのだった

沙本毘売命を深く愛する垂仁天皇は
城を囲ったまま攻められずにいた
そのうち、子どもが生まれ
沙本毘売命は、その子を城の外に出して
立派に育ててほしいと垂仁天皇に託した
沙本毘売命は兄と死ぬ覚悟だったのである

沙本毘売命への思いを絶つことができない垂仁天皇は
必死に説得を行ったが
沙本毘売命の気持ちは変わらなかった

沙本毘売命は自分の代わりに従姉妹たちを妃に迎えるように伝え
兄に従って城の中で命を絶った

悲しみに暮れる垂仁天皇は沙本毘売命が生んだ子を
大切に育てることを決意し
炎の中で生まれた、その子を本牟智和気(ホムチワケ)と名付けた

沙本毘売命は垂仁天皇を愛しながらも
情熱をぶつけてくる兄の心情に寄り添い命を絶った

そして垂仁天皇も、そんな沙本毘売命を許し
優しく慈しみ
二人の間の子を大切に育てようと決意する

二人の繊細な心情を綴った切ない物語である

諸国平定

10代目の崇神天皇は
大物主神となどの神々を鎮めて世の中を平安に導いた

しかし他の地方は、まだ朝廷に屈することがなかったため
王権を広めるために各地に将軍たちを送り込み武力での鎮圧をねらった

その武将のひとりである崇神天皇の叔父にあたる大毘古命(オオビコノミコト)が北陸地方に向かうために幣羅坂(へらさか)…※現在の奈良市北
に来ると、奇妙な歌をうたう少女に出会った
その歌は天皇の命が狙われていることをほのめかす内容だった

天皇の殺害を計画していたのは建波邇安王(タケハニヤスノミコ)
崇神天皇の叔父(大毘古命)の異母兄であった

大毘古命は軍勢を率い出発し
建波邇安王の軍と木津川を挟んで向かい合った

戦いはすぐに決着することになる

大毘古命の軍の放った矢が建波邇安王に命中し
建波邇安王の軍は雪崩を打って逃げ出した
大毘古命の軍はそれを追い詰めて滅ぼして勝利したのだった

その後、再び北陸地方に出撃した大毘古命は、その地を平定した

伊勢から東北地方までの太平洋側の一帯に将軍として派遣された建沼河別命(タケヌナカワワケノミコト)も服従しない豪族を駆遂していった

崇神天皇の兄弟である日子坐王(ヒコイマスノミコ)も丹波地方で敵を打ち負かした

そして北陸地方から進んでいた大毘古命と建沼河別命の父子は
相津(福島県会津)で出会った
そのエピソードから相津(会津)と呼ばれるようになったと言われている

日本書記では、その他に瀬戸内海沿いの制圧も加えることで
四道(四つの地方)将軍の物語となっている
崇神天皇は、実在の人物として信ぴょう性が高いと言われているが
この将軍派遣を行い地方を制圧した物語は
フィクションではないか…とも言われている

新潟県が大和王権に属するようになったのは
大化改新のあとである説が濃厚である
太平洋側の東国も崇神天皇の時代に掌握していたとは考えにくい

つまり事実とは考えにくい事柄も多いのだ

将軍派遣自体が天皇の偉業を示すための作り話である可能性が高いのである

記録実在すると思われる初代天皇 崇神天皇

記録上は第10代目天皇である崇神天皇

しかし、その前の天皇は実在の天皇ではない可能性が高いため
実在する天皇の初代は、崇神天皇と言っても差し支えないであろう

 

崇神天皇は3世紀後半から4世紀初頭の天皇であったようだ

 

崇神天皇は、疫病に悩まされた

疫病の大流行により国が滅びる危機に直面する

 

崇神天皇が神に意見を求めると

夢の中に三輪山の大物主神(オオモノヌシノカミ)が現れて
役病は自分が起こしたもので、末裔の意富多々泥古(オオタタネコ)に祀ってもらえば

祟りをしずめ、世の中は安らかになると語った

 

崇神天皇は、さっそく意富多々泥古を祭主に命じて

大物主神を三輪山に祀らせた
さらに天の神、地の神にも、社を定めると

猛威を振るっていた疫病もしずまり、平穏が戻ってきた

 

この物語は、崇神天皇が神々の祭祀権を握り、政権内に取り込んだことを示している

 

そして話は意富多々泥古の先祖の話に変わる

 

意富多々泥古の先祖、大物主神と活玉依比毘売(イクタマヨリビメ)の恋愛物語である

 

輝くほど美しい活玉依比毘売のもとに、ある夜、高貴な男性が訪ねてきた

このふたりは結ばれて、活玉依比毘売はすぐに身ごもった

活玉依比毘売の両親が不審に思って
活玉依比毘売を問いただすが、相手の名前も知らないという

 

