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古事記 Archive

意祁と袁祁②

正式な皇位継承者として都へやってきた意祁と袁祁に
平群氏の志毘臣(しびのおみ)が反抗的な態度を示した
袁祁が気に入った娘を横取りしてみたり、歌で挑発したりした

調子に乗った志毘臣は意祁と袁祁の殺害を計画するような歌を
臣下の前で歌ったりした

平群氏は雄略天皇の時代に大臣となり
葛城氏にかわって力を付けてきた豪族だった

平群氏の反抗的な態度は
葛城氏の血縁の兄弟が突然出現したことによる反発だった

現在は弱体化している葛城氏だが
ここで意祁と袁祁の兄弟が皇位につけば
再度力を付けて台頭してくるかもしれないとも考えたのだろう

意祁と袁祁は相談して兵を送り志毘臣を葬った

何かと邪魔をしてきた志毘臣の存在がなくなると
皇位継承への道が開けてきた

意祁と袁祁の兄弟は話し合いの結果
袁祁が皇位を継承し第23代顕宗天皇が誕生した

皇位についた顕宗天皇は殺害された父、忍歯の遺骸を探すことから始めた
殺害現場を目撃した老婆の証言をもとに
ようやくばらばらにされた遺骨を探し出した

遺骨発見の功労者である老婆には褒美を与えた

そして苅羽井で自分たちの食事を奪った豚飼いの老人や
父の殺害に関与した蚊屋野の韓岱には処罰を下した

そして、顕宗天皇は父の殺害を企てた雄略天皇がどうしても許せなかった
しかし雄略天皇はすでにこの世にいない
そこで、雄略天皇の陵を破壊して非道に報いようと考えた

その計画を引き受けたのは兄の意祁だった
しかし意祁は陵の一部を壊しただけで帰ってきてしまい
これ以上、破壊するのはよくないと顕宗天皇を説得した
顕宗天皇は意祁の説得に応じることで報復の連鎖が絶たれることとなった

安康天皇の時代から続いてきた骨肉の争いも幕を閉じたのだった

古事記の物語はここで終わる
あとは、仁賢天皇から推古天皇までは
簡単な紹介となっている
古事記は文字通り古い時代の天皇家の話
あとは古事記の書かれたころから見たら近代史として扱われる

意祁と袁祁①

雄略天皇が崩御して雄略天皇の息子の白髪命(シラカミノミコト)が王位を継いだ
白髪命は皇族の中では唯一の皇位継承者だった
白髪命は第22代清寧天皇として即位する

しかし清寧天皇は、後継ぎを作らないまま崩御してしまった

雄略天皇が、ライバルたちを葬り続けたつけがまわり
とうとう皇位継承者が誰もいなくなってしまった

臣下たちは皇統存続の危機にさらされ
雄略天皇に殺された忍歯王(オシハノミコ)の妹である飯豊王(イイトヨノミコ)に政務を託した

初の女性天皇と言えば推古天皇だというのが周知の事実であるが
古事記では飯豊王が宮の名称まで書かれていて天皇として捉えていたふしがある
「仁徳天皇から推古天皇まで19天皇」と書かれているが
飯豊王を含めないと19人にならないことになる
正史上での初の女性天皇は推古天皇だが、それ以前に幻の女性天皇がいた可能性が高いことになる

男子の皇位継承者が途絶えてしまって
都には困惑が広がっていたが
そんな中、朗報が届くことになる

播磨の志自牟(現在の兵庫県三木市志染町)で、山辺連小楯(ヤマベノムラジオダテ)が
亡き忍歯王(オシハノミコ)の遺した子を2人見つけたという

意祁と袁祁という2人の皇位継承者の登場に
人々は安堵した

この兄弟は、それまで苦労の連続だった
雄略天皇に兄弟の父が蚊屋野(現在の滋賀県八日市市)で殺されると
兄弟は危険を感じてその場を離れて
苅羽井(現在の京都府木津川市綺田)に逃げた

