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第二六回 「古代日本のお墓~その4~」・・(平成20年4月1日)
文献史料としての日本神話を読み解く場合、その史料価値が高いのは、やはり『古事記』『日本書紀』になります。記紀のうち神話に当たるのが、『古事記』上巻「神代」と、『日本書紀』巻一・巻二です。その神話の中で死後の世界を具体的に描いているのは、「黄泉の国」のイザナギ・イザナミの話だけですが、この話は長い期間にわたって、日本人の死後観に大きな影響を与えてきました。
ところで、神話は、数多くの民族の中で語り継がれ、民族の、あるいは人々それぞれが困難に直面した時に、神話を教訓として困難を乗り越えてきました。ですが、それは史実ではなく、「作り話」「おとぎ話」に過ぎないという向きもあるでしょう。こうした神話の価値を正しく見直し、現代に明らかにしたのは、フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースやスイスの心理学者トーマス=ユングです。神話は日常に意識される世界と合わない、いわば夢のような、つじつまの合わないストーリーが展開されますが、それは無意識の世界をあらわしているからだとします。なにかの機会にその人が無意識に経験したこと、あるいは経験したことが無意識の中に蓄えられていったもの、これらを表現したものが神話なのです。無意識があらわれる「夢」と分析することで無意識の世界の精神分析ができることを発見したのは、オーストリアの心理学者フロイトですが、彼の理論が大きなヒントとなって、ストロースやユングの「神話学」が誕生しました。
ストロースとユングは、直接出会ったことはなかったようですが、期せずして「神話は一種の集団(人類や民族)の夢(無意識の世界)であって、隠れた意味を示すような解釈ができる」と述べています(E・リーチ『レヴィ=ストロース』・ユング『神話学とはなにか』など)。なぜそういえるのかというと、世界中に伝承されてきたおびただしい数の「神話」「昔話」には、お互いに影響しあうことがなくても、似通った内容の物語がたくさんあるからです。もし、誰かが恣意的に作った空想物語であれば、神話の内容はもっと多岐にわたるはずです。しかし、非常に似通った神話や昔話が、その当時、交流することはありえなかったであろう世界各地で創られ、受け継がれています。こうした事実から神話や昔話には、人類(民族・集団)が実際に経験した共通の内容を無意識に様々な形で表現したものだと言える。ストロースやユングはこのように指摘しています。
もっとわかりやすくいえば、われわれが普段常識だと思っている合理的・科学的・論理的な見方からすると、どうしても非常識としか思われない日本神話の中に、実は現代のわれわれにとっても、とても大切な祖先からのメッセージが隠されているのだ、ということになります。
さて、日本神話「神代」の、日本の国が誕生する「国生み」の物語には、お墓や墓石の原点となる重要な話があり、それは確実に現代にも受け継がれています。 天地の始まり、神々の誕生、死、死後の世界へと物語りはどのように展開し、また日本人の原点となる世界観や死生観の中で死や穢れやお墓の問題がどのように語られ、我々現代の日本人にどんな意味のメッセージを送っているかを知るために、『古事記』の神代の物語を読み解いていくことにしましょう。
第二五回 「古代日本のお墓~その3~」・・(平成20年3月1日)
歴史研究において、遺跡の研究と並んで重要なのは、文献の研究です。
日本古代史研究において重視される文献として中国の史書(『漢書』『後漢書』など)があります。これらは、日本にまだ文字がなかった、あるいは伝わっていなかった時代の文献の為、もちろんきわめて重要な史料です。ですが、やはり外国の別の民族の手による史料の為、客観性がある反面、日本民族の意識を探るためにはどうしても物足りないと思われます。
すると、少々時代は下ってしまうのですが、『古事記』『日本書紀』の他、『風土記』『祝詞』『万葉集』といった奈良時代前後の史料から、探っていくことになります。
今回はまず、これらの歴史資料に見える、われわれが生きる世の中(この世)とは別の世界(あの世)についてお話してみようと思います。
これらの史料を見るとき、忘れてはいけないことがあります。
一つは天皇の問題です。上記の史料は、大化改新後の天皇を中心とした中央集権体制の確立に向かう時代です。このため、神話によって天皇の正当性を主張する内容が多く含まれていること、もっと言えば、これらの史料の多くが、そのために製作されているということを念頭に置かねばなりません。
今ひとつは、これらの史料が編纂された時代には、すでに仏教や中国思想など、中国文化が伝来しているということです。日本人本来の民族意識や死生観を探る時、中国文化の影響をしっかり見極めて外していかないとならないでしょう。
日本民族の「あの世」の特徴は、大きく二点あげられます。
ひとつは、あの世がいくつも存在しているということ。
