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第三六回 「神代の物語~その10~」・・(平成21年2月1日)
スサノヲは、イザナギの命に従わず、亡くなった母の国へ行きたいと泣きわめいたため、イザナギの怒りに触れて追放されてしまいます。
スサノヲの反抗については、心理学的にもいろいろ研究されていますが、ここではスサノヲの、下記の六つの行動について、その意味を指摘します。
第一、父イザナギへの反抗は、「たま」だけの世界が異常な状態であることを告発するものであること。
第二、妣イザナミは「女」の隠喩。男神スサノヲが妣の国に行くことを渇望することは、男女の交わりによる「もの」生みの正常性への回復と、坐りの悪い「海の統治」という自らの立場の解消に繋がる。
第三、スサノヲの行動がイザナギとイザナミの「事戸い」で完全決裂したままの「もの」と「たま」の二つの次元を宇宙に内包することに繋がる。
第四、父への反抗によって、本来「たまの次元」にはなかった「ものの次元」の「第一のマイナス」をスサノヲ自らが演じることで、「たまの次元」だけの世界のバランスを修正しようとすることになる。
第五、天照と月読を抽象的な「法則」から、太陽と月という具体的なシンボルへと、質の転換を図る。
第六、父の国を追放されたスサノヲは、訪れた国々で「第二のマイナス」となる様々な試練を受ける。こうした試練が、本来の「たま」と「もの」の二元からなる宇宙に「マイナス二重構造」を再構築していくこととなる。
第五・第六について、少しばかり補足します。
父の国を追放されたスサノヲは、高天原に天照を訪ね、自らの身の潔白を訴えます。それを証明し終わると、一転して神殿にクソを撒き散らし、生き馬の皮をはいで機織小屋に投込んで機織女を殺すなど、理解に苦しむ乱暴狼藉を働きます。このため天照は、天の岩屋戸に閉じこもります。
この事件は、天照の死を象徴しますが、「ものの次元」の「葬」ではなく、「たまの次元」の「隠る」と表現されます。そして天照は「ものの次元」として再生します。再生のきっかけは、アメノウズメの命のストリップで、彼女のダンス、つまり女性器の露出に感応して岩戸から出てきたことは、「もの生み」「ものの次元」を暗示しています。同時に天の岩屋戸は、再生のための子宮を象徴しています。更にこの事件によって、昼と夜が生まれます。
さて、スサノヲは、乱行が元で、神々から爪を抜かれ髪を切られて、高天原から追放されます。このことは「たまの次元」のスサノヲの死を示します。その後「ものの次元」として「人間」に生まれ変わり、人間として出雲の国でヤマタノオロチを退治し、やがて櫛稲田ヒメと結婚して「神々」を「生み」ます。
そして今度はスサノヲの役割を大国主命が演じ、スサノヲはイザナミの代役として、黄泉の国から大国主に試練を与え、大国主の死と再生が物語られます。そこではさまざまな「穢れ」が語られます。
スサノヲの反抗とその後の行動、その結果として受けた苦難が、さまざまな「けがれ」(第一のマイナス)と「死穢」(第二のマイナス)にあたることは明白です。
スサノヲは自らの意思で、「偉大なマイナス」を実現していきますが、高天原で狼藉を演じる道化師スサノヲには、沈痛な悲しみがあったはずです。
こうしたイザナギへの反抗という「第一のマイナス」と、スサノヲの苦難という「第二のマイナス」によって、宇宙に再び「マイナスの二重構造」が構築されます。
これはもとの「もの」「たま」が揃った宇宙秩序の完成であり、「健全な肉体に健全な心が宿った」状態です。
こうして「もの」「たま」は、互いに補完しあいながら宇宙全体のバランスを保っていきます。
それは人間にとっても大変重要なことです。
日本神話のスサノヲとは、「正常な宇宙秩序の確立」を成し遂げるという「再考の宝物(プラス)」を生み出した、まことに「偉大なマイナス」であり、神話の中の「真の英雄」だったのです。そしてスサノヲが残した「正常な宇宙秩序」という「宝物」は、スサノヲの遠い子孫である現代の私達の世界に、今も生き続けています
第三五回 「神代の物語~その9~」・・(平成21年1月1日)
前号に引き続き、「偉大なマイナス」について、もう一度捉えなおしてみることにします。
偉大なマイナスとは、し尿などの「汚いもの(第一のマイナス)」と、「腐敗・腐乱(第二のマイナス)」との融合から、新たに豊かなものが生み出されるという構造です。
ところが「たまの次元」には「死体の腐乱化」(第二のマイナス)がないので、この構造にはなりません。そこで神話の祖先たちは次のように考えました。 つまり「たまの次元」と「ものの次元」の対立を包み込む宇宙全体から「偉大なマイナス」を考えるということです。
