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神生み比べ〜天照大御神と須佐之男命の誓約〜

須佐之男命は、父であるイザナギに海原国の支配を命じられた

母であるイザナミが亡くなり

母に会いたい想いから、母が去った根の堅州国に行きたいと泣き暮らしていた

 

その号泣の声で、山々の緑が枯れるほどだった

その隙をついて、悪しき神々が世界に災いを振りまき始めた

 

このままでは、世界が滅びてしまうと危惧したイザナギは

須佐之男命を海原国から追放することを決める

 

根の堅州国に行く前に、姉である天照大御神に別れを告げるために
天上界の高天原を目指すことにした

 

ところが須佐之男命が高天原に昇るとき
山河は鳴り響き大揺れした

その様子に驚いた天照大御神は侵略だと思い

矢を構えて武装して弟ではる須佐之男命を待ち受けた

 

侵略ではないことを須佐之男命は釈明するが

天照大御神は、なかなか疑いを解いてくれない

侵略ではないという証明をしてみせよ
と追いつめられた須佐之男命は

生んだ神を比べる「誓約(うけい)」を申し出た

 

高天原にある天安河を挟み

誓約を行った

 

互いの所持物を交換し

その物から神を生み、その生んだ神が男か女かで勝敗を決めることにした

 

まず天照大御神が須佐之男命から剣を受け取り
噛み砕いて息を吐き出すと
3人の女の子が誕生した

宗像三女神といわれる姉妹神である

 

須佐之男命が天照大御神の勾玉を噛み砕くと

その息から最初に出現したのが

皇室の祖先となる天忍穂耳命だった

二番目が天穂日命で、のちの国譲りの使者として
出雲に送られた
さらに三人の男子が成り出て

合わせて須佐之男命は五人の男神を生んだ

 

誓約の結果から須佐之男命は
自分の剣から生まれた子が女だからと懸念は晴れた

と勝ちを宣言し、潔白が証明されたので高天原に入ることができた

 

天照大御神は

「私の勾玉から成った子だから男神は自分の子だ」

と言った

 

勝敗を決めたのは
借りた物で、生んだ神であったが
もともとは、自分の勾玉だから自分の子であると主張したのだ
実は、この主張は大変重要で

天照大御神が天皇家の祖先神である…ということになる

天皇の祖先となる天忍穂耳は
天照大御神の勾玉から誕生したからである

古事記の性的表現について

古事記を読んでいると、性的描写が多く
それが具体的で、卑猥なものが多いことに驚く人が多いだろう

 

これは古事記が特別にいやらしい物語なのではなく
日本に限らず、神話にはエロスはつきものなのである
神話にエロスが決まりごとのように入ってくるのは
どうしてなのだろうか?

 

古事記に関しては
最初に、性的な描写が登場するのは

イザナギとイザナミの国生みの場面である
2柱は、国を生むために

「みとのまぐわいをしよう」とか
「あなたの足りないところに、私の多いところを合わせてみよう」
とか、現代ならセクハラで訴えられそうな
具体的で、包み隠す事ない誘い文句を言っているのだ

そこまで、ハッキリ言うこともないだろう…と思うのだが
当時、性行為は儀式的な意味合いが強かったのである
性行為は、恥ずかしくて、隠すようなことではなく
婚礼の儀式であると同時に
子供を授かるための儀式だったのである

「子を授かる」

「子宝に恵まれる」
という言葉の通り、昔は生命の誕生は神からの授かりものとして
神聖で、ありがたい存在だった

そんな意味もあり
女陰(ほと)は、その神からの授かりものを
生み落とす場所として
神聖なものとして崇められていた
「女陰」の表現が頻繁に登場するのも
敬意を払ってのことである