もうひとつは、この世と断絶したはるか彼方の世界ではなく、例えば、注連縄をはって気持ちを変えることで眼前にあの世を作り出すことができるように、この世との往来が可能な世界であるということです。
このことは、お墓にも通じる重要な特徴です。
【高天原】
地上のこの世「中つ国(豊葦原中津国)」に対する「天つ国」で、天上他界といわれ天照大神が治める神々の住む国です。
『日本書紀』「尸(かばね)を天(高天原)に到さしむ。便ち喪屋を造りて殯(もがり)す」という記述があります(天若日子の神話)が、この例外を除いて、高天原を死者の国と表現している記述はありません。
【常世国・妣が国】
海のはるか彼方にある理想的な長寿の国といわれる海上他界です。
『古事記』では、大国主命と共に日本を作った少彦名の命が、国堅めを終えて帰っていった海原として表現されています。また、神武天皇が海上を渡り「常世の国」へ行き、別の兄弟は海原に入って「妣の国」へ行った、という記述もあります。「妣」とは「亡き母」のことです。
『丹後国風土記』逸文では、浦島伝説の浦島が亀に乗って行った常世を「蓬山」(蓬莱山)と表現しています。これは、道教の影響を受けたもので、神仙の住む不老長生の楽土を指しています。
後に仏教の影響を受けると、観音浄土である「補陀洛山=補陀洛浄土」と習合します。
【黄泉国】
「根の国」ともいわれ、イザナギの命とイザナミの命が大八州(日本)の国造りの過程で火の神(迦倶土神)を生んだ際に死亡して旅立った死者の国で、イザナミの命やスサノヲの命が支配する地下他界です。
妻の死を嘆いて、黄泉の国を訪れたイザナギが目にしたのは、全身に蛆虫がわき、頭髪から足先までに八つの雷神が宿るイザナミの骸でした。黄泉の国から戻ったイザナギは「死の穢れ」を洗い清めるため、筑紫の日向で「禊ぎ祓い」をしています。これが「死穢」「禊ぎ」の根拠です。後に詳述する予定ですが、この「死穢」「禊ぎ」は今日のお墓や葬儀まで伝わる、日本の文化です。
今ここで指摘したいのは、黄泉の国、つまり死者の国に生者が往来できる、ということです。
『日本書紀』では、黄泉の国を「殯●(もがり)の処」とする記述もあります。「殯宮」とは埋葬前の遺体を一定期間、仮安置する場所です。ここでは黄泉の国が「殯宮」を示唆している可能性を指摘するにとどめて起きます。
【根の国・妣が国】
『古事記』では、イザナギの命が禊ぎをした際、天照大神・月読之命・須佐之男之命にそれぞれ高天原・夜食国・海原を治めるように命じています。これに対し、スサノヲは海原の統治を拒否して「僕は妣の国、根の堅州国へ行きたい」と泣き喚く記事があります。この妣はイザナミを指しますので、「根の国」とは黄泉の国のことになります。
【神奈備山】
「神奈備」とは、神が天降った神聖な山や森を指します。『万葉集』の「挽歌」や『風土記』『祝詞』に多く用例が見られ、山上他界・山中他界といわれます。「死者は山へ還る」という民俗の重要な基盤と見られます。
以上のように、天上他界・海上他界・山中(山上)他界・地下他界の四つに分けることができ、空間的には地上に対して垂直方向と水平方向の二種に分けることができます。
四つの他界のうち「死者の国」とされる他界は、天上他界の高天原以外の三つの他界です。このうち、海上他界の常世国は道教の影響(不老不死の国:蓬莱山)や仏教の影響(観音浄土)をうけて、理想郷的な扱いになっています。また天上他界である高天原も、後に民俗として「氏神様」があらわれても皇族以外がここまで上るとは考えられてはいなかったようです。
冒頭で述べたように、日本の古代史料を読み解く際に、天皇家の存在は考慮しなくてはなりません。神話に出てくる神々は、日本人と日本人の祖先である天皇家の祖先です。そして私たち日本人の祖先は、これらの資料の中では、高天原から高千穂に降臨したことと、神武天皇の母が海中のワニで常世の国からやってきたと記されています。ここに日本人の起源が「山の民」と「海の民」であることを示しています。そしてこのことは同時に、私たちが死後に還るべき地は「山」であり「海」であることを示唆しています。
第二四回 「古代日本のお墓~その2~」・・(平成20年2月1日)
引き続き、古代日本のお墓について考えてみます。
【古墳時代のお墓】
古墳時代は、その名の通り、お墓に象徴される時代です。
全国各地に巨大な古墳が造営され、多くの副葬品が埋葬されました。弥生時代の項でも触れましたが、集団生活の中で階級差が生まれるに従い、支配階級と庶民のお墓に差が出てきます。
社会がムラ→クニ→国家へと規模が拡大するにつれて、古墳もより巨大なものへと姿を変えていきました。
巨大な古墳の造営は、すなわち、大規模な土木工事です。当然多くの従事者を必要とし、また彼らを統率する権力が必要となります。
そして埴輪に代表される数多くの副葬品の作成は、そのクニあるいは国家の生産力の誇示とも言えます。
こうした古墳造営による国家権力の誇示は、支配地域の住人に対するだけではなく、他国に対しての国力の誇示という役割も担っていたのでしょう。特に、大仙古墳(少し上の世代であれば、『仁徳天皇稜』の方が馴染み深いかもしれませんね)のような巨大古墳が多く造営された4~5世紀の副葬品には、武具・馬具が多く見られることから、この時代はヤマト朝廷の日本統一の過程としての、各国家間での紛争が多くあったことが想像できます。