まず対立するものは「イザナギ-イザナミ」・「男-女」・「生-死」・「プラス-マイナス」です。
ところが、この図の「生-死」の対立を「たま-もの」の対立に置き換え、「イザナギ-イザナミ」の対立に置き換え、「イザナミ-イザナギ」のはたらきを入れ替えて、イザナギの世界に「第二のマイナス」を生み出していこう、というものです。
なお、宇宙全体は、存在としての「たま」と「もの」が、また空間としての「天」と「地」が、時間として「この世」と「あの世」が対立する構造になっています。
そこで祖先たちは、宇宙の二重構造によってどんな「宝物」を生み出し、何をメッセージしているのかが、最も重要な問題となります。
それら「マイナス二重構造」とその「宝物」については、「三貴子」を注意深く読み解くことによって、真の「国生み」が完成する過程で確かめることができます。
三貴子は、イザナギの世界に現れたので、具体的な「もの」ではなく、「たま」の存在です。
この場合「たま」というよりはむしろ自然界の「法則・原理」の象徴、といった方が適切です。
まず天照大神は「太陽」のシンボルで、「昼」の法則を司ります。「高天原を治める」とはそういう意味です。
月読命も同じく高天原に居ながら、こちらは「月」のシンボルで「夜」の法則を司り「夜の世界を統治」しています。
そして「海」を治めるのがスサノヲです。
以上から神話の宇宙をまとめると、空間をイザナギの「天」、イザナミの「地」、及びスサノヲの「海」に分けるのが妥当と思われます。しかしそれでは、イザナギ・イザナミと次元の違うスサノヲが少し不自然になります(スサノヲはイザナギ・イザナミの子供なので)。
なお、宇宙は「昼」と「夜」の二つの法則にしか分けられません。「昼・夜・海」と並べると、どうしてもスサノヲの「海」がしっくりきません。
つまり神話の中ではスサノヲの「坐り」が究めて悪くなっています。
宇宙は、よく一個の人間に例えられます。そして「たま」と「もの」が、「こころ」と「からだ」にあたりますが、これは「肉体と精神」や「霊と肉」、「身と心」などとワンセットで使われます。
そして「健全な肉体に健全な心が宿る」といわれるように、心と体がバランスよくワンセットになっていることを、私達は何気なく正常な状態と考えています。それは宇宙全体における「たま」と「もの」の秩序を考える場合も同じです。
ではこの点は、これまで見てきた神話ではどう表現されているのでしょうか。
神話では、黄泉津比良坂で「千引岩」を中にしてイザナミとイザナギが、互いに「永遠の決別」(永遠の決別:「事戸を度す」)をしていいます。この二神の決別によって、「たま」と「もの」は、完全に決裂したままの状態です。
その上、イザナミの死により、この世は新たに「ゆたかなもの」を生み出すことができなくなり、異常な事態に陥ったのです。
この異常な事態を打開したのがスサノヲで、父イザナギに対して、スサノヲが反抗することによって、解決されていくのです。
第三四回 「神代の物語~その8~」・・(平成20年12月1日)
先月に引き続き、今月は「たまの次元」について見ていきます。
「たまの次元」とは文化全般の中で「意識・精神」の活動によって生まれる広い意味での「思想」や「観念」で、人間の五官(目・耳・鼻・舌・皮膚)では捉えることのできないものです。
神話では、意識や精神は男神イザナギの「(男女の性交渉とは別の意味での)男性原理」の世界でできています。そしてイザナギは「天父神」的な性格を以て描かれてます。
イザナギもまたイザナミのように、あらゆる人々の精神活動の中に入って、例的な「たま」(霊魂・魂・心・脳のはたらきなど)としてそのはたらきを司り、人々のあらゆる文化的な活動を秩序だてています。イザナギもその後の神話に表立っては登場せず、汎神論的に「たま」と一体化してしまいます。
「たま」の次元では「ものの次元」と違い、男女の性交渉とは無縁の世界でできあがった精神活動ですから、生物的な生成や死滅はありません。
考え出されて様々に展開しても、ひとたび人間によって考え出された思想や観念は、決してこの世からなくならないのが最大の特徴です。仮にある時代・ある特定の地域に伝承されないことや、流行り廃り、あるいは忘れ去られることはあっても、絶対に「なくなってしまう」ことはありません。
