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古事記 Archive

応神天皇と3人の子②

応神天皇が命を落とすと
大山守命が野心をあらわにし、皇位を狙って動き始めた

大山守命は宇遅能和紀郎子を抹殺しようと武器を集めた
大山守命の動きを察した大雀命は宇遅能和紀郎子に、そのことを知らせた

宇遅能和紀郎子は現在の京都府の宇治で大山守命の攻撃に備えた

兵を宇治川のほとりに潜ませて
山の上に立派な陣屋を構えた

その陣屋に自分の身代わりを置き
宇遅能和紀郎子がそこにいるかのようにふるまわせた
宇遅能和紀郎子は船頭の姿となって
宇治川の渡しで大山守命が来るのを待っていた

宇遅能和紀郎子が宇治を戦いの場に選んだのには
理由があった

宇治は宇遅能和紀郎子の母の出身氏族で
当時の大豪族だった和邇氏の拠点のひとつだったのだ
宇遅能和紀郎子が皇位継承者となったのも
和邇氏の権勢が大きな影響を及ぼしていたようだ

宇治川に大山守命が攻めてきた
大山守命は偽装された陣屋を見上げて
船頭に変装した宇遅能和紀郎子に
「あそこにいる大猪を討ち取ってやる」と
自信満々に語った

船が宇治川の中ほどまで来たとき
宇遅能和紀郎子は船を傾けて大山守命を川に落とした
大山守命は川岸まで泳ごうとしたが
川のほとりに潜んでいた兵士たちが弓を構えているので
上がることができない
大山守命は、そのまま流されていき水死した

大山守命を倒した宇遅能和紀郎子だったが
皇位に就くことを拒んだ
異母兄弟の大雀命が皇位に就くべきだと主張した

一方、大雀命の方も
今は亡き父の応神天皇が決めたことだからと受け入れなかった

天皇に魚介類を献上する役目の海人が
宇遅能和紀郎子に鮮魚を届けるが、自分は天皇ではないと言って受け取らない
それではと大雀命に届けるが、こちらも受け取ってはもらえない
それを繰り返しているうちに魚は腐ってしまった

皇位を譲り合う二人であったが
宇遅能和紀郎子が亡くなったので
結局、大雀命が天皇の座に就くこととなった

応神天皇と3人の子①

第15代の応神天皇は多くの妃をもっていた
そして、その妃たちとの間に男女27人もの子をもうけた

その中でも特に応神天皇が信頼を置き
目をかけていたのが
年の順に
大山守命(オオヤマモリノミコト)、大雀命(オオサザキノミコト)、宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)
の3人であった

天皇はある日は、大山守命と、大雀命を呼び出し
こう問いかけた
「お前たちは、年上の子と年下の子では、どちらがかわいいか?」と
応神天皇は一番年若い宇遅能和紀郎子を次期後継者と考えていたからだ