実際に他の史料を調べてみても、そのような時代であったことを窺い知ることができます。
大規模な古墳が多く造営された時代の庶民のお墓については、大雑把に調べてみたところ、あまり多くの遺跡がないようです。
これは、単純に発見されていないだけなのかもしれませんが、やはり、庶民の生活も含めた多大な労力が、古墳造営事業と戦争に向けられていたから、ではないかと思います。自分たちのために、身分相応に立派なお墓を作る余力がなかった、と思います。
実際、古墳時代前期の遺跡には、弥生時代から受け継がれていた方形周溝墓群の遺跡が全国で発掘されていますし、古墳時代後期、つまりヤマト朝廷の支配が確立したであろう時代になると、古墳の規模も小型化し、変わりに『装飾古墳』と呼ばれる、凝った造りの古墳が多くなり、同時に斜面を利用した横穴式の古墳群(「群集墳」と呼ばれます)の遺跡が見られるようになります。
一部の民俗学者には「日本人は死体はきたなく、こわいものと捉え、お墓を造らず野山に捨てた」と考える方もおられるようですが、縄文遺跡・弥生遺跡と共通して見られる、「集落の中にお墓を造る」つまり、先祖とともに暮らしていく、という価値観を持っていた古代日本人が、古墳時代になって、急に価値観を180度変えてしまった、とは考えにくいです。
当時が、日本国家の統一過程であったと言うことは、当然のことですが、戦乱の時代であったと言えます。
一般民衆は、平時には権力者の古墳造営のために労役し、有事には徴兵されていたであろうことは容易に想像できます。
このため、自らのお墓に注ぐ労力がどうしても軽減されてしまうのはやむをえないことだったのではないでしょうか?だからこそ、古墳時代世紀の民衆のお墓の遺跡があまり見られないのであり、そして古墳の規模が縮小してきた古墳時代後期には、再び多くの群集墳が現れてきたのだと思います。
そしてもう一つ、副葬品に着目してみたいと思います。
副葬品は、その生産過程は、生きている人々の目に触れます。ですが埋葬されてしまえば、これらの品々は人目に触れることはありません。単純に後世に至るまで権力の誇示だけが目的であれば、死者と共に埋めてしまうというのは、あまり合理的な思考では無いように思われます。やはり「死者の死後の生活」を考えていたためであり、それはつまり、「死後の世界」の存在を意識していた、ということに他ならないと思います。
こうした、古墳の造営に国力を注いできた時代は、大化の改新前後んに終焉を迎えます。
その理由としては、先にも触れたように、古墳造営による権力誇示の必要がなくなったこともありますが、仏教の伝来に伴い、古墳造営から寺院建築へと力を向ける先が変わったこともあるでしょう。
そして646年に「大化薄葬令」が出されます。これは中国の例に倣い、身分ごとに埋葬方法について細かく規定された法です。この中では、庶民の埋葬方法についても規定されています。
このことは、支配階級から民衆に至るまで、死者を手厚く埋葬していたという事実を示しているのではないでしょうか?もちろん天皇のお墓よりも立派なお墓を作らせない、という目的もあったでしょう。
ですが、それ以上に、規制しなくてはならないほどに、当時の日本人が、お墓に対して情熱を注いでいた、ということを証明しているように思えます。まさに、ここに古代日本人の死生観を感じ取ることができるように、私は思えます。
第二三回 「古代日本のお墓~その1~」・・(平成20年1月1日)
『文化人類学事典』(弘文堂)では墓について、「一つの文化・社会のいろいろな特徴が集中して表現されている場所」と書かれています。
「お墓とはなにか?」を考えるに当たり、後世、中国文化や仏教の影響を受ける以前のお墓を見ることで、日本人本来のお墓に対する思いを知ることができる、それはひいては日本文化の特徴を知ることにつながるかと思います。
ということで、時代を追って、古代日本のお墓について考えていくことにしましょう。
【縄文時代のお墓】
縄文時代の遺跡として、いろいろな意味で定説を覆して話題になった、青森県の三内丸山遺跡があります。
三内丸山遺跡については、多くの書籍によって紹介されておりますので、詳細はそちらに譲りますが、ここで注目したいのは、「二列の集団墓群」です。
三内丸山遺跡は、1994年8月に、野球場と公園の建設が中止され、かなりの遺跡がつぶされた後に残ったものです。
そして、現場からは大量の縄文土器や遺構と、道の両側の斜面に向き合って、整然と二列に並ぶ約100基の土坑墓がありました。
発掘当初、この道の長さは約50m、道の両側の斜面に、向き合って整然と二列に並ぶ約100基の土坑墓がありました。
この道幅は15mもあり発掘現場の中央を東西に貫くメインストリートです。
その後の発掘で、この道は約500mほど確認され、その先は海まで続いていると推測されています。
集落の中央を貫く、大きな道。そしてそれは海へと伸びている。それだけを見ても、この道は、三内丸山遺跡の集落にとって、極めて重要なライフラインであることがわかります。
その重要な道の両側に、どうしてお墓が作られていたのでしょうか?