そのようなことから
神聖な物語の中に、性的描写が多くみられることも
当然のことなのである

そもそも
性的なことは恥ずかしいことで、隠すことだ…という概念は
近代以降の思考である
江戸時代以前は、日本人はもっと性に対して寛容だったのである

明治以降、海外との交流が増えることで
性的なことを恥ずかしいものと捉えるようになってきた
古事記を現代の感覚で読んでみると
照れてしまうほどの赤裸々な性的描写のオンパレードなのだが
古代の人は、現代人のような感覚で考えているわけではなく
神の儀式として、もっと自然に考えていたのだろう

神社の社号

全国には、大小8万を超える神社がある

その神社には、大きく4つの区分けが存在している

その区分けを「社号」という

 

社号は、神社名に付いているので
それで確認することができる

社号には「神宮」「宮」「大社」「社」がある

 

例えば、明治神宮や、出雲大社

などの「神宮」や「大社」の部分である

 

鳥居や拝殿、本殿にあげられた額からも、それを知ることができる

以下が、それぞれの社号の意味である

 

「神宮」は、天皇や皇室の先祖神を祭神とする、規模の大きい神社である

代表的な神社は「熱田神宮」「石上神宮」「鹿島神宮」「香取神宮」「鵜戸神宮」「平安神宮」などがある

 

「宮」は、皇室にまつわる人物や、人間神などを祭神にする神社である

代表的な神社は「香椎宮」「聖母宮」「北野天満宮」「日光東照宮」などがある

 

「大社」は、出雲大社のみの社号だったが、明治以降、規模や格の高い神社に使われるようになった

代表的な神社は「出雲大社」「諏訪大社」「春日大社」「多賀大社」「熊野本宮大社」などがある

 

「社」は、大きな神社から祭神を勧請している小規模の神社である

代表的な神社は「祇園社」「稲荷社」「天神社」「八幡社」などがある

 

ちなみに天皇という言葉は

初代からあったわけではないようだ

 

初代の神武天皇は

当時の呼び名は「彦火火出見大王」(ひこほほでみだいおう)

であった

 

天皇号ができるのは

天武天皇(第40代)のころとされている

 

奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から

「天皇」という文字が書かれた天武時代の木簡が発掘されたので

それが裏付けとなっている

 

次の代の持統天皇のときに発布された

飛鳥浄御原令で、天皇号が正式に法令化された

 

だから、それ以前の天皇の呼び名は

後になって付けた死後の名前である

儒教にとっての先祖

古代の中国は、アジア圏において先祖祭祀において先進国であった

近隣の、日本や朝鮮半島が、先祖祭祀をないがしろにしていた…というわけではなく

先祖祭祀や、祖先崇拝の習慣は存在していた

中国が先進国である…という意味には

先祖祭祀や、祖先崇拝を思想として体系化し、それを記録に残していた…という意味である

この概念から考えると、日本や朝鮮半島は、先祖祭祀における後進国であると言わざるをえない

古代中国は、現代まで約3000年以上もの間

家庭生活はもちろん、政治にいたるまで常に先祖祭祀や祖先崇拝は重要な行事であり、正当性を持って行われてきた

ここでの中国の先祖祭祀や祖先崇拝と比較のため

儒教の先祖祭祀や祖先崇拝と比べてみる

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは

儒教は、カテゴリーとして「宗教」には属さないと考え

儒教は、世俗社会の「道徳倫理」であると解釈している

以下、マックス・ウェーバーの言葉を引用する

「救済の思想などは、儒教的倫理にはもちろんまったく存在しなかった。

儒教徒は、社会的な無作法というあさましい野蛮から救済されること以外に、霊魂の輪廻からも、あの世で受ける殃罰からも(両者を儒教は知らなかった)、生からも(これを儒教は肯定していた)、与えられた社会的世俗からも(この世俗のチャンスを儒教は自制によって抜け目なくものにする考えだった)、悪または原罪からも(原罪というものを儒教は知らなかった)、その他のなにかあることからも、「救済」されることを願わなかった。「罪」であると儒教にみなされることができたのは、ただ、孝弟というひとつの社会的な基本義務の侵害だけであった」

