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神社ブームと古事記の理解
昨今の神社ブームは、すごい勢いがある
今まで神社を訪れることのなかった若い人達も
続々と神社を訪れている
これは、スピリチュアルブームによって
神社がパワースポットである…と
マスコミで取り上げられたことも大きいだろう
日本の歴史は、神社と共にある…といっても過言ではないだろう
国生みの歴史が、日本創成の歴史とするならば
神社は、日本の歴史の象徴的な存在である
古事記の内容は
真実であるように書かれているが
その真偽のほどは、議論の余地があるとしても
日本人であるならば
この古事記の存在を一旦飲み込み理解し
その後の解釈は、個々に任せるとしても
自分が今ここに存在する理由として
語られてきたものを知ることは無駄ではないであろう
学校の授業でも
古事記や日本書紀については
触れられているので、その言葉だけは知っている…という人も多いのだが
詳しいことについては、触れられていないので
もっと深く知るためには、自分で勉強するしかないのである
しかし、昨今の神社ブームによって
神社を訪れるだけではなく
そこに奉られている神の存在から
その歴史を紐解き
古事記の内容に興味を持つ人も少なくない
そんなきっかけから
日本の歴史がどのように語られてきたかを知ることが良いことだと思う
ちなみに、古事記の内容がどこまで本当で
実在の人物(神?)は、どの位いるのか…は
歴史の中でも様々な研究と考察がなされてきているが
個々の考えや、現実的な問題など
様々な考えがあったとしても
その心は、日本人の遺伝子の中に深く刻まれているように思う
古事記を書いたのは誰か
天皇から直々に古事記の編集・執筆の依頼を受けた人物は
記録に二名残っている
稗田阿礼(ひえのだあれい)と、太安万侶(おおやすのまろ)
である
稗田阿礼は、当時28歳の
舎人(とりね)という、天皇の側近に奉仕する役職だった
天皇の側近は、皇族や貴族などであるが
雑用をするような役割だった
しかし、稗田阿礼は大変頭が良く
一度、見聞きしたものは全て暗記できて、忘れることがない…という能力を持っていたといわれていて
その才能を買われて古事記制作のメンバーとなったようだ
天武天皇にその才能を見初められた稗田阿礼は
古事記のもとになった「帝記(ていき)」や「旧辞(きゅうじ)」などを覚えるように命じられた
そして、もう一人の執筆者である太安万侶は
文章を書く才能に秀でていたので
稗田阿礼が覚えた内容を文字におこしてまとめていく役割を担った
これを命じたのは、元明天皇である
太安万侶は、奈良時代の文官であり
古事記の序文の終わりに
「正五位上勲五等太朝臣安萬侶(しょうごいのじょうくんごとうおおのあそんやすまろ)」
と、自分の位を記している
古事記を執筆するくらいの人物であるから
位が高いように思われるかもしれないが
この「正五位上」という位は
そんなに低くもないが、高くもない
勅命を受けるわりには
こういってはなんだが、中途半端な位である
しかし、それほど
太安万侶は、文才のある人物であった…ということであろう
この古事記の制作には
天皇も、かなり力を入れていたようで
二人共、位など関係なく
才能を見込まれての大抜擢だったようである
稗田阿礼が覚えた内容を文章にするのは
かなり大変な作業だったようで
太安万侶は、一年もの期間を費やして執筆を終えている
太安万侶の存在は、その後の歴史書にも記されており
墓も発掘されていることから
その存在は、間違いないと思われているが
稗田阿礼に関しては人物があいまいで
「日本書記」や「続日本記」にも記録が残っていなく
「古事記」にしか登場しない人物である
そもそも稗田阿礼自体の存在を疑う説や
女性説なども巻き起こる