もし、死者を忌み嫌い、怖い存在と捉えていれば、墓地は集落から隔離された場所に置かれるのが普通ではないでしょうか。学術的な見地からは、この墓地の意味について特に語られてはいないようですが、少なくとも、三内丸山の集落においては、縄文人は死者を忌み嫌う存在としては捉えていない、そう感じさせられます。
【弥生時代のお墓】
佐賀県吉野ヶ里遺跡は、内外二重の堀に囲まれた環濠遺跡です。
その面積は約30ヘクタールもあり、このため「邪馬台国」の跡ではないか、とさかんに騒がれました。この遺跡は、三内丸山遺跡よりも約3000年後、今から2200年ほど前の弥生時代のものです。
この遺跡のお墓の特徴は、以下の通りです。
・北九州一帯に特有の埋葬法である、大人用の「甕棺」が2000基以上出土したこと。
・二列になった墓列(列状墓群)がある。
・古墳時代の原型と見られる墳丘墓が二列の墓群の北側にあること。
・集落の北側に出入口と道があり、墳丘墓の横から列状の埋葬地を抜けて居住区へと続いています。
三内丸山遺跡と共通しているのは、埋葬地が、居住区と隣接している、しかも集落の中でも比較的重要と思われる位置にある点です。
これは、古代日本人が、「死者も生きている人たちとともに暮らしている」という考えを持っていたことを示しているのではないでしょうか。
墳丘墓の存在は、この時代には身分差がはっきりと存在していたことを示しています。
吉野ヶ里を訪れる当時の人々は、まず墳丘墓(おそらくは過去の集落の長たちでしょう)に触れ、続いて集落のご先祖様たちの間を抜けて、それから集落の人々と接することになります。
逆に集落から出て行く人たちは、最後に墳丘墓を抜けて外に出て行きます。
このことは、墳丘墓に眠る人たちに対する敬意を示した構造だと考えられないでしょうか。
大人用の「甕棺」が多く出土するのは北九州一体です。子供用の甕棺は、ほぼ全国の縄文・弥生遺跡より出土しています。
また、中国大陸でも、新石器時代より前漢末期くらいまではさかんに利用されています。
また朝鮮半島からも出土していることから、子供用の甕棺については、中国大陸の影響を見ることができます。
北九州で出土する甕棺には、二次葬・複葬といって、一度骨にしてから改めて甕棺に収められたものがあります。
こうした、大陸文化の影響である甕棺に納める行為、二次葬・複葬といった、手間のかかる埋葬こそ、「死体を大切に扱っている」ということの証明になると思います。
そして、吉野ヶ里遺跡からは、多くの副葬品も出土しています。
副葬品は、一般的には権力の誇示・象徴とされておりますが、もっと現実的に考えてみると、「死後の世界」のために収められているものだと思います。
そもそも、土の下に埋められてしまうものですから、後世の人々に対して誇示することなどできないでしょう。
現代の私達が棺桶に納める品として、お花などの供物の他に、杖や草鞋、死装束、小銭を副葬品として納める習慣があります。これらはいずれも、死後の旅のために必要な品々として納められています。
副葬品があるということは、「死後の世界」の存在を信じている、ということの具体的な証拠になるかと思います。
このように見てきますと、縄文・弥生の古代日本人は、死者を大切に扱い、死後の世界の存在を信じていた、言えるのではないでしょうか。
第二二回 「お墓とはなにか?」・・(平成19年12月1日)
第二一回 「無縁仏からみる社会の歪み」・・(平成19年11月1日)
9月23日の北海道新聞に、下記のような記事が掲載されました。
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(以下抜粋)
事故や病気で亡くなっても縁者に引き取られない無縁仏が、道内の都市部で増えている。札幌市では、無縁仏として引き取った遺体の数が昨年度、過去最多になった。秋の彼岸、だれにも供養されることもなく眠る死者たち。遺族に代わって遺体を弔う葬送業者は、言いようのないやりきれなさを感じている。「親族のきずなはどこに行ったのか」-。 札幌市中央区のある葬儀会社の職員は、穏やかな表情で眠る80代の女性をゆっくりとひつぎに移した。
同社は、札幌市の委託を受けて無縁仏を弔う唯一の業者だ。
女性の親族が遺体の引き取りを断ったため、同社が市役所への手続き、火葬、墓地までの遺骨の運搬を代行した。
札幌市が2006年度に無縁仏として引き受けた遺体の数は、統計を取り始めた1992年以来最多の25体。札幌に次ぐ大都市の旭川市も21体と、過去5年で最多になった。
道保健福祉部の調べでは、札幌、旭川、函館を除く全市町村では計16対にとどまっており、都市部での多さが際立つ。
もともと天涯孤独だったり、身元がわからなかったり理由はさまざまだが、最近は「家族や親類が引き取りを断るケースが、以前より目立つようになった」 (旭川市福祉総務課)という。
親族の人間関係が希薄になっている-。同社職員は、そう考えざるを得ない光景を何度も目の当たりにした。遺体を前にして「私は引き取りたくない」「おれもいやだ」と問答している親族たちの姿。何のためらいもなく、市に引き取りを頼んだ人もいた。「社会のゆがみを垣間見た思いがしましたね」。職員は振り返る。
札幌市の場合、遺骨は同市豊平区の平岸霊園の納骨堂に三年間保管し、引き取り手が現れなければ、墓を持たない遺骨を納める隣接の「納骨塚」に合葬する。