このように、儒教は、現実生活での倫理に従い義務として

先祖祭祀や祖先崇拝を行ってきた

先祖祭祀が死後の問題として、死後の世界が思想的に深められることはなかったので

儒教は、宗教ではない…という考えである

仏教は、輪廻転生や因果応報の考えで

儒教の欠陥を補った形になったのだが

そのような基本問題が儒教の先祖祭祀や祖先崇拝には見られないのである

人と神の区別はどこからされるのか

古事記は、神の誕生から日本が生まれ
神々が生まれて、天皇家ができていく話である

基本的に、皇族は人間であるとされているが
どこからどこまでが神であり、人間であるのか…

神の時代が終わり
人間としての歴史が始まったのは
神武天皇の時であろう

 

そもそも「天皇」の存在自体が
「葦原中国を治めるために高天原から降り立った現人神」なのである

 

だから天皇は、人の姿をしているが神であり
その現人神が子孫を作り、人の歴史になっていったのである

 

だが、この話には諸説あり
神武天皇から9代目までの天皇は実在していたかが
不明確である…とする見方もある

神武天皇などは、あくまでも伝説上の人物であり
実在していた証拠がなく
存在そのものを疑う学者も少なくない

 

しかし、実在したかどうかは別にして
古事記の中で、最初の人間は神武天皇で間違いないだろう

 

古事記の神々は死ぬことがない
言い方を変えると、死んだとしても黄泉の国へ行くだけである

だから、神々は永久に存在しつづける

 

しかし、神武天皇からは
その寿命や、墓の場所まで明記されているので
「死を迎えた」=人間である
…と解釈されている

 

神武天皇は、137歳まで生きたと記されている
ちなみに2代綏靖天皇は45歳、3代の安寧天皇は49歳で亡くなったと記録されている

この区別の方法は
死ねば人間、死ななければ神
…という大雑把なものだが
実際には、日本において神と人間の境目は曖昧なものなのである
神が人間になったり
人間が神になったりするからだ

様々な尊敬される多くの歴史上の人物が
死後には、神として祀られたりもしており
その存在に、畏敬の念を抱く事で
その存在は、神になったりもするのである

古事記に登場する神々に位はあるのか

古事記において最初に登場するのが

天之御中主神(あめのみなかのぬしのかみ)である
そして、日本の国を生んだイザナミとイザナギ

イザナギから生まれた三貴子と呼ばれる神々がいて

出雲を建国したオオクニヌシ
…など
古事記の中には、様々な神々が登場する
神の中で最も位の高い神を「最高神」と呼ぶ

 

一般的に最初に現れた神を最高神と呼ぶが
日本では、太陽神である天照大御神を最高神として、伊勢神宮内宮に祀っている

 

天照大御神が最高神なので
天照大御神と関係が深い順に位が高くなっていくことになる

天照大御神の次に位が高いとされているのが
兄弟であるツクヨミとスサノオは
「三貴子(3柱の貴い子)」という呼び名からも尊い神である
そして、同じ天つ神であったとしても
天照大御神の直系の子孫の方がより位が高いとされている

天つ神と、国つ神では
天つ神の方が位が高いとされている
オオクニヌシは、最初のに現れた神なので
一番位が高い神になるはずなのだが
オオクニヌシは国つ神なので
天照大御神と比べる器でもないのである
そして、この神々の位も
最初はからあったわけではなく
後世の人間が作り出した序列である…と考えられている

古事記や日本書記は何を参考に作られたのか

日本最古の歴史書として
知られている「古事記」であるが
この「古事記」のもとになった書物が存在していたらしい
それが本当ならば、日本最古の歴史書は別な書籍…ということになるが
確認ができている日本最古の歴史書としては「古事記」で間違いないであろう

その古事記のもとになったと言われているのが
「帝紀」と「旧辞」である
稗田阿礼はこれを全て暗誦したと言われている

 

この「帝紀」と「旧辞」も、どちらも天皇家の歴史について書かれたものであったらしい
「帝紀」の正式名称は「帝皇日継」(すめらみことのひつぎ)といい
「旧辞」の正式名称は「先代旧辞」という

