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第六回 「仏教のお話 その2」・・(平成18年8月1日)
中国の文化・習俗を語る上で、決して無視できないものに儒教と道教があります。「教」となっているために、宗教的なイメージが強いかと思われますが、厳密には儒教も道教も「宗教」とは言えません。古代中国の春秋戦国時代に生まれた、いわゆる「諸子百家」と呼ばれる、非常に政治的な活動をおこなった集団の一派です。なので、以下「儒教」は「儒家」、「道教」は「道家」と記述することにします。
儒家は、特に道徳規範と祖先崇拝を尊重します。儒家が重要視する書物に、いわゆる「十三経」や「四書」がありますが、そのうちの『禮記』『儀礼』『周禮』といった礼儀に関する書物の中では、「曲禮三千」という言葉があるように、様々な場面での礼儀に関して、非常に事細かに記載されています。特に葬儀に関する記述量は群を抜いて多く、このため、儒家はもともとは葬儀屋の集団だったのではないか?と考える専門家もおります。
ちなみに日本では、葬儀の後の四十九日や各年時でおこなわれる法事といった法要がおこなわれますが、これらはいずれも儒家の書物に基づいておこなわれているものです。
これに対し、道家はロジカルな議論を好む傾向が見られます。弓矢の達人に教えを請おうとして、達人に弓矢を渡したところ、達人はそれがなんなのかわからない、とか、一見弱々しい水や赤ん坊が実はもっとも強い存在であるといった、逆説的な内容の説話が、関係する書物に多く観られます。
政治的にも「なにもしないことが自然なことだ」という考え方を持っていたために、世捨て人(隠者)として暮らす人も多く、このあり方が、民間の仙人信仰と結びついて、宗教的な色合いを帯びていきました。
さて、中国で最初に仏教が注目されたと言えるのは、いわゆる三国六朝の時代です。この時代は、後漢末期から始まり隋の全国統一まで、約400年にわたって続いた戦乱の時代です。一般民衆だけではなく、支配階級にも厭世的な雰囲気が広まっていたことは容易に想像ができます。
当時すでに、儒家の考え方は政治に深く反映されておりましたが、その中でも隠者に対する憧れのような嗜好が、支配階級にも広がります。これと併せて、仏教に対しても興味を持つ人々が増えていきました。
というのは、まず、儒家の言う道徳規範を守ったところで、人々の幸福は約束されないのです。例えば、孔子の一番弟子の顔回は、ことあるごとに孔子に誉められていますが、結局貧乏なまま早死にしてしまいます。義理を通した伯夷叔斉の兄弟は、結局、山でのたれ死にます。結局まじめに生きたところで、ろくな人生にもならねぇや、という考え方が広まっていったのかも知れません。ともかく、厭世的な世相を反映して、老荘思想と仏教が、知識階級の中でも広まりを見せていきます。
また、それまでの中国の習俗の中には、死後の世界や生まれ変わりといった考え方が存在していませんでした。ところが、もう日常が戦争の中で過ごした時代ですから、儒家のように道徳的な生活を一生懸命やったところで、結局はいつ死んでしまうかわからない。ならば俗世を離れて日々飲んだくれるか、次の人生では幸せになりたい、という考えが生まれてきても不思議ではないと思われます。この「生まれ変わり」について、体系化して説明されていたのが仏教だったのです。これを中国では「三世報応」と表現され、仏教の中心的な教えであると理解されるようになります。
こうして、六朝時代の仏教は、道家の主義主張を関わりを持ちながら、知識階級の中で広まっていきます。これをいわゆる「格義仏教」と呼びます。
ところで、生まれ変わり、いわゆる輪廻という考え方は、仏教に限らずインド文化圏全般でみられる考え方です。中国では輪廻に救いを見いだしましたが、インドに於いては、この輪廻の悪循環からの脱出(解脱)こそが救いに他なりません。これは文化的な素地の相違から産まれた変容ですが、いずれにしても、日本に最初に入ってきた仏教は、中国で理解された仏教でした。
時代は下って、唐の時代になるとシルクロードに代表される、東西文化の交流の発達によって、仏教文化も広く世の中に浸透していきます。併せて、よりインド本来の仏教に近い教えも伝わってきました。これがいわゆる密教です。日本にも遣唐使を通じて、空海や最澄が日本に伝えてますね。
さらに時代が下って、宋の時代になると、儒家の中に自己修養を重んじる考え方が産まれてきます。いわゆる朱子学がそれに当たるのですが、朱子学者は修養の方法のひとつとして、仏教の座禅を取り入れました。禅宗で言われる「只管打座」という言葉は、朱子の書物でもたびたび観られます。