情報の少ない、ナゾの多い人物なのである
ともかく
古事記は、記録上では
この二名が執筆したと言われているのである
古事記は、誰が何のために作ったのか
日本最古の歴史書と言われる古事記
現代にも絵本として語り継がれている「ヤマタノオロチ」や「因幡のシロウサギ」も古事記に収録されている話である
古事記は奈良時代の初め712年に完成した
その当時の天皇であった天武天皇は
天皇家の歴史が正しく伝わっていないことを危惧して
このままでは天皇家や日本の国家の存続が危ぶまれるとして
古事記の執筆を決意した
昔から伝わる歴史の誤りを改め
正しい天皇家の歴史を後世に伝えるべく
古事記を作成するように命じた
この作業が行われたのが674〜677年頃ではないか…と言われている
そして、その作成を担ったのが
稗田阿礼(ひえだのあれ)と、太安万侶(おおのやすまろ)である
しかし、作業は想像以上に難航し
天武天皇は、その完成を待たずして
686年にこの世を去ってしまった
天武天皇の死によって
古事記の作成は、一旦中止することとなる
しかし711年の元明天皇の時代に作業が再開し
古事記が完成
一年後の712年1月28日に太安万侶によって献上された
古事記は上、中、下の3巻からなる
上巻は、天地開闢から神武天皇の誕生まで
中巻は、神武東征から応神天皇まで
下巻は、仁徳天皇から推古天皇まで
となっている
古事記は、神話やファンタジーと思う人も多いだろうが
天皇家サイドの見解としては、天皇家の真実の書
国をつくった当事者の家系であることを広く信憑性を持って認識してもらうことで、天皇家に対する信頼を揺るぎないものにする意図があったようにも思える
今の言葉を使えば、天皇家のブランディング戦略が古事記の作成なのかもしれない
お墓の意味
宗教観の薄くなった現代では
とかく死に対するネガティブな感情が大きくなってきた
物質科学至上主義の世の中では
死は「無」であり「絶望」と捉えられることが多い
しかし、死は誰もが平等に訪れる避けられないものである
この世に誕生した時から人を含めて全ての生命体が死へのカウントダウンをスタートさせる
思想の違いや、哲学の違いなどで
その死への捉え方は大きく変わってくる
絶望の淵に立つもの
覚悟を決めるもの
残された家族や友人へ言葉を伝えるもの
悟りを開き受容するもの…
どのような心のあり方であったとしても
必ず訪れるものならば
穏やかに逝きたいと願うことも
人間としての欲求である
そして、その死の迎え方は
残されたもの達が残りの人生を生きていく上でも大きな影響を及ぼす
愛する人の死を受容するためには
先に旅立つ人間の哲学も大きく影響するからだ
満足した人生を送った人の人生の最期は
残されたもの達の後悔を少なくする
そして、その残されたもの達の想いを
時間をかけて消化させていく意味でも
お墓の存在が役立つことも多い
お墓の意味は多々あれど
残されたもの達が、故人の死を消化させる時間と向き合うために
有形の存在が、とても癒されることになるのは
否定しがたい事実なのである
「禍」と「直毘」
イザナギが、川の中瀬に身を沈めて体をすすいだ時にあらわれた
たくさんの禍々しい神が
八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おおまがつひのかみ)である
この二神は、ひどいけがれの黄泉の国へ行った際の「けがれ」がもとで現れた神である
そして、この禍を直すために現れたのが
「けがれ」と「禍事」をもとに戻す力のある
神直毘神(かむなおびのかみ)と大直毘神(おほなほびのかみ)である
この神々の、曲がる力と直す力は対極にあり
プラスとマイナス
人生の災いと、災いで曲がったものをまっすぐに戻し正常な状態に回復することを意味している
イザナギと、イザナミこそが対極にあり