大山守命は「年上の子のほうがかわいい」と言った
大雀命は、父の真意を察し「年下の子のほうがかわいい」と答えた

大雀命の言葉に満足して
応神天皇は宇遅能和紀郎子を次期天皇に任命し
大雀命を自分の政治の責任者に任命した

大山守命には海や山の民を統括する閑職を与えた

応神天皇は慈愛の深い人柄だった
それを象徴するかのようなエピソードがある

日向に美しい髪長比売(カミナガヒメ)がいると聞いた応神天皇は
ぜひ妃に迎えたいと
大雀命に難波まで迎えに行かせた

しかし、髪長比売を見た大雀命は一目惚れしてしまった

ここで古事記では定番の
一人の女性を奪い合う骨肉の争いに発展しそうだが
応神天皇は快く大雀命に髪長比売を譲ってしまったのである

応神天皇のこのおおらかな性格のおかげか
応神天皇の御代は大きな戦乱もなく
平穏な時代が続いていた

この時代は朝鮮半島から多くの渡来人が訪れて
日本に定住していく

新羅から来た人々は
建内宿禰(タケシウチノスクネ)に率いられて灌漑用の百済池(現在の奈良県広陵町)
をつくった

また国内の文化の向上を図るため
百済に人材を集めたが
百済王は文人の和邇吉師(ワニキシ)を献上
さらに鍛冶の技術者なども送ってくれた

当時の先進地だった朝鮮半島の最新技術が
日本国内に伝えられ国力の発展に大きく貢献した

秦氏や漢氏といった
のちに朝廷を支えることになる豪族の祖先たちも
このころに日本にやってきたとみられているが

日本の発展のために訪れたというよりは
朝鮮内の戦乱が激化したために亡命してきたものたちとみられている

神功皇后の遠征③

大和へ凱旋しようとした時
神功皇后は我が子の品陀和気の異母兄にあたる
香坂王(カゴサカノミコ)と忍熊王(オシクマノミコ)が反逆しようとしているとの情報を耳にした
神功皇后と品陀和気を待ちかまえて殺害し、天皇の座を奪う計画を立てていたのだ

仲哀天皇の亡骸を運ぶ船を用意して
その船に品陀和気を乗せて
品陀和気は死亡したという噂を流した
その喪船を先頭に、瀬戸内海を進んでいった

香坂王と忍熊王は
斗賀野(現在の神戸市灘区、または大阪市北区兎我野町付近といわれている)
で待ち伏せをして
そこの場所で戦いを占った
すると突然、大きな猪が現れ、怒り狂って香坂王を食い殺してしまった

占いの結果にめげずに
忍熊王は伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)を将軍に立てて
軍勢を構え、神功皇后に攻撃をしようとした

神功皇后は、軍勢を迎え撃ち
忍熊王を劣勢に追い込んだ

忍熊王は山城国で陣容を立て直し
一進一退の戦いとなった

この膠着状態を脱するために神功皇后の将軍が
一計を案じた

神功皇后が死亡したと偽情報を流し
降伏するように見せかけて
油断した相手のすきをついた

この作戦は見事成功し
忍熊王の軍は散り散りになった

逃げる忍熊王の軍を、神功皇后の軍は
逢坂(現在の京都府と滋賀県の境)まで追いつめて
楽浪(琵琶湖西岸)で壊滅させることに成功した
降参した忍熊王は琵琶湖に入水して命を絶った
神功皇后の軍の大勝利となった

一方、品陀和気は一度死んだことにされたために
その汚れを清める必要があった
そのため敦賀の気比神宮に参拝する

そこで品陀和気は、気比の伊奢沙和気大神(イザサワケノオオカミ)と
汚れ払いのために名前を交換した

汚れを落とし清らかな身となった品陀和気は
母の神功皇后のいる大和へ向かい
やがて即位して応神天皇となった

神功皇后の遠征②

神功皇后一行を乗せた船団が出航すると
追い風が吹き始め、船は加速をつけて朝鮮海峡を渡っていく
大小さまざまな魚が集まってきて船を背負って航行を助けた

神功皇后の船団は大波を立てて進み
その波が新羅国に押し寄せたので国土の半分を浸してしまった

神功皇后の勢いに圧倒されて
新羅王は降伏を申し出て
「今後は命令に従い日本のために馬を飼育する臣民となります。さらに毎年貢物を送ります」と言った
神功皇后は百済(くだら)も貢納国と定めた

在地の神や民衆の反乱を抑えるために
神功皇后は新羅王の家の門に
住吉三神の依り代となる杖を突き立てて
日本を守護する神として祀った

それが終わると神功皇后は軍勢を率いて帰国した

神功皇后は仲哀天皇の子供を身ごもっていた
新羅遠征の際に生まれそうになったが
非常時だったので腹に石を巻いて出産時期を遅らせていた

朝鮮半島の遠征で成果をあげて九州に戻った神功皇后は
ようやく品陀和気命(ホムダワケノミコト)を生んだ
神功皇后が出産したことにちなんでその地を宇美(福岡県字宇美町)と呼んでいる