父が相手の男の素性を知ろうと活玉依比毘売に知恵を授け

糸巻きに巻いた麻糸を針に通して

男性の着物に刺すように命じた
活玉依比毘売が父の言う通りにすると

その麻糸は三輪山に鎮座する大物主神の社に達していた

 

糸巻きに三輪だけ糸が残っていたことから

この地を美和(三輪)と名付けたという

 

この話は、大物主神の拠点である三輪山の近くに崇神天皇が宮を置いたことで

王権と在地神との関係が深いとことを示している

 

4世紀後半からは、この三輪山信仰は大和王権の拡大とともに地方にも波及し
大物主神と同一視されることで王権強化に貢献していくことになる

神社の基本スタイルは、この三輪山信仰が形成したとする説もあるほどだ

欠史八代~実在しない天皇~

初代天皇である神武天皇の死後、子ども達による権力争いが生まれる

子ども達の最年長にあたる多芸志美美命(タギシミミノミコト)が権力を握ろうとする

 

父の皇后であった義母の伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)を妻にして
邪魔になる伊須気余理比売の子…つまり多芸志美美命の3人のしようと企てた

その計画を知った伊須気余理比売は子ども達に、そのことを歌で知らせた

驚いた3人の子のうち次兄の神八井耳命(カムヤイミミノミコト)と末弟の神沼河耳命(カミヌマカワミミノミコト)が多芸志美美命を排除しようと立ちあがった

 

しかし神八井耳命が武器を手にしながら
多芸志美美命を前にすると弱気になってしまい討つことができない
見かねた神沼河耳命がかわって多芸志美美命の命を絶った

何もできなかった神八井耳命は弟の勇気に敬意を払い

神武天皇の後継者として神沼河耳命を立てることにした

 

こうして2代目天皇の綏靖(すいぜい)天皇が誕生する

 

その綏靖天皇の死後は、その子どもである安寧(あんねい)天皇が即位した

 

そして、その後は
4代 懿徳(いとく)天皇

5代 孝昭(こうしょう)天皇

6代 孝安(こうあん)天皇

7代 孝霊(こうれい)天皇

8代 孝元(こうげん)天皇

9代 開化(かいか)天皇

 

と続く

 

しかし、この2代目の綏靖天皇から9代目の開化天皇までは
古事記だけではなく日本書紀でも

ごく簡単なことだけしか語られていない

内容も、妃の出身や御子、皇族から派生した氏族、宮や陵墓の場所程度である

統治内容などに関しては一切語られていないため

この天皇たちのことを「欠史八代」と呼ばれている

 

この天皇たちのことについて書かれていない理由について

架空の存在である…という説が濃厚である

各種発掘調査の結果もその結論を裏付けていて
推古天皇のころに創作されたフィクションであると言われている

史実の上で実在が確かだと言われているのが
10代目の崇神天皇である

 

この「欠史八代」は王権の歴史を古く見せるため、より権威づけるために
あとから付け加えられた神話であると解釈する説が多い

神武の東征③

話は、大和平定目前となる
いよいよ初代天皇である神武天皇の誕生である

伊波礼毘古(イワレビコ)のもとい邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)がやってきた
高天原の御子が天から降りたと聞き、あとを追ってきたと語った

 

邇芸速日命は天の神の印である宝ものを伊波礼毘古に献上して

臣下になりたいと申し出た

邇芸速日命は別の降臨系譜を持つ神ということになる
実は、古事記ではこの件に関して詳しく語られていない
古事記で語られた内容は
那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の妹と結婚し、生まれた子が物部氏らの祖先になった
…というおとだけだ

日本書紀では、もう少し詳しく書かれていて
邇芸速日命は、那賀須泥毘古が祀ってきた神だとし
伊波礼毘古に逆らう那賀須泥毘古を殺害して帰順したと書かれている

なぜ古事記では詳しく書かれていないのか?
朝廷の軍事と祭祀権を司った古代の大豪族である物部氏への言及をさけるためであると考えられている

 

いよいよ大和で政権を確立した伊波礼毘古は畝傍山(ウネビヤマ)の麓に
白檮原(ハシハラ)宮を造営し
そこで即位して初代天皇である神武天皇となり、国を治めはじめた

 

この即位の日は日本書紀では「辛酉年の春正月、庚辰の朔」と書かれている
明治政府はその日を「紀元前660年2月11日」と決定した
現在、建国記念日は2月11日だが、それはこの決定がもとになっている

 