それを比較してみると
「男」と「女」
「火」と「水」
「けがれ」と「みそぎ」
「あの世(黄泉)」と「この世」=「死」と「生」
「もの」と「たま」
となっている
イザナギとイザナミで生んだ「もの」
現れたのが「たま」
である
イザナミとイザナギは、まぐわいをすることで「もの」を生み続けた
神話の中では「もの」は、男女の交わりによって女性から生まれる
「もの」で解釈する次元では
生物や、生物的なものは
プラスとマイナスを交互に繰り返すサイクルの中にある
お産の「産褥穢」によって「新たな命」が誕生する
産褥穢はマイナス、誕生はプラスである
「たま」で解釈する次元は男女の交わりがなく
神々は、生まれるのではなく、現れるのである
この「たま」と「もの」の概念は
「天」と「地」の概念と言ってもいいのかもしれない
「もの」は、自然界における「物質、現象」の全て
これらは、五官で感じることができるものである
「たま」は「思想や観念」であり
五官では、とらえることができないものである
「物質や現象」は常に生まれては消え
生と死を繰り返しているが
「たま」の「思想や概念」は決して消えることはなく
忘れたり、その風習が物理的に行われなくても
「思い」は決して消えることはないのである
「死穢」と「みそぎ」
古事記は大きく分けて「もの」と「意識(観念)」の二つの世界がある
「ものの次元」と「意識の次元」の二元論になっている
意識は「たま」(霊、魂、玉など精神や意識の働き)
そして、それぞれにプラス的なものとマイナス的なものが存在し、それぞれ描き分けられている
国生みの話は、眼(みる)、耳(きく)、鼻(におう)、舌(あじわう)、皮膚(ふれる)の五つの器官(五官)によって具体的に感じることのできる「もの」の世界の話だった
しかし、イザナギの黄泉の国の死穢をみそぎはらう話になると
様相が変わってくる
心で感じ、頭で理解することや
支配、人生、法則…など抽象的な、観念的な意識や精神に関わる話になり
「もの」を扱うことはなくなってくる
それは、観念の世界の物語なのだ
イザナギが黄泉の国でつけた死穢は、どういうものだったのだろうか…
本文では、こう書かれている
「私は何といやな、随分きたない国へ行っていたのだろう。私は身を禊ぎをしたいと思う」
(吾は、いな・しこめ・しこめき穢き国に到りて在りけり。故、吾は、御身の禊為む)
これは、前のイザナミの死が「火」と「けがれ」であったのに対し
イザナギのみそぎが「水」と「きよめ」で正反対になっている
これは「ものの次元」の「火—水」
「観念の次元」の「けがれーきよめ」の二つの次元に分けることができ
全て、対極関係で成り立つことから話が始まっている
本文からは、イザナギの体に付着した、きたないものは
「五官で感じることのできる具体的に汚いもの」ではなく
「きたない」と感じた意識や印象であり
精神的な「けがれ」に対する、不快感や嫌悪感であることがわかる
そして、その「けがれ」を落とすために
イザナギは川で禊ぎをするため身に着けていたものを全部脱ぎ全裸になる
その時に脱ぎ捨てたものから十二の神々が現れる
杖…悪霊の侵入を防ぎ止める神
帯…長旅(人生)を司る神
嚢…時間を司る神
衣…煩わしいことを司る神
袴…二つに分かれたものを司る神
冠…罪穢れを飲み込む神
左手の手纏…沖へ向かう神
右手の手纏…岸辺から遠ざかる神
古事記・神代の物語4
イザナギは
「なんと穢い国へ行ってきたのか…、禊ぎをしなければ」
と、筑紫・日向に阿波岐原に向かい、禊ぎと祓いをした
その時、身につけていたものを脱ぐたびに
十二に神々が出来た
また、瀬に潜って身体をすすいだら
穢繁国(黄泉の国)で触れた汚垢から、禍々しく、汚れた二つの神が出来た
そして、その禍々しさを直すために二神が出来た
水底に潜って身を清めときには
海の神、航海の神たちが出来たが