本当に神功皇后が遠征したのかどうなのかについては
疑問も多い

実際に4世紀末から5世紀初頭にかけて
日本が朝鮮半島に軍を派遣したのは事実であるようだ

半島北の高句麗が南下策をとって
新羅と連携して百済を圧迫してきた

日本は百済の要請に応えて出兵し新羅の国内まで攻め入った

この神功皇后の遠征は
この歴史的事件をなぞっているようにも思われる

他の文献によると
400年と404年の戦いで
日本軍は逆に壊滅状態となったようだ
新羅を服属させたわけではなかったようなのだ

その屈辱で神功皇后の遠征の物語を作ったのか…

内容に疑問視する声も多い物語でもある

神功皇后の遠征①

成務天皇が亡くなり直系が絶え
悲劇の英雄である倭健の子である
仲哀天皇(第14代)が即位した

九州の熊曾が反乱を起こし
天皇は反乱を鎮圧するために香椎宮(福岡県)に赴いた
しかし、皇后の息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト)に神が降臨し
海のむこうの金銀財宝に恵まれた国(新羅)を服属させよと託宣した

天皇がこの神の意向を疑うと
怒りに燃えた神は
「そなたが天下を統治すべきではない。黄泉国へいけ」と言った
天皇はその場で命絶えてしまう

神は大臣の建内宿禰(タケシウチノスクネ)に言葉を降ろした
神は皇后の胎内にいる子が世継ぎであると述べて
全ては天照大御神の意思であると告げた

建内宿禰が神託した神の名前を問うと
住吉三神(大阪の住吉神社の祭神)だと言った

さらに建内宿禰に住吉三神は託宣して
天上神や地上界、山や川、海の神をすべてきちんと祀り
自分の神霊を朝鮮半島に出撃する船に乗せて渡航すれば
望みはきっとかなうだろうと語った

住吉三神は伊邪那岐神(イザナキノカミ)
が黄泉国から戻ってミソギをしたことによって生まれた神だった

航海の安全を守る神で
そのため新羅遠征の守護神となった

しかし天皇に神罰を与えたので
朝廷からは畏れ敬われていたようだ

神を降ろして託宣を告げる建内宿禰は
成務天皇(日本書紀では景行天皇から)にはじまり
仁徳天皇まで4代にわたって仕えたと言われている
計算すると建内宿禰は300年間生きたことになる

神功皇后は三好三神の言う通りに
神祀りを尽くし
軍勢や船団を整えて半島へ向かった
日本書紀ではこの時、神功皇后は男装して出撃したと書かれている

倭健命の遠征④

倭健は酒折宮から信濃を越え
尾張の美夜受比売(ミヤズヒメ)のもとに帰ってきた
約束を果たして結婚をして
そのあと、伊吹山の神を倒すために出かけて行った
その際に伊吹山の神を素手で倒してみせると意気込んで
草薙剣(きさなぎのつるぎ)を美夜受比売のもとに置いていった

伊吹山の神は巨大な白い猪の姿となって現れた
倭健は伊吹山の神を山の神の下僕だと言って侮辱したため
神を怒って激しい雹を降らせた

倭健は意識がもうろうとなり
玉倉部の清水にたどり着いて、なんとか正気を取り戻した

倭比売が授けた草薙剣は
伊勢神宮の加護の証で
剣を手放したことによって倭健の運命は暗転してしまったのである
様々な戦いによって挙げた功績の数々も
伊勢神宮の神威が後ろ盾になっていたからだったのだ

倭健の肉体は衰えていった
歩くのも困難だったが
体に鞭を打って
故郷の大和への道をたどった

鈴鹿を越えれば大和に着くという能煩野(のぼの)まできて
倭健は自分の死期を感じていた
そして故郷を忍んで歌を詠んだ

「倭は国のまぼろば たたなづく青垣 山隠れる倭しうるわし」
(大和国は国の中でももっとも秀でている。山々が青垣のように囲み、なんと美しいことか)

そして懐かしい我が家のほうから雲が沸き起こってくると
うたい命尽きた

勇猛であった倭健は父から避けられて
生涯、戦いに明け暮れるしかなかった
倭健はそんな悲しい英雄だった

悲報を聞き大和から遺族がかけつけ
陵をつくって嘆き悲しんでいたが
倭健の魂は白い鳥になって陵から飛び立っていった

白鳥は河内の志幾(しき)に飛来したため
その地にも陵をつくったが
白鳥はまた飛び立っていった

倭健の物語は
各地を平定していった多数の戦士たちの活躍と苦悩を
ひとりに集約したのではないかとも言われている

表舞台に立つことはないが
国の建国の時期に活躍した戦士の魂を鎮めるための物語なのかもしれない

倭建命の遠征③

大和に戻った倭建は早速父に報告したが
父から称賛の言葉をもらうことはできなかった

父は東国の平定を厳命した

倭建は席の暖まる暇もなく
都をあとにすることになった

下向する途中で伊勢に寄って
叔母の倭比売命と対面した
そこで倭建は叔母に弱音を吐いた
「西を平穏にして帰ってきたのに兵士も与えず
ただちに東へむかえと言う
父は私が死ねばいいと思っているようだ」と