また人々の意識や精神の中には、人間にとって正常な「よいもの」ばかりを生み出す心(「たま」)が植えつけられているだけでなく、「よこしまな」考えの元となる「禍津日神」や「悪神」が、「狭蝿如すように、どっと湧き出して万物に満ち溢れ、妖を発」すことがあります。しかしイザナギは、同時に、わざわいを起こす邪心を元の正常な秩序あるものに直すはたらきの神(直毘神・直毘霊)も、人々に植え付けました。だからいつも、人は自分の心をどちらの神にゆだねるか、が問われます。
神話の用語「うむ」「なる」の区別では、常に「なる」が使われます。
葬墓では、霊魂をお祭りする「位牌」がよい例です。ただし、お墓もこの次元から考え出されたものです。
これが神話における、イザナギとイザナミの意味する本質です。
以上から、神話においてイザナギとイザナミの二神が「たま」と「もの」の二つの次元のシンボルとして、見事に描き分けられていることがわかります。
そこで、「マイナス二重構造」の問題に戻ります。
イザナミが生んだ「もの」にはプラスとマイナスがありました。もちろんイザナギの「たまの次元」にも「禍津日神(第一のマイナス)」と「直毘神(プラス)」のように、プラスとマイナスの神が登場します。
しかしイザナギの「たまの次元」には、第一のマイナスを新たなプラスに転換させる「死の穢れ」の「偉大なマイナス(第二のマイナス)」が存在しません。
なぜなら「たまの次元」には「死」がないからです。
代わりに、本来のプラスである、「直毘神」が登場しますが、その神には「偉大なマイナス」のはたらきがありません。
とすると「たまの次元」では「マイナス二重構造」は成立せず、人々にとって「豊かなもの」を新たに生み出すことのない世界になります。
しかし私達が生きている現代の世界は「もの」と「たま」があり、しかも「偉大なマイナス」によって豊かなものを生み出しています。だから神話の祖先たちは、「たまの次元」にも「偉大なマイナス」を生み出して、私達の現代にまでも残していたに違いないのです。
では、祖先たちが神話に織り込んだ「たまの次元」の「偉大なマイナス」とはなんだったのでしょうか。
私達は、その「秘密」を「神話」の中から読み解くしかありません。そのためにもう一度「偉大なマイナス」の構造を、別な角度から考えることにします。
第三三回 「神代の物語~その7~」・・(平成20年11月1日)
記紀に表れる、最も重要な三神は、天照大神・月読命・スサノヲ命です。神々の「生まれ方」「現れ方」について、この「三貴子」の話によって、父神イザナギが神話の中でどのような意味を持つのかを探ってみましょう。
まずは、再度以下の一段を引用します。
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イザナギが左の目を洗った時に天照大神が、右の目を洗った時に月読命が、鼻を洗った時に健速須佐之男命が現れました。イザナギはたいそう喜び「私はたくさんの子を次々と得たが、最後に三人の貴い子達を得ることができた」言うと、首飾りの玉をゆらゆらと揺らしながら天照大神に与えて「おまえは高天原を治めなさい」、月読命には「おまえは夜の世界を治めなさい」、スサノヲ命には「おまえは海の世界を治めなさい」と、それぞれに任されました。みなイザナギの言いつけ通り治めましたが、スサノヲだけが背いて治めず、あごひげが胸まで伸びても泣き叫んでばかりいます。その泣き方は、青々とした山が枯れ海河が干上がるほどに激しいものでした。するとまるでハエがうるさくどっと湧き出したように悪神があたりに満ちあふれ、わざわいが起こり始めました。父神イザナギが「なぜ任せた国を治めずに泣きわめくのか?」と訊くと、スサノヲは「私は亡くなった母さんが行った妣の国、根の堅洲国へ行きたくて泣いているのです」と答えました。これを聞くとイザナギはたいそう怒り、「それならおまえはこの国にすんではならん!」と言ってスサノヲを追放しました。 *****************************************************************
イザナギとイザナギを対比してみると以下のようになります。
「女-男」
「火-水」
(火の神を生んで死亡したイザナミと川でみそぎをしたイザナギ)
「けがれ-みそぎ」
(死後の汚らわしい姿のイザナミとみそぎをするイザナギ)
「あの世-この世」(=「死-生」)
(死亡したイザナミと生き残ったイザナギ)
「もの-たま」
最後の「もの-たま」の対比とは、つまり「具体的な事象」と「観念や精神」との対比です。神話の中では、イザナギとイザナミとで生んだ神々が前者にあたり、イザナギ単独の行為で現れた神々が後者にあたります。
ですが、日本神話の構造、より深く正しく読み解く上で、大変重要な点は、「もの」と「たま」の神々が、どういう「生まれ方」「現れ方」をしたのか、その違いを確かめることにあります。