この間に、縁者に引き取られている遺骨は「極めて少ない」(札幌市保護指導課)という。
平岸霊園の納骨塚には8月末現在、2,557体が納められ、うち256体の無縁の霊が眠っている。
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無縁仏とは、亡くなった人を弔う親族縁者が途絶えてしまったことで、お墓の継承者がいなくなり、 ]また、後に入る人も墓参する人もいなくなってしまったお墓のことです。
高度成長期に、国内における人の移動が激しくなり、これに伴って、地方に残されたお墓が多くなりました。
はじめの頃は休みを利用して参拝に来ていた親族も、移住先での生活が長くなるにつれて、徐々に足が遠のき、やがて守る人も途絶え、荒廃してしまったお墓が数多く見受けられます。
また、逆に都会で生活している人にとっても、少子化に伴って、跡継ぎがいなくなってしまった、あるいは子孫が離れて生活しているなどの理由で無縁仏となってしまったお墓も多く見られ、こうしたお墓は、東京都内の主要霊園だけでも、全体の1割を超えるといわれています。
平成11年3月に改正された「墓地、埋葬等に関する法律」では、墓地の使用者が死亡、あるいは管理料未払いのまま3年間放置した場合、「無縁墳墓に関する権利を有する者に対し、1年以内に申し出るべき旨を官報に掲載し、かつ無縁墳墓等の見やすい場所に設置された立札に1年間掲示して公告し、その期間中にその申し出がなかった旨を記載した書面」を当該役所に提出すれば無縁墓地を整理することができるようになりました。
従来は、墓地使用者と死亡者の本籍地、住所地の市町村長に照会し回答を得ること、また、2種以上の新聞に3回以上公告を出し、申し出がなければ処理することができるという流れだったことを考えると、大幅にシステムが簡素化されたといえます。
この背景には、上記のような無縁墓地の増加が、深刻な問題になってきたという事実があるのです。
このような守る人の絶えたお墓の他に、さらに深刻な問題として、冒頭の北海道新聞記事のような、引き取る親族がいない、あるいは親族が遺体引取りを拒否するといった事例が増えてきていることが挙げられます。
これにはさまざまな事情が考えられます。
たとえば、葬儀費用の問題もあるでしょう。データは古いのですが、1990年代中期のアメリカの葬儀費用は、当時のレートで平均約44万円、ドイツの場合は約18万円です。ところが、日本の場合は、日本消費者協会のアンケート調査(「葬儀についてのアンケート調査」平成15年9月)によると平均236万円という金額になります。この数値の信憑性を疑う意見もあるものの、それでも各葬儀社のサイトを拝見しますと、最低でも100万円は必要だな、という印象です。
加えて、日本は世界的に見ても、少子高齢化の進行が進んでいますので、遺族一人当たりの負担も欧米に比べてはるかに大きいと言えるでしょう。
また、香典は「本来、葬儀費用をたくさんの遺族知人が分担してまかなう」ことが目的だという話を耳にしたことがあります。
社会生活の変化に伴い、地域に密着しない生活、親族と遠く離れた生活が当たり前になってくると、変な話ですが、それだけ、香典の金額が減ってしまうことにもなります。
まさに現金な話ですが、こうした金銭的な負担の問題が、まったくないとは言い切れないでしょう。
もちろん、他にもさまざまな問題もあります。地縁血縁の薄れなど、人間関係の変化というのは、やはり看過できない問題なのだろうと思います。こうした問題は、社会の変化や考え方の変化など、さまざまな要因が考えられるのでしょう。その善し悪しを判断することは、私にはできません。
ただ、葬儀に関わる業者の一人として、時代の要請に応じた葬儀について、考えていくしかないのだと思います。
第二十回 「叡尊・忍性」・・(平成19年10月1日)
叡尊は鎌倉時代中期の真言律宗の僧で、奈良西大寺を復興した僧として知られます。はじめ高野山に真言密教を学び、のち戒律の復興を志して西大寺の僧となります。 その後、東大寺で自誓受戒し、海龍王寺を経て西大寺に戻り、律宗を復活させました。 貴賤を問わず広く帰依を受け、鎌倉幕府より招かれて鎌倉に下り、広く戒を授け、律を講じました。また、国分寺や法華寺の最高にも努め、尼への受戒も再開しました。
忍性は、はじめ母の遺言によって出家し、勧進聖として西大寺再建に加わった際に、叡尊と出会い、弟子入りします。弟子入りしてすぐに出家の儀式をやり直し、叡尊の元で一から教学を学び直します。その一方で常施院を設け、ハンセン病患者救済の他、様々な社会事業に取り組み、会わせて律宗の布教にも取り組みます。 その後関東に赴き、北条市の信頼を得、北条重時の葬儀を司り、師の叡尊と共に極楽寺を中心に活動を展開しました。また、重源の後を承けて、第十四代の東大寺大勧進にもなっています。
さて、彼ら子弟は、重源の活動を奈良で目の当たりにしていたはずです。彼らと重源との間に、直接的な師弟関係はありませんが、「舎利信仰」継承という点では、きわめて強い精神的つながりがあるように思われます。二人は、多くの石塔や舎利塔の建立に寄与しましたが、その根底に重源の舎利信仰・舎利塔信仰の影響があることは否定できないでしょう。
二人が関わった石塔・仏塔について、いくつかあげてみましょう。 | |
まずなんと言っても有名なのは、国の重要文化財である、「宇治浮島十三重塔」でしょう。京都宇治、平等院鳳凰堂前の浮島にそびえるこの塔は、高さ約15mの花崗岩製で、全国一の高さを誇っています。 |