明の時代になると、朱子学に対立する形で陽明学が産まれますが、陽明学者の中には、より仏教的な思考を取り入れた考えを持つ者も現れます。
逆に仏教の側でも、こうした儒教の新しい学派の理論を受け入れていきます。中国には、佛教関係の書籍を集めた『大蔵経』という文集がありますが、この中には朱子の書いた書物の他、儒家と目される学者の手による書籍も多く収められています。
江戸時代以前の日本は、インドとは直接的な文化の交流はなく、仏教も含めたインド(当時は「天竺」と呼んでました)文化は、ほぼ全てが中国を経由して日本にやってきました。
前回触れたように、日本に伝わってきた仏教は、日本の文化に合う形に変化して受け入れられましたが、その前の段階として、中国の文化に沿った形に変容した仏教が、日本に伝えられています。
中国的な解釈を加えられた仏教の特徴は、「三世報応」や、祖先崇拝の重視とそれに関わる秩序化された儀礼、朱子学・陽明学の影響を受けた自己修養などがあげられますが、いずれもが、日本の仏教文化に深く影響していることは、皆様の日常生活で関わる部分でも感じることができるのではないでしょうか。
第五回 「仏教のお話 その1」・・(平成18年7月1日)
今、ちょうどワールドカップで盛り上がっている時期ですので、まずはサッカーの話から。
サッカーが日本にはじめて入ってきたのは、恐らくは明治時代のことかと思います。その後は、大学体育会や学校クラブの範囲に、一部の企業のクラブの中で、趣味的におこなわれてきたスポーツだったと言っていいでしょう。それが日本という国の中で、最初に注目を集めたのが、メキシコオリンピックの銅メダル獲得じゃなかかったかと思います。そしてその後の人気低迷を経て、再度注目を集めるようになったのは、Jリーグの発足でした。そのあとはワールドカップ出場などで認知度を上げ、今や日常会話の中でサッカーが当たり前に語られる時代になったと思います。
ものすごいこじつけになるのかも知れませんが、仏教の日本伝来の歴史も、このサッカー普及の歴史と似たような経緯を経ていると思います。
仏教がはじめて日本に伝えられたのは、教科書では西暦538年とされています。当時入ってきた仏教は、仏教にどっぷりはまってしまったマニア(僧侶)や、仕事柄や立場上の関係で知って置いた方が良いという立場の人達(皇族や貴族)の間のみで、知られていたというだけの存在で、一般の民衆にとっては「なにそれ?」というレベルのものです。
もちろん、そんな一部のマニアによって語られていた仏教ですが、そんな中でも世の中に知られた存在はいました。例えば、奈良の大仏建立の資金集めで頑張った行基とか、四国八十八ヶ所を作ったとされるなど、色んな伝説が残っている弘法大師空海などがそれで、彼らはメキシコ代表のエースストライカー、釜本みたいな存在だと言えるでしょう。行基や空海は、民間信仰の対象として比較的知られた存在でしたが、じゃ仏教はどうかというと、まだまだ認知度は低かったと思います。
「仏教って知ってる?」
「知らない」
「ほら、最近よく聞く、空海さん」
「あ~はいはい。なんか聞いたことあるね」
「その空海さん、仏教のお坊さんってヤツなんだわ」
「へぇ~そうなんだ」
「その空海さん、ちょっとすごい人なんだって。俺の知り合いもすごく世話になったみたいでさ」
「あ、そうなの?俺も一度お世話になってみたいよ」
実際にそんな会話をした人が居たかどうかは知りませんが、一般の間ではその程度の認知度だったのだろうと思われるわけです。
その後は、正月になると高校サッカーが深夜に放送されてみたり、天皇杯決勝をNHKが放送したり、という程度で、時々「あ、サッカーだ」と気付く程度の時代が続きます。同様に、平安時代の仏教も、時々坊主頭で墨染めの衣を纏ったおっさんを見かけるとか、武装した坊さん(僧兵)どもの活動でとばっちり食う程度のもんだったのでしょう。
では、仏教史に於ける「Jリーグの発足」に当たるのはいったいいつの頃のことなのか?といいますと、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、となるんじゃないでしょうか。
この時代は、全国的な規模で戦争が頻発しています。いわゆる源平の合戦ですね。源平絡みで戦場になった場所というと、京都周辺のみならず、東北地方・北陸・関東・神戸・四国・北九州と、全国規模で戦争しています。多分これだけの規模の戦争が起きたのは、日本史上ではじめてのことだろうと思います。