倭比売命は草薙剣(クサナギノツルギ)を授けた
須佐之男命が八俣の大蛇の体内から取り出した聖剣である
もしものことがあればこれを開けよと
ひとつの袋も一緒に渡した

それらを持って尾張国の美夜受比売(ミヤズヒメ)を訪ね
結婚の約束をしたあと
抵抗する神々や王権に従わない氏族を次々に打ち負かして
倭建は東海道地域を東に進んでいった

静岡の焼津まで来たとき
地元の豪族にだまされて
野原で火攻めにあった

炎に包まれながら
倭建は叔母の言葉を思い出し
もらった袋を開いた

袋の中には火打石が入っていた

火打石を使って向火を点けると
迫る火の勢いは弱まった

窮地を出しった倭建は
豪族たちを斬り殺して焼いた

房総半島へ向かうために走水海(浦賀水道)を船で渡っていると
海峡の神が嵐を起こした
妃の弟橘比売(オトタチバナヒメ)は神の怒りを鎮めようと
荒れ狂う海に身を投げてしまった

海は急に穏やかになり船を進めることができるようになった

7日後に弟橘比売の櫛が海岸に流れ着いた
倭建は悲しみの中で弟橘比売の墓を作り
その櫛を納めた

北方を平安にして
足柄峠まで戻り
そこから山梨に入って酒祈宮に到着した

戦いに明け暮れる日々を思い
常陸(茨城県)から何夜経ったかと倭建がうたうと
酒祈宮の灯火番の老人が9夜だと歌で返した

その機転と風雅さをたたえ
老人を地方長官に任命した

倭建命の遠征②

小碓命(コウスノミコト)は当時はまだ15歳か16歳の少年だった
父に与えられた熊曾討伐の使命を果たすために
伊勢にいる叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)のもとを訪れた

倭比売命は垂仁天皇の娘であり
天照大御神を祀る伊勢神宮を管轄していた

倭比売命は小碓命に少女の衣装を授けた
小碓命はその衣装を持って剣を懐に
父の使命に応えるために九州南部へと向かった

朝廷に刃向かう熊曾建(クマソタケル)の兄弟の屋敷は
軍勢で固められていて容易に攻め込めなかった
じっと機会をうかがっていると
屋敷の増築完成を祝う宴が開かれるという
小碓命は髪をおろし
叔母からもらった衣装を身につけ少女に変装した

少女の姿で宴に潜入した小碓命は
熊曾建に気に入られた

熊曾建は、小碓命をそばに置いて酒盛りを始めた

宴が最高潮になったとき
小碓命は懐にかくしていた剣を抜き
熊曾建の兄のほうの胸を刺しぬいた

その光景を目の当たりにした弟は
慌てふためいてその場を逃げ出した

小碓命は逃げ出す弟を追いかけて
尻に剣を突き立てた

弟は息も絶え絶えになりながらも訴えた
「西には我ら兄弟よりも強いものはいなかった
ところが大和には我らよりも強いものがいたようだ
建の名前を献上すりので
今後は倭建御子と呼んで敬おう」

しかし、その訴えを小碓命は聞かずに
熊曾建の体を斬り裂いた

九州の熊曾建を屈服させた小碓命は倭建を名乗り
その足で出雲建を倒すために出雲へ向かった

出雲建に近づいた倭建は
木で偽物の剣を作り
それを出雲建に渡して立会を申し込んだ
出雲建は受けて立ったが木の剣では戦うことができない
あわてた出雲建を倭建は一刀両断に斬り倒した