この場所で強欲な豚飼いの老人に食料を奪われ
食べるものがないまま玖須婆(現在の大阪府枚方楠葉)の渡しを越えて
志自牟へやってきたのだった

兄弟は皇族の血を引きながら下層民になってしまい
馬の世話をしながら志自牟の豪族に従えていた

山辺連小楯がその豪族の宴会に行った際に
袁祁が自身の生い立ちを歌にして歌ったことから
その身分が発覚した

この情報は後継ぎを待ちわびている都へ早馬を使って伝えられた

兄弟の叔母で政権を預かっていた飯豊命は大変喜び
意祁と袁祁は皇位継承者として都に迎えられることになった

大長谷命の時代③

激しい権力争いで次々と身内を葬って
大長谷命は第21代の雄略天皇となった

その争いで見せた無慈悲とも思える様子は
皇位についてからもその片鱗を見せる

地方豪族の屋敷が豪華すぎるからといって焼き払わせたり
盃に落ち葉を浮かべたまま献上したことに怒り下女を殺そうとしたり
横暴な姿を古事記の中で書かれている

その一方で女性関係は優雅に描かれている
皇后となった吉野の童女、丸邇氏の娘である袁杼比売(オドヒメ)に歌をうたいながら愛をささやいたエピソードもある

そんな中で、雄略天皇にまつわる悲しい恋愛物語がある

ある日、雄略天皇は美しい少女であった赤猪子(アカイコ)を見染めた
赤猪子に将来宮に召すと約束をして、その約束を忘れてしまった

赤猪子は、その天皇の言葉を信じて待ち続けて
80年も経ってしまった

80年もの年月は美しかった時代の面影はなくなり
赤猪子は雄略天皇に対して、女の盛りを無駄にしてしまったと嘆いた
雄略天皇は虚しく過ぎ去ってしまった時間を想いショックを受けたのだった

一方、政治的には強権を振るい
国民から恐れられた雄略天皇の相反する弱い姿も古事記では伝えている

ある日、雄略天皇が葛城山に登った際に
大きな猪が現れて、矢を放つと猪が追いかけてくるので
木の上に登ったというエピソードがある

同じ葛城山では不思議な体験をする
天皇と同じ扮装をした一行が向かいの尾根に現れた
名前を聞くと、葛城山の一言主大神(ヒトコトヌシノオオカミ)だと答えた

雄略天皇は、神と聞いて拝礼し物品を献上すると
その一行は山の麓まで降りてきて天皇を見送ったという

この二つの話は、雄略天皇と葛城氏の和解とも解釈できる
葛城山は葛城氏の山であり
一言主大神はその氏神だ
その氏神を雄略天皇が敬ったということで
和解したことを伝えるエピソードになっているという説がある

雄略天皇の妃である韓比売(カラヒメ)は葛城氏の出身であることから
その時すでに力は弱まっていて
敵対する意味もなくなったと思われる

大長谷命の時代②

安康天皇の殺害の知らせを聞いた大長谷命は
今後のことについて相談するために兄である黒日子王(クロヒコノミコ)のもとに向かった

しかし相談しても黒日子王は報復に向かう様子はなく
怒った大長居谷命は兄を斬り殺してしまった

もう一人の兄である白日子王(シロヒコノミコ)の元を訪れたが
白日子王の態度もはっきりしない

大長谷命は白日子王を小治田(現在の奈良県明日香村)に連れ出し
穴に生き埋めにして殺してしまった
大長谷命は、兄たちが裏で目弱王を操っているのではないかと疑心暗鬼になっていたのだった

大長谷命は兵を集めて都夫良意富美(ツブラオオミ)を攻め
激しい戦いとなった

都夫良意富美は娘の訶良比売(カラヒメ)と領地を明け渡すと約束しながらも
目弱王をかばって戦い続けたが
ついに力尽きてしまい
最終的には、かばいきれなくなった目弱王を殺してしまい
自らも首を斬って自害してしまった