これは、叡尊が宇治橋再興の際に建てた供養塔で、尹行末の造った般若寺の十三重塔と並び称される、鎌倉時代の名品です。 この塔は、江戸時代半ばに、洪水で流失しましたが、明治時代に川中より発掘され、一部を補ってはいるものの、ほぼ当時の姿でそびえ続けています。
同じく国の重要文化財である「極楽寺五輪塔」は、鎌倉型五輪塔の最高傑作とも称され、高さ4m弱、安山岩製で、関東では最大級の五輪塔です。
これは忍性の墓として、彼の没後すぐに建てられたとされています。これと同類のものが、叡尊の墓として西大寺奥の院にもあります。 また「箱根山五輪塔」と称される3基の五輪塔は、一般に曾我兄弟の墓と言われておりますが根拠のない俗説で、近くにある「箱根宝篋印塔」と共に、忍性を中心とした、この地方の「地蔵信仰」によって生み出されたものです。五輪塔の背面には「右志者、為地蔵講結縁衆等、平等利益也、永仁三年十二月」の銘文があり、また正面には地蔵菩薩立像が彫られていることからも、そのことがわかります。
ちなみに、兵庫県丹波地方には「五輪塔は地蔵様を現している」という伝承があるそうです。 忍性を中心に生まれた地蔵信仰ですが、この信仰は、恐らくは当時の石工達あるいは勧進僧によって広められたのではないでしょうか。 嘗て重源が率いた石工達は、叡尊・忍性に受け継がれました。 また、東大寺の勧進事業も重源から忍性へと引き継がれています。 そして重源の小野別所は兵庫県にあります。 こうした歴史的な事実から、重源・叡尊・忍性は、舎利信仰・地蔵信仰を背景に、最新の石材技術を日本全国へと普及させたことに、 大いに寄与したと言えます。お墓としての五輪塔の全国への伝播に、彼らの果たした役割はきわめて大きいと言えるでしょう。
第十九回 「閑話休題」・・(平成19年9月1日)
さて、北海道の夏といえばお盆まで。とはもう過去の話ですね。まだまだ暑い日差しが照りつける毎日です。お盆休み、みなさまもそれぞれにお墓参りに行ってこられたかと思います。私も両親の実家のお墓、親戚のお墓、友人のお墓など、いくつか回ってきました。その際、ここのところずっと書いている「五輪塔」を探してみたのですが、結局見つけることができたのは一基だけでした。 (写真)
一応、他人のお墓なので、望遠でこっそりと撮影してきたわけですが、やはり北海道という地域性もあるのでしょう。明治以前の長きにわたってお墓の定番スタイルであったという五輪塔は、ほとんど見ることができませんでしたね。 明治以降になると、現在のお墓のスタイル-棹石を中心に据えるお墓-が普及します。こちらについては、まだ勉強不足なのですが、以下想像を書いてみますと… ・石材の加工技術の向上・石材を使ったお墓の普及こうしたことが理由となって、五輪塔に替わって棹石が普及したのか、と感じています。
つまり… まず、加工技術が向上したことによって、直線的なデザインの加工が可能になったということがあげられるでしょう。石といってももちろん天然素材なわけですし、花崗岩は雲母や石英など、複数の結晶の集まりですから、長い直線に加工することは非常に大変です。その点、五輪塔は、丸や三角など、複数の立体を組み合わせた構造のお墓ですから、長い直線部分はあまりありません。加工技術の向上によって、シンプルなスタイルのお墓の作成が可能になったことで、棹石スタイルが普及し得たと言えると思います。また、明治維新後、身分差が解消され、多くの人々が石材のお墓を建立することが可能になります。公営の墓地も多くなり、様々な人々がお墓を持つことができるようになります。すると、当然たくさんのお墓が立ち並ぶわけですが、そうなると自分のお墓がすぐにわかるような形、が必要になってくるのではないでしょうか。その点、棹石スタイルですと、「○○家之墓」と大書することができますので、遠くからも自分のお墓を用意に見つけだすことができます。また、価格の問題もあるでしょう。加工技術が向上する、つまり加工用の機器が利用されるようになると、今度は複雑な形状の五輪塔よりは、シンプルな棹石の方が、価格面では安くなります。まぁこういった理由で五輪塔に替わって棹石のお墓が普及していったのでしょうね。
それにしても、どこの墓地もそうですが、カラスが本当に多いですね。やはり、食べ物をお供えする文化がある以上、どうしてもその食べ物を狙ってカラスなどが集まってくるのは致し方のないところですが、お供え物が荒らされていたり、カラスの糞でお墓が汚れているのは、やはり見ていて気持ちの良いものではありませんね。お仏壇と違って、毎日お墓に向き合うことは、ほとんどの方にはないと思います。めったに来ないからこそ、見ていないときにどんどん汚れていくのを、少しでも防ぐ方法はないものか、ちょっと調べてみていずれかの機会に書いてみようか、とも思っています。
さて、次号からは再び五輪塔のお話を書いていきます。鎌倉時代に入って、日本のお墓文化として広く根付いていく様子をとりまとめてみたいと思います。
第十八回 「重源上人」・・(平成19年8月1日)
現在、僧侶といえば葬式に従事する者と思われがちです。というのも、私たちは通常、僧侶に出会う機会といえば、葬式や法事がほとんどで、僧侶は境内墓地や納骨堂のいわば管理者となってしまっていると言えるからです。