 

「帝紀」に記されていたものは
天皇の先祖について、天皇の御名について、皇后や、子どもの人数
その時代の、重大な事件などの記録、御陵の場所…
など、天皇にまつわるありとあらゆる事柄が
皇位継承順の記されている

それに対して「旧辞」は
天皇統治以前の神話や伝説などを
少し崩した漢文体で記されている

この内容を見ると

「古事記」の上巻は「旧辞」
中・下巻は「帝紀」の内容を多く含んでいることがわかる

では、この2冊の書物は
いつごろから存在していたのであろうか?
この書物は、現存していないので
はっきりとしたことは言えないが
六世紀中ころの継体・欽明天皇のころには存在していたのではないか…
という説が有力である

この時代から、天武天皇が即位した約100年の間に

受け継がれ、語り継がれた内容は

その家によって、都合良く変化していき

内容の違う本が、何冊も誕生してしまったらしい

 

そのどれもが現存していないが

「古事記」と「日本書記」の原型となった歴史書が存在していたことは

間違いないらいしい

 

その「帝紀」と「旧辞」を全て暗誦したとされる

稗田阿礼は

奈良県大和群山市稗田町にある賣太神社に祀られている

その境内には現在「かたりべの碑」が建てられている

 

核家族が失うもの

封建的大家族の崩壊は、戦後の日本の社会を大きく変えていった

戦後のシステムの変化が、封建的大家族を崩壊に導いた…と言った方が正しいのかもしれない

 

そのシステムの変化がお墓の変化にも大きく表れている

 

幕末から明治にかけての政治の変化

女性解放運動による運動

そして戦後の民主主義社会の確立

 

これらが連動して、封建的大家族が崩壊していった

 

家に縛られていると嘆いてきた女性たちは

自由を求め、政治への参加を求め、そして男女平等を訴えて

新しい女性の生き方を確立していき

生き方の選択肢が増えていき

結果的に自由を謳歌しているのだろうか…?と疑問も残る

 

フェミニズム運動に見られる

女性の家庭内における不自由さ

男性の封建的な態度に対して不満を爆発させて得た自由は

本当に女性を幸せにしたのだろうか?

 

封建的大家族の崩壊により

個々の考えが重視されるようになってくる

すなわちそれは、縦の先祖、子孫への繋がりを

あまり意識することのない生活への変化していく

 

大家族の場合は、その環境から

日常的にご先祖様への感謝を強制され

そのおかげもあり、日頃から自分の存在が繋がっていることを自然と意識することができるのである

 

しかし、その自由は女性を逆に縛り付けているようにも見える

自由を与えられたが、扱いきれていない

役割分担が昔ほどハッキリとしていないので

不満も起こりやすい

核家族化が進み、それぞれのルールで家庭生活を維持するので

問題も起きやすい

 

大家族は、代々その家それぞれのルールがあり

嫁に来たものは、その家のルールに従って生きていく

新しいライフスタイルの模索などは皆無である

 

現代の女性からみると、かなり窮屈なようにも見えるかもしれないが

本当に窮屈だったのだろうか?

 

大家族の家事、育児、家業の手伝い

姑や舅への気遣い

そして家を守ることへの責任

 

地縁、血縁の結束が強くなれば

必然的にお墓の日常度も増してくる

感謝や報告も増えてくる

そして、いずれは自分もその中に入る実感

子や孫達へ繋いでいくこと…

 

 

お墓が物理的に身近な存在であることは

その意味あいも大きく変化している

 

一件窮屈に見えがちな大家族制度だが

本質を今一度、見直す機会がきているようにも思える

 