戦いに負けてしまった葛城氏は
このことによって力を失い凋落へと向かっていった

大長谷命は近江の人から熱心に狩りに誘われたので
弟の市辺之忍歯王(イチノベノオシハノミコ)と一緒に
蚊屋野(現在の滋賀県八日市市の蒲生野)に出かけていった

市辺之忍歯王の行動を不審に思った大長谷命は
罠だと疑って狩場に着いて矢を使って殺害してしまった

あまりの怒りに大長谷命は
さらにその遺体を切り刻んで埋めてしまった

市辺之忍歯王の子ども達は
危機が迫っているのを察し
播磨(兵庫県)に逃げて、牛飼いや馬飼いとして働き
地方氏族である志自牟(シジム)に仕えた

市辺之忍歯王は、履中天皇と葛城の黒日売の子で
葛城氏の血が濃いような皇子だった

市辺之忍歯王が大長谷命を殺害しようとした背景には
葛城氏の巻き返しの策だったと思われる

市辺之忍歯王が殺害されたことにより
葛城氏の勢力は弱まり
代わって平群や大伴、物部氏などが台頭してきた

また市辺之忍歯王は有力な皇位継承者でもあったので
殺害することで大長谷命の即位は盤石なものとなった

兄2人と弟、目弱王を葬ったあと
仁徳天皇の継承者は大長谷命ひとりとなったのだった

大長谷命の時代①

第20代天皇の安康天皇は
実の妹と禁断の恋に落ちた兄の木梨之軽王(キナシノカルノミコト)を排除して皇位に就いた

安康天皇は同母弟である大長谷命(オオハツセノミコト)をとくに目をかけていた

安康天皇は、若日下王(ワカクサカノミコ)を大長谷命の妻にしたいと考えた

その許可を得るために、その兄の大日下王(オオクサカノミコ)のもとに
根臣(ねのおみ)を送った
大日下王は、その提案に快く応じ
その証として押木の玉縵(おしきのたまかずら)を献上した

しかし、根臣は押木の玉縵が欲しくなってしまい
大日下王が拒絶したと嘘の報告をしてしまうのだった

安康天皇は、それを聞いて腹を立て
大日下王を殺してしまい、大日下王の正妻である長田大郎女(ナガタノオオイラツメ)を奪って皇后にしてしまった

大日下王は有力な皇位継承者だったので
安康天皇のこのような行動の背景には
政権基盤を確実に固める意味合いもあった

安康天皇は大日下王と長田大郎女の子である
7歳の目弱王(マヨワノミコ)を引き取って育てていたが
ふと心配になり皇后に相談した
「目弱王は、実の父を殺したのが自分だと知ったら反逆してくるのではないだろうか?」と

その時、御殿で遊んでいた目弱王はその言葉を耳にしてしまい
その場で刀をとって、安康天皇の首を落として
父の復習を果たした
そして目弱王は、そのまま大臣の都夫良意富美(ツブラオオミ)の屋敷に逃げ込んだ

都夫良意富美は葛城氏の長だった
葛城氏は履中、反正、允恭と3代にわたって外威として政権の核を担う実力者だった

安康天皇の母が皇族出身ということもあり
葛城氏は朝廷と距離を置いていたが
王家に対抗できるほどの大豪族である
目弱王は、そんな都夫良意富美のもとなら安全だろうと考えて逃げたと思われる

天皇の殺害という前代未聞の大騒動となったが
歴代の天皇が殺害されたのは
安康天皇と、第32代崇峻天皇だけである

皇太子の禁断の恋

実兄二人が皇帝となった男浅津間若子宿禰命は仁徳天皇の第4子だった
男浅津間若子宿禰命は体が弱く長く病床についていたので
皇位継承を断っていた
しかし妻たちの説得に応じるかたちで第19第允恭天皇となる

この皇位継承問題に関しては背後に外威として政権を支えていた
葛城氏の思惑もあったと言われている

允恭天皇は新羅王が派遣してくれた薬に詳しい金波鎮漢紀武(コムハチニカニキム)によって病も癒えた

允恭天皇は皇位に就くと
臣下や豪族の氏姓を正すことに着手した

臣下や豪族の中には
古くから朝廷を支えてきたとウソを言って
よりよい氏姓を獲得して出世しようとたくらむものが多くいたからだ

甘樫の丘(現在の奈良県明日香村)にある甘樫坐神社に群臣を集め
煮え立つ釜の中に手を入れる盟神探湯の儀式を行い真偽を占った
これによって、偽りの氏姓をかたる豪族はいなくなった

允恭天皇には9人の子がいた
允恭天皇は最年長の木梨之軽太子(キナシノカルノミコ)を皇位継承者として皇太子とした

しかしこの木梨之軽太子は愛してはいけない人を愛していた
同母妹の軽大郎女(カルノオオイラツメ)である
この時代の皇族は、異母兄弟との間であれば問題にはならなかったが
同母妹は決して許されない間柄だった
このスキャンダルが世間に知れ渡ると
木梨之軽太子は次期天皇には相応しくない人物と見られ
人々の信頼は無くなっていった

允恭天皇が亡くなり皇位継承問題が浮上すると
木梨之軽太子の弟である穴穂命(アナホノミコト)に次期天皇としての期待が集まった
その動きに反発した木梨之軽太子は
大前小前宿禰大臣(オオマエオマエノスクネ)の家に駆け込み武器を用意した