「葬式仏教」という言葉がありますが、仏教者のそうした揶揄が込められているのではないでしょうか。もっとはっきり言うと、葬式仏教は仏教の堕落した姿と考えられているのではないでしょうか。近年は、自然葬や散骨など、いわば「自然に還す」葬送が注目されていますが、こうした風潮も、葬式仏教への批判とも取れるのではないでしょうか。
ですが、考えてみると、僧侶がきちんと葬式を執り行ってくれるということは、一人の人間にとって、誕生と並ぶ死という人生の重大事を厳粛に通過したいという願いに応えていることも間違いないと思われます。葬式は死者の救済に関わる儀礼ですし、残された者にとっても儀礼的意味合いは濃いですが、死者に別れを告げる行為は、大変重要なことだと思います。
僧侶が葬送に従事するようになったのは、所謂「聖」に代表されるような、遁世僧の活躍があって以後のことです。奈良の南都六宗や比叡山などの所謂官僧は、葬送には関与しませんでした。東大寺や延暦寺などでは、現在、葬儀もおこなっておりますが、これは第二次大戦後のことで、それまでは身内の葬式でさえ遁世僧系の他宗派の僧侶に任せていたのです。
こうした、官僧と遁世僧の葬送に関する相違は一体なにに起因しているのか、と言いますと、官僧はいわば官僚的な存在で、鎮護国家などの国家行事に関わっていることがあります。葬儀は死穢です。古代中世にあっては、死穢を避けることは重大な関心事であり、特に官人・官僧にとっては非常に重要なことでした。
一方、遁世僧はこうした制約から自由な存在でした。というよりはむしろ積極的に関わりを持っています。これまでに述べてきた中で、幾度か聖について述べてきましたが、彼らの中には、奈良時代の行基集団の流れを汲んで、勧進をおこなう一方、民衆救済に尽力する者が多く存在しました。平安後期になると末法思想が流布し、相まって浄土信仰が広く世に浸透しましたが、そうした時代背景の中で、聖の民衆救済の活動と民衆の来世への願いが、「葬送」という儀式で結びつくことはとても自然なことだと思われます。
こうした遁世僧の葬送活動の理論的な背景を構築したのが、これまでに述べてきた良源・源信・覚鑁といった僧侶でした。
鎌倉時代、こうした遁世僧の最初の第一人者といえば、俊乗房重源です。重源の歴史的な最大の功績は、源平合戦の最中に消失した東大寺復興に尽力したことが挙げられます。重源は東大寺復興の勧進事業を通じて、世に「舎利信仰」「舎利塔信仰」を広めましたが、その中で五輪塔も全国に普及させました。
重源は、宋の浙江省にある阿育王寺で、舎利塔・仏舎利信仰を目の当たりにし、大いに触発を受けたようです。阿育王寺はインドのアショーカ王にちなんだ寺院です。アショーカ王は、仏教に帰依してより、様々な社会事業を興し、インド全土に八万四千の舎利仏塔を建てたとされる王です。まさに遁世僧の先駆的な存在と言えますね。
帰国後の重源は、法然の門下に入り、後に高野山に移りますが、こうした中で遁世僧として勧進僧としての活動を開始します。彼の伝記と、勧進僧としての活動については『南無阿弥陀仏作善集』という史料に見ることができます。重源は勧進によって東大寺他多くの寺院の建立・修復に尽力していますが、これに平行して各地に浄土堂や入浴施設を建て、民衆救済に尽力しています。また迎え講を盛んにおこない多くの人の阿弥陀仏の救済の喜びを伝えました。
そして重源でもっとも注目されるのが、先に述べた「舎利信仰」「塔信仰」です。重源は各地より多くの仏舎利を集め、これを独自の舎利容器に入れ、各地の寺院に納めました。特に水晶製の五輪塔に納めた仏舎利は貴重な文化財として保護されています。こうした熱心な舎利塔信仰は、やがてお墓や供養塔として各地の石塔建立の火付け役になったことはいうまでもありません。
こうした流れに期を一にして、中国より優れた石材技術が日本に伝えられます。その代表的存在が、伊行末です。彼は東大寺再建に、重源と共に尽力し、その際に彫刻された東大寺法華堂前の石灯籠は、国の重要文化財に指定されています。
彼らの伝えた技術の中で特に注目されるのは、硬石の花崗岩を加工する技術です。それまでの日本の技術では、凝灰岩などの軟石を加工できるにとどまっていたのですが、硬石の加工技術の伝来によって石材工芸の幅が飛躍的に広がりました。そして、現代のお墓は、そのほとんどが御影石などに代表される、硬石です。
重源と伊行末の時代に、現代墓地の様式の原型ができあがりつつことが見てとれるのではないでしょうか。
第十七回 「覚鑁その三」・・(平成19年7月1日)
さて、『五輪九字明秘密釈』の内容は、非常に難解とされ、中国の陰陽五行説・道教の身体観や俗信が入り交じっていて、その解明だけでも大変苦労する書物です。加えて、本文のほとんどが五輪の真言=マンダラと、阿弥陀小呪の真言=マンダラの梵字に関した微細な説明の連続のために、非常に複雑な内容となっています。
なので、その詳細な内容については、ここでは触れません。「大日=阿弥陀」「即身成仏=往生」は真言密教の教理の中では矛盾しないことである、という点が本書の主題であることは、すでに先月お話ししたように、序文で確認できますので、「五輪塔」がいかにそのことを表現しているのか、を解説していくことにします。 まず密教の最終目的が「即身成仏」であることは明確です。「即身成仏」とは「私たちがいま生きている、この身このまま(即身)」で、誰でも「成仏」できる、あるいはその可能性を持っている、ということです。では、密教ではどのようにして「即身成仏」するのでしょうか?