加えて、平安初期に確立した律令体制による全国統治は、この時代にはすっかり崩れ、悪党と呼ばれる武装集団が横行したり、自衛団としての武士が誕生したり、と、庶民生活には不安が一杯だし、先のことはわからない毎日だったと思います。
鎌倉時代になっても、鎌倉幕府自体はいつの間にか傀儡になってしまい、身近な支配者は、「まろ」からいつも刀を腰に差した武士になりました。ちょっとおかみに逆らえば、その場で切り捨てられかねないわけです。おまけにそのうち、外国の軍隊が攻め込んできて、日本存亡の危機を迎えてしまいます。
そんな不安いっぱいな毎日の中に、ひとときのカタルシスを与えてくれたのが、新興仏教の各宗派だったんじゃないかと思います。
「ひたすら『南無阿弥陀仏』と唱えて今を頑張っていれば、今の人生じゃダメかも知れないが、死んだ後や生まれ変わったときにはいいことあるさ」とは、法然上人の教え。
「いやいや、師匠はそう言うけど、今の人生をがんばり切れてない人、いや悪人だって、心を込めて『南無阿弥陀仏』一回でも唱えれば、死んだら仏さんになれるし、次の人生だって良いことあるよ」という親鸞上人。
「まぁとにかく念仏唱えて踊ろうぜい」と言ったのは一遍。
「ひたすら座禅を組んで自分を見つめ直してみなさい。そうすれば、なにかが変わるよ」と座禅を広めた栄西上人や道元上人。
「『南無妙法蓮華経』と唱えて、大日如来におすがりすれば、元寇などおそるるに足りないわい」と日蓮上人。
専門家やそれぞれの宗派に帰依されている人達からは非難囂々浴びそうですが、一般庶民から見れば、彼らはそんな存在だったのではないか?と想像されます。
ともかく、彼らの活躍によって、仏教が日本人の生活文化の中に浸透しはじめるわけですが、人間というものは、わからないことをわかろうとする時に、わかっていることで喩えて理解しようとする場合があります。曰く「ペレとかマラドーナってのは、日本の野球でいうと長島と王と張本を合わせたくらいの人気と実力を持った選手だったんだ」とか、「プラティニは、言ってみればエースで4番みたいな存在感のある選手だったんだよ」とか、「リケルメはアルゼンチン代表の中では『王様』なんだよ」とか。それが正しい比喩かどうかは別としても、知らない人達はこの喩えを聞いて「何となくすごい選手なのだな」と理解できるわけです。
仏教を知らなかった人達が、仏教を理解する段階では、当然そういう風に理解しようとする人達はいたと思いますし、広める側にとっても、わかりやすくするために、このような比喩を使う場面は多くあったと考えられます。仏教の場合は、それまでに民間信仰として定着していた自然崇拝(いわゆる神道)を利用して理解したり説明されることが多かったのでしょう。そういった日本の仏教信仰のスタイルを、教科書的には「神仏混淆」といった言葉で表現してますね。
ところで、仏教はインドの釈迦様が興した宗教だということは、多くの方が知っていることでしょう。でも、日本に伝わった仏教は、お釈迦様の教えが直接やってきたわけではありません。中国を経由して伝わってきています。ということは、日本人に理解され広まっていく段階で、日本人が理解できるような形に変化したのと同様に、中国で広まった仏教も中国人が理解できる形に変化して受け入れられてきたはずです。
次回は、中国で広まった仏教は、もともとの仏教とはどう違っているのか、を書いてみたいと思います。
第四回 「お墓革命の時代 その3」・・(平成18年6月1日)
お墓は文化の反映です。お墓の形態の違いは埋葬方法の違いです。埋葬方法が違うということは、死後の世界をどう捉えるか?の違いです。
日本の場合、古くから火葬が一般的ですが、これは、とても大雑把な言い方をすれば、「肉体は現世を生きるための容れ物であって、死を迎えると、霊魂は肉体を離れて存在する」という考え方の表現であるということができます。仏教的に表現すれば、それは「輪廻転生」という言葉で表現することができ、神道的に表現すれば、「人は死後、『神』として存在し続けている」という死生観の表現です。こうした考え方が、そして死者の霊魂をどのように扱うかが、伝統的なお墓のスタイルの確立に結びついているのです。
日本は火葬の割合が非常に高い国です。ほぼ100%の死者が、火葬された上で埋葬されています。これに対して、イスラム教圏やカトリック圏では、復活信仰の影響もあって、日本とは逆に土葬の割合が非常に高くなっています。「死者の肉体に、再び霊魂が宿る」という考え方とも表現でき、こうした考え方に依れば、死者の肉体は保存されている必要があります。例えば、アメリカでは、遺体を防腐処理(エンバーミング)して、コンクリートで棺にカバーをして土葬するそうです。