神武天皇は日向にいたころに
阿比良比売(アヒラヒメ)を娶って
多芸志美美命(タギシミミノミコト)と岐須美美命(キスミミノミコト)が生まれていたが

それとは別に、大和で政治を行うために正式な皇后を探していた

それを聞いた大久米命(オオクメノミコト)が一人の女性を推薦してきた
奈良三輪山の神大物主神(オオモノヌシノカミ)と三島湟咋(ミシマノミゾクイ)(大阪府茨木市の溝咋神社の祭神)の娘との間にできた伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)だった

大物主神出雲の大国主神の分身か同一神とされている

 

この結婚は、天孫系神と出雲系神の統合を意味する
二人は結婚し
日子八井命(ヒコヤイノミコト)、神八井耳命(カムヤイミミノミコト)、神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト)の三人の子が誕生した

 

神沼河耳命は、次の綏靖天皇となる

神武の東征②

天にいる高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)は熊野から先に進むと
反抗する神がたくさん存在するからと案内役として八咫烏(ヤタガラス)を送ってきた

 

八咫烏の案内に従いついていくと

吉野川の下流で魚を採っている神に遭遇した

山に入ると尾お生やした神がいた

双方とも、伊波礼毘古(イワレビコ)に忠誠を誓うために参上した神だった

 

これらの神は、のちに
大和王権を支える豪族の祖先神となる
これらのストーリーから、この物語は
大和の各豪族の伊波礼毘古に対する服属を示していると言える

 

八咫烏は通常3本足で書かれているが
実は、古事記や日本書紀には八咫烏の足の数の記述はなく

中国の神話の影響で3本足で描かれているに

 

八咫烏は現在

サッカーの日本代表のシンボルマークに採用されているが
その足も3本で描かれている

 

東征を進めていくと

奈良盆地の東南にある宇陀に
兄宇迦斯(エウカス)と弟宇迦斯(オトウカシ)という兄弟がいた

八咫烏が、その兄弟に伊波礼毘古に従うか問うと

兄は矢を放って八咫烏を追い返した

 

この兄は悪知恵を働かせて

いったん伊波礼毘古に従う姿勢を見せて欺き
罠を仕掛けた御殿を作り伊波礼毘古の暗殺を計画していた

 

この兄とは対照的に弟の方は

伊波礼毘古に従うことを示し、兄の暗躍を伊波礼毘古に報告した

そして、軍務を担当する道臣命(ミチノオミノミコト)らによって責め立てられて

兄宇迦斯は自分が罠を仕掛けた御殿で殺されることになる

いよいよ奈良盆地に入ってきた一行は忍坂(桜井市)に到着すると
尾の生えた土雲と呼ばれる大勢の土豪たちが

岩屋でうなり声を上げながら待ち構えていた
伊波礼毘古は料理を出して接待をして
油断した土豪たちを歌を合図に隙を見て打ち殺した

 

このように伊波礼毘古は従わない地元の勢力を駆遂していき
平定を進めていった

神武の東征①

鵜葺草葺不合命(ウカヤフキアエズノミコト)の子である神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)(のちの神武天皇)は
兄の五瀬命(イツセノミコト)と話し合い、東の地で政治を行うことに決めて
船で日向(ひむか)を旅立った

 

この神倭伊波礼毘古命による大和への大移動を神武東征という

 

まず、一行は豊予海峡を越えて宇佐に着き
宇沙都比古(ウサツヒコ)、宇沙都比売(ウサツヒメ)のもてなしを受けた

福岡県の岡田宮には1年滞在し、そこから瀬戸内海に入った
そのあと、広島県の多祁理宮(たけりのみや)に7年、岡山県の高島宮で8年暮らした

高島宮を出てから、大阪湾の楯津(東大阪市日下)では
大和の那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の軍勢と戦闘になった
ここで神倭伊波礼毘古命の軍は大きな痛手を負うことになる

 

那賀須泥毘古との戦いは非常に激しいものとなった
兄の五瀬命は、この戦いで矢を受けて負傷した

五瀬命は「我々は太陽神の子なのに日に向かって布陣して戦ったので敗れた。日を背にして敵と戦おう」と言った

神倭伊波礼毘古命は兄の言葉に従って紀伊半島に沿って船で下り
熊野で上陸してから、南から大和に攻め上ることにした

 

しかし、男之水門(おのみなと)(大阪市泉南市)まで到達したら

兄の五瀬命が傷の悪化によって命を落としてしまう
日向を出発して16年経ったころのことだった
兄の死にもめげず神倭伊波礼毘古命は南へ進み
熊野村(和歌山県新宮市のあたり)に到着したが熊の姿が見えたとたんに
神倭伊波礼毘古命は兵士と共に意識を失った
すると高倉下(タカクラジ)という地元の者が現れて
一振りの大刀を献上した