真言宗開祖・空海には『即身成仏義』という著作があります。この中で空海は、本来、我々すべてに、宇宙=大日如来と同じ「六大」(「体大」大日の本質)・「三密」(「用大」大日のはたらき)・「四曼」(「相大」大日の姿)が備わっているので、必ず「即身成仏」できると述べています。しかし煩悩のためにそれらを正しくとらえることができません。そこで修行して本来の姿を取り戻す必要があります。この修行を「三密」と言います。そして「三密」を正しく実践するための宇宙観が「六大」「四曼」です。
「六大」とは空海独自の教義で「五大」(地大・水大・火大・風大・空大)=「五輪」に「識大」を加えたものです。宇宙そのものの真理である大日如来と修行者は、本質的に同じであり、一体となることができる。その根拠が「六大」であるとされます。本質的に同じであるが故に、修行者は現世に於いて成仏、つまり「即身成仏」できるということになります。
その六大とは、それぞれに次のようなことを指します。
「地大」大地が一切のものを載せ、ものの拠り所となる堅固さ、安定感に満ちた性質を現す。坐禅修行者の足に当たる。ア・四角・黄色に象徴される。
「水大」一切のものを清め、爽快感を与え、ものを育成させる柔軟性があり、復元力に優れた性質を現す。坐禅者のへそに当たる。ヴァ・円・白に象徴される。
「火大」一切のものを焼き尽くす烈しさとともに、温かさを現す。坐禅者の心臓に当たる。ラ・三角・赤に象徴される。
「風大」一切のものを吹き飛ばす活動性、ダイナミックな性質を現す。坐禅者の首に当たる。カ・半月・黒に象徴される。
「空大」虚空が無限できわまりないように、底知れない包容力を現す。坐禅者の頭に当たる。キャ・宝珠・青に象徴される。
そして「識大」は、これら「五大」の性質を見る主体(つまり自分)のことを言います。
空海はこれを総合して「六大は無碍にして常に瑜伽なり」つまり「見られる五大も、見る主体の識大も区別されることなくひとつに統一されている」と言ってます。「六大」は大日如来の身体=宇宙全体であると同時に、修行者のからだでもある故に、「大日如来と修行者は本質的に同じ」であり、これこそが「即身成仏」できる根拠となります。
次に「四曼」(相大=大日の姿)とは、「大曼陀羅(諸仏・諸菩薩など諸尊の形像で現す)」「三昧耶曼陀羅(諸尊の持ち物で現す)」「法曼陀羅(諸尊の種子で現す)」「羯磨曼陀羅(諸仏菩薩の手足の動作で現す)」四種類の曼陀羅です。密教に於ける曼陀羅は、『大日経』を根拠として「五大」の世界を表現した「胎蔵界曼陀羅」と、『金剛頂経』を根拠に「識大」の世界を表現した「金剛界曼陀羅」があり、このふたつの曼陀羅を「両界曼陀羅」もしくは「両部曼陀羅」と言い、このふたつの曼陀羅一対で大日如来の世界を表現しています。
そして「三密」(用大=大日の働き)とは、「即身成仏」するための三つの修行のことです。それぞれ「身密」(「印契」手に印を結ぶ)、「口密」(口で「真言」「陀羅尼」を唱える)、「意密」(集中して「三摩地」の境地に入らせる)と呼ばれます。修行者は、本尊の前で坐禅を組み、手で印契を結び、口に真言を唱え、心を集中させて、三密をおこない、大日如来と一体にならんとします。これが「即身成仏」のための修行です。
やや長くなりましたが、これが「五輪塔」を理解するための最低限の知識です。そして、これに基づいて覚鑁は図のような「五輪塔図」を描きました。
横に五輪塔の略図を並べてみましたが、並べ較べてみてわかるように、覚鑁は五輪塔に「三密加持行」をすべて実践している修行僧の姿をなぞらえていることがはっきりと見ることができます。つまり「五輪塔とは密教の即身成仏を完成した姿」であると言えます。
具体的には、①「五輪塔」は胎蔵界・金剛界の大日如来が坐禅(三摩地)をしている姿で「意密」を示しており、それは②「水輪」の印契(「定印」)が「胎蔵界の大日」を現し、「火輪」の印契(「智拳印」)を現して、「両界不二」を示し、③同時にそれは印契によって「身密」を現し④五大の梵字(ア・ヴァ・ラ・カ・キャ)があることで「口密」を示すのです。
この「五輪塔」が石塔としてお墓に用いられ、後に「納骨器」としても使われたということは、「五輪石塔は死者の成仏」を意味していることになります。そして逆に「五輪塔に埋葬すると、あるいはお墓に建てると、死者は皆成仏できる」という展開も見えてきます。
覚鑁は、こうした理論づけをおこなっただけではなく、配下の高野聖を用いて全国に普及させました。それだけではなく、先に述べたように『五輪九字明秘密釈』にて、当時世を席巻していた浄土教の教えを密教に取り込むことでより民衆に深く浸透させることを可能にしたのです。
こうして五輪塔は、平安末期から約800年間にわたってお墓の中心的存在として建立され続けることになるのです。
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