プロテスタント圏は、伝染病対策など衛生面での配慮から、火葬率が比較的高いのですが、それでも7割程度にとどまっており、日本に較べれば土葬の習慣が色濃く残っています。
ところが、キリスト教圏において、ある重要な変化がありました。1963年にローマ法王庁が、火葬しても復活に支障はないと、火葬を許可する宣言をおこなったことです。この宣言以後、徐々にではありますが、火葬の割合が高まってきました。例えば、カトリック圏国家のフランスでは、それまで2~3%程度に過ぎなかった火葬率が、2000年には18%程にまで上昇しています。
葬送の手段が変化することに伴って、お墓のスタイルも変化することになりますので、火葬率の上昇は、新しいスタイルの墓地の誕生に繋がりました。復活信仰に基づいた土葬の場合、少なくとも復活の時を迎えるまで、遺体の眠る場所は確保されていなくてはならないわけで、日本風に言えば、永代供養が原則となるのですが、火葬された場合、極論すれば、遺体を安置する場所が、復活の時まで確保されている必要性はなくなります。例えば、フランスでは墓地の使用条件が、30年前後の有期限貸付に移行しつつあり、永代使用権のある墓地でも継承者不明の場合は墓石を取り壊して、再貸し付けするシステムがあります。また、スペースにとらわれることがないので、スキャンタリング(散骨)形式の墓地も増加しました。ただ、散骨も決して一般的な埋葬方法というわけではないようで、ニュージーランドの場合、火葬が普及しはじめた当時(1970年代)は、ほとんどが散骨されていたのが、次第に焼骨を墓地に多様な形態で埋蔵するように変化してきたと言います。またアメリカでも、散骨法があるのは7つの州(1994年)にとどまっています。
また、お墓の変化は社会変化を反映しています。
先進国では、日本と同様に戦後のベビーブームを経て、多少の異同はあるものの、少子高齢化の時代を迎えています。このことは、前号まで述べてきたような日本におけるお墓に対する意識の変化が、他の先進国でも起きているであろうことを意味します。
ヨーロッパでは、ペストなどの伝染病の流行といった歴史を経た経験から衛生的な視点で、そして産業革命に伴う都市人口の急増に依る墓地のスペースの不足なども、ローマ法王庁の宣言や少子高齢化と併せて、火葬を普及させた要因であると見ることもできるでしょう。
ブッシュ政権の政策の分析によって、改めて伝統的な社会の影響力の大きさが再認識されたアメリカでも、比較的「進歩的」と表現できる西海岸では、火葬率も高く、様々な埋葬のスタイルが生まれています。また、シアトル・ロスアンゼルス・フロリダといったセカンドライフのパラダイスといわれる地域でも、死後、故郷へ搬送される遺体の費用軽減のために、火葬が普及していると言います。そして、社会福祉政策の一環として墓地を国家で管理する場合の多いヨーロッパと違い、民間管理が主体のアメリカでは、今後も新たなスタイルのお墓が生まれる素地は充分にあると考えられます。
近隣諸国に目を移すと、近年急速な経済成長を続ける中国では、都市人口の集中に伴って墓地が不足し、都市部ほど火葬率が高くなっており、上海では政策として散骨を奨励しています。韓国でも2000年に墓地法が変わり、火葬が一気に普及しました。これに伴って新たなビジネスチャンスが生まれ、まさに大変化の時代を迎えているとのこと。
情報革命の時代を迎えたと言われて久しい今日、世界各地で進行するお墓に対する考え方が、様々な形で交流していくことになるでしょう。現に日本にも、散骨や公園墓地といった欧米で生まれたスタイルが輸入されていますし、「火葬先進国」とも言える日本のスタイルが、世界のどこかで受け入れられているかも知れません。
今後どのようなスタイルのお墓が生まれていくのか、業者としてだけではなく、いずれお墓にはいることになる、個人としても興味のあるところです。
第三回 「お墓革命の時代 その2」・・(平成18年5月1日)
前号では、新しいスタイルのお墓をいくつかご紹介しましたが、こうしたお墓が生まれてきた背景には、当然のことながら、お墓を建てる人々の意識の変化があります。今月は、この意識の変化について書いてみようと思います。
元来、お墓にはどのような役割があったのでしょうか?一般的には次のような意味を持っていたのではないか、と思われます。
・先祖供養のためのお墓
・遺骨の埋蔵場所としてのお墓
・故人の記念碑としてのお墓
いずれにも共通しているのは「既に亡くなった人たち」のためのお墓であるということだと言えます。