大任を果たした倭建は
晴れて大和へ帰還した
父に今回の戦果を報告するために…

倭建命の遠征①

12代の景行天皇は、多数の妃を召しており
子の数は80人とも言われている
その中で特別に愛情を注いでいたのが大碓命(オオウスノミコト)と小碓命(コウスノミコト)の兄弟であった

あるとき景行天皇は、9代の開化天皇の孫にあたる美濃(岐阜県)の大根王(オオネノ
ミコ)の二人の娘がとても美しいとの評判を聞き、妃にすることにした
そこで、大碓命を派遣して迎えに行かせることにした

ところが、その二人の娘を目にした大碓命は
あまりの美しさに自分のものにしたくなった
そして景行天皇を裏切って二人と結婚し、天皇には違う女性を差し出したのである

景行天皇は、その事実を知って悩んだが
大碓命をとがめることはなかった

大碓命は、気まずい思いから天皇と顔を合わせることを避け
朝夕の食事にも同席しなくなった
天皇は大碓命に態度を改めさせるために、小碓命に説得を頼んだ

小碓命に説得を命じて5日が経っても
大碓命は食事の席にやってこなかった
天皇は小碓命に、まだ話をしていないのか?と問いただすと
すでに教え論したと答えた

どのようにしたのかと聞くと
夜明け前に大碓命が厠に入るのを待ちかまえて
手足を引きちぎってムシロに包んで投げすてたと言う

小碓命は天皇の言葉を「復習せよ」と誤解をして
勝手に制裁を加えてしまったのだ
父思いで誠実な小碓命は
父を悲しませた不実な兄が許せなかったのだろう

しかし、この行為に天皇は恐ろしくなった
この子が秘める荒々しさは危険に感じた

勇猛ではあるが、災いを招く危険もあると思ったのだ

父に忠誠を誓った証の兄への制裁
しかし父はその忠誠を疎ましく思っていた

そのころ九州南部では、熊曾建(クマソタケル)という二人の兄弟が
朝廷に従わずに反抗を繰り返していた

景行天皇は小碓命を遠ざけるために
熊曾建の討伐を命じた

小碓命が戦いで亡くなってもいいと考えての派遣だったのである

沙本毘売の悲劇③

垂仁天皇は亡き皇后である沙本毘売命の遺言に従い
彼女の従姉妹たちを宮中に召した

その従姉妹たちは4人
比婆須比売(ヒバスヒメ)、弟比売(オトヒメ)、歌凝比売(ウタゴリヒメ)、円野比売(マトノヒメ)の四姉妹である

ところが垂仁天皇は、比婆須比売と弟比売は喜んで迎えたが
歌凝比売と円野比売は容姿が醜いという理由で国許に帰してしまった

円野比売は、こんな恥ずかしい思いをして故郷には帰れないと
山城国の相楽(さがらか=現在の京都府木津川市周辺)で首をくくろうとする
しかし死にきれずい乙訓(おとくに=現在の京都市南西)まで行き、そこにあった深い淵に身を投げて自害した

この話も悲しい話だが
邇邇芸命が木花之佐久夜毘売を選び、石長比売を容姿を理由に遠ざけた話と似ていて
創作された物語であると指摘する見方もある

垂仁天皇は、多遅摩毛理(タジマモリ)を遠くの常世国に遣わして
いつもよい香りを放ち続ける橘の実を持ち帰るように命じた

常世国は海の向こうにある、命が生まれ出る国だ
また、橘の実とはみかんの実を指していると言われている

多遅摩毛理は苦労を重ねて常世国にたどり着き
実のなった橘の木を手に入れて、意気揚々と大和を帰ってくる
しかし多遅摩毛理の帰りを待たずに垂仁天皇はすでにこの世の人ではなかった

多遅摩毛理は採ってきた橘の木の半数を皇后に献上し
残りの半分を天皇の御陵に捧げて、声を上げて泣き叫んだ
「ようやく持ち帰ることができたのに」と絶叫したあと、多遅摩毛理はその場で亡くなった

中国の神仙思想では、常世国の実には寿命をのばす薬効があるとされていて
天皇が長寿を願って多遅摩毛理を派遣したのではないか?とも考えられている
(これは古事記や日本書紀では説明されてはいない)

また多遅摩毛理は渡来系氏族出身で、神仙思想に通じていたために遣わされたと言われている

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