海の神々は、安曇連(あずみのむらじ)が先祖神として奉拝し
航海の神々は、墨の江(大坂住之江・住吉神社)の三神となった
それからイザナギが左目を洗ったときに天照大神が
右目を洗ったときに月読命が
鼻を洗ったときにスサノヲの命(建速須佐之男命)が現れた
イザナギは大喜びで
「私はたくさんの子を次々と成り立たせたが、最後に三人の貴い子たちを得ることができた」
と、言い
首飾りの玉をゆらゆら揺らしながら天照大神に与えて
「おまえは高天原を治めなさい」
月読命には「おまえは夜の世界を治めなさい」
スサノヲの命には「おまえは海の世界を治めなさい」
と、それぞれに伝えた
みんなイザナギの言う通りに治めたが
スサノヲだけは、その言葉に背いて治めずに
あごひげが胸まで伸びても泣き叫んでばかりいた
その泣き方は、青々した山が枯れ、海河が干し上がるほど激しいものだった
まるでハエが一度に沸き出したように
悪神があたりに満ちあふれ、災が起り始めた
イザナギが「なぜ、国を治めずに泣いてばかりいるのか?」
と聞くと
スサノヲは「死んだ母が行った妣の国、根の堅洲国(黄泉の国)へ行きたくて泣いているのです」
と答えた
イザナギは、それを聞くとたいそう怒り
「それなら、おまえはこの国に住んではいかん!」と言ってスサノヲを追放した
古事記・神代の物語3
イザナギは、妻が亡くなって悲しみにあけくれ
どうしても妻に会いたくなり
イザナミのいる、地下の黄泉の国へ向かった
黄泉の国へ行くと、入口で妻が迎えてくれた
「愛しい人よ、あなたと作った国は未完成のままだ。一緒に帰ろう」
と、イザナギが言うと
「もっと早く来てくれなかったのが残念です。私は、黄泉の国の食べ物を食べてしまったので、もう戻ることができません。でも、せっかくあなたが来てくれたのですから、私もなんとか戻りたい。黄泉の国の神と相談してみます。でも、お願いです。その間、決して私の姿を見ないでください」
イザナミは、そう言うと宮殿の内に戻っていた。
しかし、どんなに待っても、妻は戻ってこない
待ちきれなくなったイザナギは、結い上げた左の髪から神聖な櫛の端を一本折り
そこに火を灯して中に入ると
イザナミの亡骸にウジムシがたかり
頭、胸、腹、陰、両手、両足に大小八つの恐ろしい雷(いかづち)が住んでいた
イザナギは、あまりの恐ろしさに逃げ出すと
イザナミは、それに気がつき
「私に、恥をかかせましたね!」と言って
黄泉の魔女達に、後を追わせた。
イザナギは、なんとか魔女達から逃れることができたが
今度は、八つの雷神と千五百もの黄泉の集団が追いかけてきた
そして、それも必死で逃れると
最後には、イザナミ自身が追いかけてきた
困ったイザナギは、千人の力でやっと動かせるほどの大きな「千引石」を、黄泉津比良坂まで引き
入口を塞いだ
そして、イザナギとイザナミの二神は、その石を中心にして向かい合い、互いに最後の別れの言葉を告げた
「愛する夫よ。こんな仕打ちを受けるなら、私は、あなたの国の人を一日に千人、首を締めて殺します!」と、イザナミが言うと
イザナギは
「愛しい妻よ。それなら、私は一日に千五百の産屋を建てる」
と、言った
その結果、人は一日千人死に、一日千五百人が生まれた
そして、イザナミの命のことを名付けて「黄泉津大神」と呼ぶようになり
黄泉の坂を塞いだ石を「道反の大神(ちかえしのおおかみ)」または、「塞ります黄泉戸大神(さやりますよみとのおおかみ)」と、呼ぶようになった
古事記・神代の物語2
淡路島を生んだあと
四つの顔のある四国、三つ子の隠岐島、四つの顔の九州、壱岐島、対馬、佐渡島、大倭豊秋津島(本州)
と次々に八つの島を生んだ
この国を「大八島」と、いう
その後、吉備の児島、大島、姫島、五島列島などの六つの島を生み
国生みが完了する
国を生んだ二神は、次々にいろいろなものの神を生んだ