ところが、前号で挙げた様々なお墓のスタイルをじっくりと見てみますと、両家墓の普及は、お墓を守る子孫が居なくなる不安が背景のひとつとして考えられますし、ご自身の身近な場所へお墓を移したり(改葬)、ご自身ひとりのためのお墓を建てると言った傾向(個人墓など)が見られます。つまり、「まだ亡くなっていない人たち」を念頭に置いて、お墓を考えるようになってきていると思われるのです。
こうした意識の変化を裏付けるものとして、まず少子化社会に対する不安が挙げられるのではないでしょうか。
2004年の合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む平均子供数)は、過去最低の1.29でした。3月14日の川崎厚生相の答弁によれば、2005年の出生数は、2004年より4万4千人ほど減少しているということで、さらに出生率が下がると予想されます。
結婚に対する考え方も、今と昔では変わっている部分も多いとは思いますが、それでも多くの場合、女性は男性の姓に変わり、名字の上では夫の家系の人間となっています。誤解を招く書き方になるのかも知れませんが、ここでもし、妻の実家が一人っ子であった場合、姓を変えた時点で、妻の実家のお墓と家を守る人が居なくなってしまうことになります。そして、その可能性は決して少なくないものであることが、「出生率1.29」という数字に見ることができます。「遺骨を埋蔵し、子々孫々にわたってお墓を守っていく」という、これまでのお墓に対する考え方を満たすことができない時代になっていると言えるのではないでしょうか。
こうした社会背景によって、両家墓のような、いずれ無縁墓となる可能性を低くするための対策が見直され、もっと踏み込んで、無縁となることを前提として、永代供養墓や樹木葬などの、墓石を伴わないお墓が注目されているのです。
間もなく、団塊の世代の大量退職を迎えます。改めて言うまでもなく、団塊の世代によって社会は大きく変化しました。そして、今、彼らがシニアライフを迎えるにあたり、周辺のビジネスも含めて、老後の生活の「新たな形」が模索されています。その中で注目したいのは、各地方自治体が退職者の受け入れを推進していることです。
高度経済成長期には、多くの若者が地方から都市へ移りました。はじめは労働力としてでしたが、進学率の上昇や産業の高度化に伴って、実家を守るべき存在だった長男も、故郷を離れて都会に出てくる場合が多くなりました。このため、地方には老いた親が残り、子供達は都会で生活するという家庭が多くなりました。お盆や正月の帰省ラッシュのニュースを見れば、そうしたご家庭が非常に多いことがわかります。
今、実家を離れて都会に出ていった最初の世代が退職します。こうした世代の方たちが、退職後の余生を生まれた故郷で過ごすのか?というと、どうやらそうした傾向はあまり見られないようです。都会に出て結婚した人たちは、夫婦それぞれの故郷が違う土地であることが非常に多く、どちらかの故郷に戻るのであれば、今の場所にとどまるか、あるいは夫婦それぞれとは関係のない、別な場所に移住しようとお考えの方が多いようです。各自治体の退職者受け入れの活動は、まさにこうした現象に対応しているのではないでしょうか。
このとき、故郷とは別の場所で余生を過ごす場合、故郷のお墓を誰が管理し守っていくのか?という問題、そして、いずれご自身がお墓に入られる場合にどうするのか?という問題が出てきます。こうした問題の対策として、お墓をご自身の居所へ移したり(改葬)、ご夫婦のためのお墓を別に建立される方が増えてきています。
そして近年、特に女性を中心に「死」に対する意識が変化していると感じられます。大学や公共団体などが主催する、各種セミナーや講
習会でも、「葬儀」「お墓」などをテーマとする講座に、中高年女性の参加者が多くなってきています。北海道新聞でも、葬儀に関するテーマのコラムが連載されていますね。お客様とお話しする中でも、コラムを話題として出される中高年女性は、少なからずおられます。
聖徳大学生涯学習オープンアカデミーでは、1994年から7回にわたって、女性のためのお墓や葬儀に関する生涯学習講座を開講されました。この講座は有料の講座であるにも関わらず、毎回10~30人の女性が熱心に学んでいかれたと聞いております。ここに参加された受講生から、様々な質問が寄せられてきたのですが、その内容は、大きく分けて次の2点だったということです。
・お墓を造る際の、または現在あるお墓の継承に関する問題について。
・お墓は造らない、またはいらないという考え方について。
先に述べたように、従来のお墓は、父系の先祖を子孫が祀り守っていくものとしての位置づけが大きかったわけですが、実際にお墓を守っていたのは女性だったというご家庭は少なくなかったのではないでしょうか?