その動きを封じるために穴穂命は屋敷を囲んだ
木梨之軽太子は降伏し
伊予の湯(現在の松山の道後温泉)への流刑の処分が下された

流される木梨之軽太子は残された軽大郎女に歌を詠んだ
「鶴の声が聞こえたら私の名前を口にしてほしい」と

軽大郎女は木梨之軽太子のもとへ向かい
めぐり合えた二人は世をはかなみ死を選んだ

仁徳天皇とその皇子たち③

聖帝と呼ばれた仁徳天皇が亡くなると
その長男の大江之伊耶本和気命(オオエノイザホワケノミコト)が後を継ぎ天皇となった
第17代履中天皇である

履中天皇が父である仁徳天皇の宮を引き継ぎ難波の宮で眠っていると
弟の墨江中王(スミノエノナカツミコ)が宮に火を放ち
履中天皇を葬ろうとした

臣下の阿知直が履中天皇を馬に乗せて、何とか宮を脱出
天皇一行は安全な大和を目指した

埴生坂(現在の大阪府羽曳野市)までやってくると
遠くに難波の宮が赤々と燃えあがっているのが見えた

大和に近い大阪の山口(現在の二上山北の穴虫峠)に到着したとき
ひとりの女が敵が峠の上で待ち伏せていると忠告した

履中天皇たちは南へ迂回し当芸麻道(現在の竹内街道)から入り
石上神宮にたどり着いた

履中天皇の身を案じ
もう一人の弟である蝮之水歯別命(タジヒノミズハワケノミコト)が
石上神宮へ駆けつけた
だが履中天皇は墨江中王に殺されそうになったことで
疑心暗鬼になってしまい蝮之水歯別命を信じることができなくなっていた
蝮之水歯別命は墨江中王を倒して潔白を証明しようと難波に向かった

蝮之水歯別命は正面から攻撃しても勝ち目はないと考え
墨江中王に仕える曾婆加里(ソバカリ)を裏切らせて
墨江中王を亡き者にした
反乱を鎮圧することに成功した蝮之水歯別命は
大和に戻る途中で主人を殺した罪で曾婆加里の首を切った

その土地のことを難波の宮に近いことから「近つ飛鳥」(現在の大阪府羽曳野市飛鳥)と呼
戦いの穢れを清めるために大和に戻ってから禊を行い
その場所を「遠つ飛鳥」(現在の奈良県髙市群明日香村)と呼んだ

この反逆から履中天皇は難波を嫌い
宮を磐余(現在の奈良県桜井市)に移し国を統治した

やがて履中天皇が亡くなると蝮之水歯別命が皇位を継いで反正天皇となる
そのあと反正天皇の弟の男浅津間若子宿禰命(オアサツマワクゴノスクネノミコト)が
允恭天皇となり
仁徳天皇と石之日売の子どもが
3代続けて天皇となった

仁徳天皇とその皇子たち②

国家を繁栄さえて、大規模な治水事業を行ったり
神風満帆に見える仁徳天皇だが
結婚に関しては悩みが絶えなかった

仁徳天皇の妃は石之日売命(イワノヒメノミコト)は
非常に嫉妬深い妻だった

仁徳天皇が召した吉備の黒日売(クロヒメ)は
皇后の嫉妬深さを恐れて船で故郷に帰ってしまった

その際に仁徳天皇が黒日売を難波の港まで見送ったことに
腹を立てた石之日売命は黒日売を船から降ろして
陸を徒歩で帰らせた

それを不憫に思った仁徳天皇は
淡路島に行くという口実を設けて皇后の目を盗み
淡路島から伝って吉備に向かい黒日売を慰めた

ある時、皇后が紀伊に行ったすきをついて
仁徳天皇は異母妹である八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)を妃にした
それを知った皇后は激怒し
難波に戻らずに淀川を遡り筒木宮(現在の京都府京田辺市)にこもってしまった

仁徳天皇は使者を送り説得を試みたが
皇后は全く耳を貸さず
最後には仁徳天皇が直接出向き頭を下げて
ようやく許しをこうた

仁徳天皇は女鳥王(メドリノミコ)に求婚したこともあった
だが皇后が嫉妬深いことが原因で断られてしまう

女鳥王は速総別王(ハヤブサワケノミコ)と結婚する
そして仁徳天皇を抹殺しようと夫をそそのかした

その情報を耳にした仁徳天皇は
ふたりを討ち取るために軍勢を送った

夫婦は手に手を取り合って
倉掎山(現在の奈良県桜井市の山)に逃げた
しかしほどなくして敵が追ってくると
今度は宇陀の蘇邇(現在の奈良県宇陀群曽爾村)を目指した
石之日売命いしかし、ここで二人は逆臣として殺されてしまう