それによって神倭伊波礼毘古命たちは意識を取り戻した
この大刀は天上にいる天照大御神(アマテラスオオミカミ)と高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)が神倭伊波礼毘古命の窮地を救うために
建御雷神(タケミカズテノカミ)に命じて下したものだった
大刀の力は強大で熊野の敵対する神を瞬く間に滅ぼしていった

海佐知毘古・山佐知毘古②

海神国で火遠理命(ヒオリノミコト)と結婚した豊玉毘売(トヨタマビメ)は
妊娠していて出産の時期を迎えようとしていて
夫のもとにやってきた

 

火遠理命は身ごもっている妻のために
渚に産屋を作り、屋根を鵜の羽で葺いた

しかし産屋が完成しないうちに豊玉毘売の陣痛が激しくなり
産気づいてしまう

豊玉毘売は産室に入り
お産がはじまるときに夫に言った

「異郷のものである私は、本来の姿に戻ってお産をしますので、絶対にお産の様子を見ないでください」と
この言葉が気になって、我慢できなくなった火遠理命はこっそり覗いてしまう

そこには大きなワニに変身して、身をくねらせている妻の姿があった
火遠理命は恐ろしくなって、その場から逃げ出してしまった

本当の姿を火遠理命に見られてしまった豊玉毘売は
恥ずかしさのあまり故郷の海神国へ帰ってしまった

 

火遠理命と豊玉毘売の子供は

屋根を鵜の羽で葺き終わらないうちに生まれたので
鵜葺草葺不合命(ウカヤフキアエズノミコト)と名付けられた

 

火遠理命のもとを去った豊玉毘売は
置いてきた我が子が心配になり海神国から妹の玉依毘売(タマヨリビメ)を送った

成長した鵜葺草葺不合命は叔母である玉依毘売と結ばれて

4人の子供に恵まれた
五瀬命(イツセノミコト)、稲氷命(イナヒノミコト)、御毛沼命(ミケヌノミコト)、若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)である

 

のちに次男の稲氷命は母の住む海神国へ行き
三男の御毛沼命は海のかなたにある常世国へ渡り
日向に残ったのは長男の五瀬命と四男の若御毛沼命で
若御毛沼命は別名を神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)といい
のちの初代天皇である神武天皇となる

なお山佐知毘古(ヤマサチビコ)こと火遠理命は580年間生き
陵墓は高千穂の山の西にあると書かれている

ここまでが古事記の上巻の神の話であり
中巻からは天皇が統治する人の代の話になっていく

海佐知毘古・山佐知毘古①

邇邇芸命(ニニギノミコト)と木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)の子どもに

兄の火照命(ヒデリノミコト)、弟の火遠理命(ホオリノミコト)がいる
この兄弟は当然、天照大御神の血をひく兄弟である

 

ある日、火遠理命は兄の火照命から釣針を借りて釣りをしていた

しかし、魚が一匹も釣れず
兄が大事にしていた釣針も紛失してしまった

兄に謝罪をしたが許してもらえなかったので、火遠理命は海辺で悲しんでいた
その時、塩椎神(シオツチノカミ)がやってきて、海神国へ行くように勧めた

塩椎神が編んだ竹籠の船に乗って沖に出ると
海神、綿津見神(ワタツミノカミ)の宮殿に到着した

海神は火遠理命を快く迎えてくれて、宮殿で歓待した
海神の娘である豊玉毘売(トヨタマビメ)も火遠理命に好意を寄せてくれた

火遠理命は豊玉毘売と結婚して

海神国で暮らし続けた

海神国での暮らしは瞬く間に過ぎ
気が付けば3年に月日が流れていた

 

3年経った時、火遠理命は兄の釣針を探していたことを思い出した
それを聞いた海神は赤鯛の喉に刺さった釣針を見つけてくれたので
火遠理命は故郷に帰る決意をする

 

火遠理命は帰る時に海神から

「兄を懲らしめる呪文」と「海の満ち引きを操る玉」を授かった

 

故郷に戻ってきた火遠理命が
「兄を懲らしめる呪文」を釣針にこめて兄に返したため

不漁が続き、兄の生活は貧しくなってしまった

火遠理命は「海の満ち引きを操る玉」を使って
満潮にして兄を溺れさせて
兄が助けを求めると潮を引いた

この結果、兄は火遠理命に逆らわず
火遠理命の護衛として仕えることを誓った

 

火照命の子孫である九州南部を出身とする隼人も代々朝廷の警護役を担うことになった

 

この神話は兄弟の争いを通じて
隼人の大和王権への服従の由来を語っている
実際には隼人は早い時期から中央との関係を築いてはいたが
たびたび反抗していて、警護役になったのは7世紀の後半になってからである

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