ところが、女性の社会的地位が向上するにつれて、女性自身のものの考え方も変化してきたように思われます。ご自身の死後に対しても同様で、従来の父系の家を前提としたお墓に対する考え方にも変化が見られます。先に挙げた聖徳大学のアカデミーの例もその一つで、こうした変化の中から、様々な新しいスタイルの埋葬が生まれました。ご自身だけが入る個人墓の他、樹木葬や公園のような自然の中でひっそりと眠るスタイルの墓地が注目されています。いずれもが、従来のお墓に対する考え方とは違った、新しい意識によって生まれたスタイルです。
このようなお墓に対する意識の変化は、日本だけに限らず、海外でも起きている変化です。少子高齢化が進んだ国では、日本と同じように、お墓を守っていく人が居なくなる可能性が大きくなり、私たちと同様に、お墓に対する意味づけが変化しつつあります。また、従来は土葬の文化圏であったキリスト教圏でも、近年、火葬が普及し、これに伴って、お墓のスタイルにも変化が見られます。公園スタイルの墓地などもその一例で、日本にも取り入れられつつあります。
グローバル化が進む今、こうした各国で生まれる新しいスタイルのお墓は、今後、日本にも様々な形で紹介されていくことと思われます。次回は、こうした外国の新しいスタイルの墓地について、いくつか紹介してみようと思います。
第二回 「お墓革命の時代 その1」・・(平成18年4月1日)
様々なメディアで取り上げられていることですが、家族構成の変化や少子高齢化の時代を迎え、世の中は様々な変化が起きています。
お墓についても同じように変化の時代を迎えています。
これまでお墓とは、故人に対して遺族が造りそして守っていくという考え方が一般的でした。ところが、核家族や一人家族の増加に伴って先祖代々のお墓を守っていく人がいないというご家庭が増えてきています。
また、故郷に両親を残して、就職のために子供たちが全て実家を離れてしまったというご家庭は、高度成長期以降、ごく普通に見られるようになりました。そして彼らの世代が間もなく退職を迎えるわけですが、引退後に故郷に戻る方は、どうやら多くはなさそうです。そのため、故郷に残された先祖代々のお墓をまもる人が居なくなってきています。
そして「家」に対する考え方の変化も加わって、これまでとは違ったスタイルのお墓が増えてきています。
上記のような社会の変化と共に、業界内の変化も起きています。
中国を中心とした、海外製品の輸入が増加し、新たな業者の参入もあって、競争激化しています。これらの動きは、1990年代に入ってから活発になってきました。
こうした変化の中で、再び注目を集めるようになったお墓や、新しいスタイルのお墓が生まれてきています。今回は、そのうちのいくつかをご紹介したいと思います。
~~その1.両家墓~~
両家墓、つまり、夫側のお墓と妻側のお墓を一緒にしたお墓のことです。両家墓というスタイル自体は昔からありましたが、1990年代以降、様々なメディアで取り上げられるようになってきたお墓のスタイルです。
団塊の世代以降、核家族化が進み、今や特殊出生率(一人の女性が生涯において出産する子供の数)は2004年で1.29となりました。
当然、女性の一人っ子、あるいは兄弟姉妹が女性のみという方も、戦前に較べると、大幅に増加しています。奥様の実家がこうした家族環境のご家庭であった場合、従来のお墓のスタイルでは、実のご両親のお墓が無縁墓となってしまいます。この事態を未然に防ぐための対策のひとつとして、最近注目を集めているのが、この両家墓というスタイルなのです。
両家墓を建立される場合、次のような問題点が考えられます。
1.両家の宗教や宗派が違う
2.自分の子供の世代
3.墓碑などのデザイン
まず1についてですが、埋葬場所が寺院墓地や、特定の宗教宗派の民営墓地である場合、ご両家宗教宗派の違いは、非常に大きな問題となります。寺院墓地の場合ですと、あたらに入壇料を請求されたり、戒名の付け直しを条件とされる場合もあるようです。
ただ、北海道の場合、公営墓地や宗教不問の民営墓地が多いので、一般的には、あまり大きな障害とはならないと思われます。
次に、自分の子供の世代の問題があります。自分の代で、せっかく両家墓を建てたとしても、子供の世代が女性のみであった場合、