ちなみに、争ったこの3人は
ともに応神天皇の腹違いの兄弟だ

妃の嫉妬に振り回される仁徳天皇は
人間らしさがあるが
これは夫婦間の問題というだけではない

自分の氏族から妃を出すことは
その氏族にとっては地位を高めることに繋がる

この物語は、単純に夫婦の浮気とやきもちの問題ではなく
皇后の出身氏族の勢力争いなのである

仁徳天皇とその皇子たち①

第16代天皇の仁徳天皇は弟である宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)
と皇位を譲り合って、継承者がなかなか決まらずに
宇遅能和紀郎子の死によって天皇となった

仁徳天皇は、善政を敷いたことで
理想的な天皇の姿であると称賛されている

ある日、仁徳天皇は山に登って国土を眺めていた
民家を眺望していても煮炊きの煙が全く上がっていないことに気付く
国民は貧困によって食事もできない状況だと気づいた

そこで仁徳天皇は国民に対して
3年間の税金の免除を決めた

税収がないので宮殿の修復を行うこともできない
宮殿は傷み、雨漏りが激しくなり
濡れない場所を探しながら移動して生活しるようなありさまだった

しかし仁徳天皇は民家から煮炊きの煙が上がるまで
税を徴収することはしないと決め
煮炊きの煙を確認して、ようやく税の徴収を再開した

国民を慈しみ大切にする政策によって
国は栄えて
国民は「聖帝の御代」と天皇の政策を称賛した

仁徳天皇は大和を離れて、難波の高津宮に宮殿を構え
朝鮮半島の先進土木技術を持つ渡来系の秦氏に治水事業を行うように命じた

山国の大和よりも難波の高津宮の方が
海外との交流には便利だったが
難波には淀川と大和川が流れ
それに加えて生駒山地の東に大きな湖もあるので
水害に悩まされる地域でもあった

仁徳天皇は水害に悩む国民を救うために
茨田(現在の大阪府寝屋川市)に治水用の提を作らせた
そして海に繋がる大きな堀江を作り
低湿地の水を抜き耕地を広げた

さらに田畑に引くための灌漑用水を確保するために
丸邇池(現在の大阪府富田林市または奈良市池田)や依網池(現在の大阪府堺市池内)
も秦氏に作らせた

小掎江(現在の大阪市天王寺区)を拓き
墨江の滝(現在の大阪市住吉区)も新設し
水上交通を整備し
茨田には朝廷直轄の穀倉も築造させた

一説にはこれらの大規模な土木工事は
のちの時代に行われたとも言われていて

仁徳天皇の功績を美化するために
ここにまとめられていると考えられている

応神天皇と3人の子③

古事記の中巻の最後には
天之日矛(アメノヒホコ)の来朝が書かれている

天之日矛が神功皇后の母方の祖先ということになっているので
ここに組み込まれているのではないかと思われる

日本書紀では神功皇后との関係は語られておらず
天之日矛の子孫である田道間守(タジマモリ)が常世国に橘の実を取りに行く話と関連づけて
垂仁天皇記に天之日矛の来訪が記されている

天之日矛の話に戻ると
昔、新羅のある沼のほとりで貧し身分の女が昼寝をしていた
そこに太陽が輝いて虹となり
眠っている女の陰部をめがけて貫いた
女は妊娠して赤い玉を生んだ

あるひとりの男性がその赤い玉を譲り受けた
そのあと、その玉は新羅の王子である天之日矛の手に渡った

その玉から流麗な美女が生まれた
天之日矛は、その阿加流比売(アカルヒメ)と結婚した

天之日矛と阿加流比売の結婚はすぐに破綻をむかえた
阿加流比売はおいしい料理を作り天之日矛に尽くしたが
天之日矛は口うるさく難癖をつけるため
阿加流比売は腹を立てて家を出て、日本に渡ってしまった
阿加流比売は小舟でやってきて難波にたどり着いた

妻を探して天之日矛も海を渡って日本にやってきた
だが海峡の神が邪魔をして難波にたどり着くことができない
日本海をたどって但馬までやってきたが
結局ここで阿加流比売を探すことを諦めて
但馬の俣尾の娘である前津見(マエツミ)と結ばれた

そして二人に子供が生まれて
天之日矛から数えて4代目が多遅麻毛理(タジマモリ)で
その弟である多遅摩比多訶(タジメヒタカ)の娘が神功皇后の生母である葛城の高額比売命(タカヌカヒメノミコト)である
つまり神功皇后は天之日矛の6代目の子孫にあたるということだ

ちなみに日本書記ではこの説はとっていない

天之日矛は新羅から、珠や鏡など8種の神宝を携えてきた
その神宝を神として祀っているのが伊豆志神社(兵庫県豊岡市の出石神社)だと古事記では語られている

古事記の中巻は神武天皇から応神天皇まで
次の仁徳天皇から最後の下巻となる

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