岩、土、部屋、屋根葺き、家、壁なのどの住居に関する神々
海の神、海と河の港、波と水面の神々
風、雨、泉、木、山、野などの神々
鳥のように速い天鳥船(鳥の岩楠船)の神
そして、食物や火の神を生んだ
火の神を生み終わったところでイザナミは、御陰を焼かれて床に伏せてしまった
吐き出したものから、金属の神が生まれ
屎から、粘土の神が生まれ
尿からは、水の神が生まれ
最後に食べ物を司る神が生まれた
そして、それらの神々を生み落とし
イザナミは、命を落としたのだった
イザナギは、妻の死を嘆き
妻の枕元に泣き伏した時
涙から、泣き女の神が現れた
そしてイザナギは、亡きイザナミの神を出雲(島根県)と伯耆(鳥取県)の国境にある比婆山に埋葬し
火の神の首を、長剣で斬った
その時、剣先の血が神聖な岩に飛び散り
石を切り裂く鋭い剣の神と
根を切り裂く鋭い剣の神と、石筒の神が現れた
剣の根元の血からは、溶鉱のかめと樋の神、雷の火花の神など
製鉄に関する神々が現れ
殺された火の神の頭、胸、腹、陰、両手、両足からは
山や森の神が現れたのだった
古事記・神代の物語1
日本人が、世界観や死生観をはじめとして
「死」や「けがれ」や「お墓」の問題が、歴史上どのように語られていることを知るには、まず古事記を紐解く作業が欠かせないと思われる
古代の物語は、現代の日本人に向けてメッセージを残しているように思えてならない
この日本人独特の「死」の概念を語る上で、はずでないテーマ
天地のはじめから、みていくことにしよう
天地の誕生は、天と地が曖昧だったところからスタートする
まず天の中心と、万物を生み出す
二柱の神があらわれる
天地は、土地は今のような固まった大地ではなく
ブヨブヨとした、不安定なものが水に浮くような形で存在し
ゆらゆらと漂っていた
そんな中、神があらわれる
天と地を安定させるための二柱の神
天地の間の雲の神
泥と砂の二柱の神
多くのものを生み出すために男女にわかれた二柱の神
男根と女陰をあらわす二柱の神
人の顔をあらわす神
不思議な調和の神々が次々とあらわれて
最後に、姿が整った男女の
結婚をいざなう男の神と、女の神の二柱があらわれて
高天原(たかまがはら)という、神々の国が誕生する
この男の神がイザナギの命、女の神がイザナミの命
で、ある
高天原の神々は
「この国をしっかり固めてつくりなさい」と
天の沼矛を与えた
二神は、天の浮橋から、天の沼矛をおろし
かき回して、引き上げた
矛の先からしたたり落ちた塩がコロコロと固まり
オノゴロ島ができた
二神は、その島へ下りて
天の御柱を立てて、八尋の宮殿を作った
まだ会っていない二神は、柱ごしに会話をする
イザナギが、イザナミに
「あなたの体はどんな具合になっている」と聞くと
「うまくできているけど、まだふさがっていない所が一カ所あります」と答える
「私の体もうまくできているが、できすぎた所が一カ所ある。私のできすぎた所を、あなたのまだできていない所へ刺して塞いで国生みをしましょう」
「それはいいですね」
「では、この天の御柱をまわって、出会ったところで婚いしよう」
と約束し
「あなたは右から、私は左からまわろう」
と言い
二神が出会うと
イザナミが先に「なんてすばらしい男性でしょう!」と言い
次にイザナギが「なんて美しい女性だ!」と言ったのだが
イザナギは、女性の方から声をかけたことは良くないと思ったのだが
子供を生み、生まれた子が背骨のない子だったので、葦船に入れて流し
次に生まれた子も、泡のような島だったので
二神は、天の神に相談する
すると「女性から先に声をかけたのがいけない、やりなおしなさい」
と言われ、言われた通りにやりなおしてできたのが淡路島だったのだ
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