再び同じ問題を抱えることになります。しかも、少子高齢化の現代においては、決して可能性の低い問題ではありません。
このような将来を見据えた場合、自分の一族ではなく、血縁が入るお墓として、墓石にはあらかじめ家名を入れずに建立し、墓誌に
埋葬者のお名前を彫っていくといったスタイルも検討する必要があると思われます。
3については、両家墓を建てたいとお考えのお客様ご本人だけではなく、このお墓に関わる皆様のご意見を、皆様でご検討されていくことが必要でしょう。
両家のご家族が一同に会して話し合った、そんな思い出も活かされるデザイン、スタイルであることも、お墓に対する思い入れに影
響を及ぼすのかも知れません。
~~その2.改葬~~
文字通り、お墓のお引っ越しです。
第二次大戦後、都市部への人口の移動が顕著になりましたが、特に団塊の世代以降は、それまでは実家に残って、家業なり家督を引き継いでいた長男も、故郷を離れて都会に移住するケースが多くなりました。社会的には、地方の過疎高齢化と、都市への人口集中という問題として、様々に語られている現象ですが、お墓にとっても同様に、そして、これからますます大きな問題として考えられる必要のある現象です。
団塊の世代の大量退職を迎える今、彼らをターゲットとした様々なビジネスが展開される中で、様々な地方自治体もまた、彼らの移住先として、おらが街をアピールする機会を多く見かけるようになりました。こうした移住者ご自身が、いずれ終の住処とされるお墓も故郷から引っ越されることも、今後増えてくるのではないか、と思われます。
ところで、改葬される場合、ただ遺骨を持ってくればいい、というわけにはいきません。昭和の初期に、無縁墳墓改葬の手続きが定められましたが、定められた当時は、まだ「無縁墓」は特殊な例だ、という考えに基づいて定められた規則のために、遺骨にも「墓籍」があって、お引っ越しの際には、我々生きている者同様に、様々な手続きが必要となります。同様に様々な費用もかかることになります。
~~その3.個人墓や永代供養墓~~
「現代は核家族の時代」といわれて久しいのですが、実体は変わりつつあるようです。現在、世帯の家族構成数で最も多いのは、一人。つまり、一人暮らしの家庭が、日本で最も多いのです。
単身赴任・就学・結婚率の低下と離婚率の上昇・独居老人などなど、一人暮らしの家庭の増加には、様々な要因が考えられますが、こうした家庭環境の変化は、お墓に対する考え方にも影響を与えています。
そのひとつが、「終の住処も一人で」という考え方。お墓のスタイルでいえば、「個人墓」となります。もちろん、上記のような家庭環境の方だけではなく、ご夫婦であっても、死後は「一人で眠りたい」というお考えの女性も増えてきています。また、ご自身の死後の墓守に関して、子供の手を煩わせたくないとお考えの方もいらっしゃいます。
個人墓の一番の問題点は、いずれ「無縁」になるということです。
無縁になる将来を見据えた、お墓造りが必要になってきます。この問題の解決策のひとつとして「永代供養墓」を挙げることができます。
永代供養とは、ご子孫が絶えてしまった場合などに生ずる「無縁仏」を、お寺などの永代供養をおこなう経営主体に対して、あらかじめお金を支払うなどの契約をおこなって、子孫に替わって供養してもらうというシステムです。
現在全国で約500ヶ所前後の永代供養墓が存在していますが、新しく生み出されたシステムのため、公的に定められた設置基準や運
営基準があるわけではありません。
そこで、永代供養墓を選ぶ上でのポイントを挙げておきましょう。
・経営主体(お寺も含めて)は、安心・信用できるのか?
お寺も倒産する時代です。ご自身の終の住処として、本当に安心して身を預けられる場所であるかを見極める必要があります。
・費用や使用条件が明確に決まっているか?
永代とは何年なのか?骨壺のまま保管されるのは何年か?合祀されるのは何年後か?など。
・供養の条件は?
春秋の彼岸やお盆の供養、あるいは個々の命日や月命日の供養に関して。
・天災の場合の補償は?
地震で倒壊した場合などは、どのような対応があるのか。
・維持費用は?