先祖崇拝の考え方

古代の中国は、アジア圏において先祖祭祀において先進国であった

近隣の、日本や朝鮮半島が、先祖祭祀をないがしろにしていた…というわけではなく

先祖祭祀や、祖先崇拝の習慣は存在していた

中国が先進国である…という意味には

先祖祭祀や、祖先崇拝を思想として体系化し、それを記録に残していた…という意味である

この概念から考えると、日本や朝鮮半島は、先祖祭祀における後進国であると言わざるをえない

古代中国は、現代まで約3000年以上もの間

家庭生活はもちろん、政治にいたるまで常に先祖祭祀や祖先崇拝は重要な行事であり、正当性を持って行われてきた

ここでの中国の先祖祭祀や祖先崇拝と比較のため

儒教の先祖祭祀や祖先崇拝と比べてみる

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは

儒教は、カテゴリーとして「宗教」には属さないと考え

儒教は、世俗社会の「道徳倫理」であると解釈している

以下、マックス・ウェーバーの言葉を引用する

「救済の思想などは、儒教的倫理にはもちろんまったく存在しなかった。

儒教徒は、社会的な無作法というあさましい野蛮から救済されること以外に、霊魂の輪廻からも、あの世で受ける殃罰からも(両者を儒教は知らなかった)、生からも(これを儒教は肯定していた)、与えられた社会的世俗からも(この世俗のチャンスを儒教は自制によって抜け目なくものにする考えだった)、悪または原罪からも(原罪というものを儒教は知らなかった)、その他のなにかあることからも、「救済」されることを願わなかった。「罪」であると儒教にみなされることができたのは、ただ、孝弟というひとつの社会的な基本義務の侵害だけであった」

このように、儒教は、現実生活での倫理に従い義務として

先祖祭祀や祖先崇拝を行ってきた

先祖祭祀が死後の問題として、死後の世界が思想的に深められることはなかったので

儒教は、宗教ではない…という考えである

仏教は、輪廻転生や因果応報の考えで

儒教の欠陥を補った形になったのだが

そのような基本問題が儒教の先祖祭祀や祖先崇拝には見られないのである

古事記が必要だったワケ

上、中、下巻の全3巻で構成された古事記は
天地のはじまりから語られていて
第33代の推古天皇まで記されている

まだ、ひらがなやカタカナのない時代の書物で
太安万侶は、漢字の音と訓を使い分けて
日本語で理解できる仕組みになっている

それとは対称に
日本書紀は、漢文(中国の文語体の文章)で書かれているので
中国や朝鮮半島の人も読めるようになっている

古事記は、全体の1/3を神代の話になっている
(それと比べて、日本書紀は神代の話が1割程度)
国譲りや天孫降臨などの神話に大きな赴きが置かれている

その理由は、この古事記の発行の理由と大きく関係してくる

古事記の最大の目的は
天皇家の統治の正当性を語ることにあるのだ

天武天皇が、古事記の編集を決めた時には
すでに朝廷を中心にした国家体制ができあがっていた

しかし、それを現時点での事実…というだけではなく
天皇が国を治めるべく根拠を明確に示し
より支配力を高める必要があった
それが、天皇家を安泰にし
永続的に国家を治める理由となると信じられていた

そこで、古事記を編集し
国譲りなどで神話から正当性を説いていったのである

歴史書としての性格が強い日本書紀に比べて
古事記は多数の歌をもりこみ、演出も加えられて
神々の心中や、人間の愛や憎しみなども丁寧に書かれていて
文学的要素も強い
それゆえ、古事記は現代でも親しまれ、語り継がれる読み物になっていったのである

では、なぜ古事記と日本書紀という似通った二つの書物が
同時期に誕生したのであろうか?

実は、二つの書物は
似ているが、その発行の理由が全く違っているのである

当時、正史を持つ事は一等国の証であると言われていた
日本書紀は、そのような理由から
日本の正史として誕生した
対外的な目的も大きく
中国や朝鮮半島に読まれることも意識して漢文で書かれていると言われている
実際に日本書紀は、遣唐使によって中国に運ばれている

日本初の正史として誕生した日本書記は
たびたび朝廷内でも勉強会が開かれるなど注目度も高かったが
古事記の方が次第に忘れられていくことになる

そんな古事記が再び脚光を浴びることになるのは
江戸時代中期に国学者本居宣長が「古事記伝」を出版してからのことである

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