初期契約の時点で納入するお金以外にも、管理費などの経費かかかる場合もあります。
設置基準や運営基準が定められていないということは、それだけお客様個々のご意志が反映されているとも言えるのですが、同時に、あらかじめご自身でよくお調べの上で、どの供養墓を選ぶのかをしっかり判断しなくてはなりませんね。
~~その4.デザイン墓など~~
家墓というよりは、ご自身の記念碑として建てるというスタイルのお墓も、近年普及しつつあります。
そこに、旧来の風習にはとらわれずに、ご自身のイメージや人生を表現したいという志向も加わって、様々なデザインのお墓が生まれています。また、墓碑銘もこれまでの形式にとらわれない、多様なスタイルも生まれています。
自筆の言葉を遺す
好きな言葉や好きな絵画などを彫る
自身の職業や趣味を形にする
子孫への思いを形に遺す
等々。
これまでのお墓には、「父系の一族の先祖を供養する」という意義が大きな要素としてありました。これが、少子化や一人暮らしの
増加といった家族構成の変化によって、壊れ始めているのが今という時代だと思います。そんな中で、新たに生まれようとしている、
「新しいお墓のスタイル」のひとつとして、こうした様々なスタイルのお墓は注目されています。
~~その5.樹木葬などの墓石を伴わないお墓~~
キリスト教、特にカトリック圏では土葬が一般的でしたが、1970年代頃より、火葬が普及してきます。それに併せて、墓石のないお墓が普及しつつあります。
欧米では火葬が普及しても、その焼骨をお墓に埋葬するという形態は一般化しませんでした。その代わりに、様々な形態が考え出されます。バラ園への散布や埋蔵・壁墓地への収蔵・芝生墓地への埋蔵・池への散布等々。
日本でもこうした墓地や埋葬方法が現れつつあります。欧米の場合は、火葬の普及が転機でしたが、日本の場合は先祖供養という、これまでのお墓の形態が、少子化などの理由で維持できないのではないか?という不安から生まれてきたのではないかと思われます。
1999年に、岩手県一関市ののお寺が、里山の自然林を利用した「樹木葬公園墓地」をはじめたという新聞記事(朝日新聞2003年2月25日)の他、古いスタイルでは納骨堂形式、新しいものではインターネット霊園といった、これまでの慣習にとらわれない、新たな形態のお墓も生まれつつあります。
第一回 「お墓と仏壇」・・(平成18年3月1日)
ご家族の死去に伴って購入されることが多いお墓と仏壇。悲しみに暮れる中での、葬儀に続く大きな出費なので、ご家族にとっては大変なご負担になろうかと思います。
ところで、お墓とお仏壇、どうして両方必要になるのでしょうか?
『日本書紀』を繙きますと、七世紀頃にはすでに「お墓」という言葉がありました。もちろん、それ以前のずっと古い時代にも「お墓」は存在しています。ただ、これはあくまでも為政者などの支配階級だけにあった風習で、一般民衆については「埋葬」の習慣はなかったようです。古典を見ると、葬儀のことを「はふる」と表現しています。「はふる」とは「放る」、つまり放棄することです。嘗て、日本人は死者が出ると死体を遺棄していたわけです。庶民がお墓を作るようになるのは、室町時代以降。墓石を建立するようになるのは、江戸時代中期の頃と言われています。
庶民が墓を建てるようになったのは、仏教思想の影響が大きいと考えられています。かつては、人が亡くなると、死者の祟りがあるのではないか?死者の穢れが生きている人間に影響するのではないか?と忌み嫌われ、そのために死体を遠くに遺棄してきたのです。これに対して仏教では、死を忌むべきことではなく、ものごとの終わりと位置づけました。この教えの広まりと、民間に伝わる祖霊信仰や祖先を大切にする儒教文化などが融合して、今のようなお墓の文化が形成されたと言えるでしょう。
一方、仏壇については、やはり『日本書紀』を見ますと、天武天皇の十四年(西暦六八五)に「諸国の家ごとに仏舎を作って仏像と経を置き、礼拝供養するように」という内容の詔が出されていたことが記されています。この「仏舎」が、仏壇の起源にあたると言われています。以後、仏教が一般民衆に広まるにつれて仏壇を持つ風習も広まり、一般的な普及を見るのは、江戸時代に入ってからと考えられています。
仏壇の中を見ると、宗派によって多少の違いはありますが、中央部に御本尊をお祀りする場所があり、周囲に様々な仏具を配置するのが一般的です。ご先祖様を表す位牌や過去帳も、御本尊の周辺に配置されます。御本尊が安置されているところを「須弥壇」と言います。つまり仏教の理想世界である「須弥山」を象ったのが仏壇であり、家庭に須弥山を表現して、そこに居られる仏様をお祀りするためのものなのです。
現代においては、仏教文化の影響だけではなく、他の宗教や、個人それぞれの考え方により、様々な形態で祖先をお祀りされております。これまでのような「お墓と仏壇」だけではなく、納骨堂を利用される方も居られれば、散骨される方もおります。時代が多様化するにつれ、お墓の位置づけも昔とは変わりつつありますが、「土に還る」という言葉があるように、死者はいずれ自然に帰るべきものというのが、日本人の古来からの考え方だと思います。お墓は、ご先祖様を土に帰しつつ、子孫がご先祖をお祀りするための標(しるべ)ともなっている、日本人の文化に合致した合理的な施設であると考えます。
お客様が子々孫々にわたり永くご先祖をお祀りできるよう、丈夫なお墓をお作りすることが、私どもの使命であると考えております。
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