イザナミは、イザナギとまぐわうことで「もの」を生み続けました。神話では「もの」は男女の交わりによって女性から生まれます。これを仮に「ものの次元」と名づけます。「ものの次元」では、神々は「生まれ」ます。
「ものの次元」で、こうした生物や生物的なものの生死には、プラスとマイナスを交互に繰り返す、連鎖的なサイクルがあります。
お産の「産褥穢(マイナス)」によって「新たな命(プラス)」が誕生し、また「死体」の「腐敗(マイナス)」(死穢)によって、「新たな価値(プラス)」が生まれる、という交互サイクルの連続です。
一方、イザナギの「たま」は、男女の交わりがなく、イザナギの次元に神々が登場します。これを「たまの次元」と呼びます。「たまの次元」では、神々は「現れ」ます。 「たまの次元」には生物的な生と死はありません。したがって「ものの次元」のようなプラスとマイナスのサイクルはありません。曲がったもの(マイナス)を真っ直ぐ(プラス)にして、正常な秩序を回復する世界です。
ここで「ものの次元」と「たまの次元」をまとめてみましょう。
「ものの次元」とは、自然界における「物質・現象」のすべてを含み、人間の五感(目・耳・鼻・舌・皮膚)で実感することができる「もの」です。それはイザナミの「女性原理」による世界(カテゴリー・範疇)に属しています。イザナミは「大地母神」的な性格を有する存在として描かれます。イザナミは、その後、自然界のあらゆる物の中に溶け込んで、「もの」の活動を司り、自然界の秩序を保っています。
しかし、その後の神話では、表面に登場することはほとんどありません。つまり、汎神論的に「もの」と融合して一体化してしまいます。そして人々によって、自然界の秩序が乱された時、イザナミの死体に宿った八つの雷神が、様々な自然災害を起こして、警告や罰を与えると考えられます。
「ものの次元」では、常に生成と死滅を繰り返します。その活動の例は、男女の性によって生まれ死滅する、生物の世界です。しかし、自然界の無生物も、自然界の法則によって、なんらかの生成と死滅を繰り返していることに変わりはありません。また、神話の用語「うむ」「なる」の区別では、必ず「うむ」が使われます。
葬墓に関して言えば、遺体やお骨など、形のある人体に関わりますから、「お墓」のウェイトがたいへん大きなものである。と、ひとまず指摘しておくことにします。(つづく)
第三二回 「神代の物語~その6~」・・(平成20年10月1日)
次に、黄泉の国の死穢とイザナギのみそぎの話は「第二のマイナス」的な構造分析によって読み解けるどうかをみることにします。
『古事記』には大きく分けて、「もの」と「意識(観念)」の二つの世界があります。「もの」の次元と「意識(観念)」の次元、神話の用語で言えば「もの」と「たま(=霊・魂・玉:いずれも精神や意識の働き)」の二つの次元に分けられた、二元論となっています。そしてそれぞれにプラス的なものとマイナス的なものとが描き分けられています。
これまでの国生みの話は、眼(みる)・耳(聞く)・鼻(におう)・舌(あじわう)・皮膚(ふれる)の五つの器官(五感)によって具体的に感じることができる「もの」の世界(自然界)の出来事でした。ところがイザナギによる黄泉の国の死穢をみそぎはらう話になると、がらりと様相が違ってきます。心で感じ、頭で理解することや「支配」「人生」「法則」など抽象的な、いわば観念的な意識や精神に関わることに一変し、具体的な「もの」を取り上げることがなくなります。いってみると、それは「観念の世界」の物語になります。
まず「イザナギが黄泉の国でつけた死穢」がどういうものだったかを本文で見ます。
その部分は、「私はなんといやな、ずいぶんきたない国へ行っていたのだろう。私は禊をしたいと思う。」(吾は、いな・しこめ・しこめき穢き国に到り手在りけり。故、吾は、御身の禊為む)です。この短い一段は、前のイザナミの死が「火」と「けがれ」であったのに対して、いざなぎのみそぎ「水」と「きよめ」で、正反対になってます。
これはまた、「ものの次元」の「火-水」、そして「観念の次元」の「けがれ-きよめ」の二つの次元に分けることができて、それぞれがはっきり対極の関係にあることを示すところから話がはじまっています。明らかにこれは、これまでの次元とは違うことを、対立するものをならべることによって示しています。
本文は、「イザナギの体に、黄泉の国で五感で感じられる、具体的なきたないものが付着した」とは読めません。それは「もの」ではなく、イザナギが黄泉の国で「きたない」と感じた意識や印象です。いわば精神的なけがれに対するところの「嫌悪感」です。
次にイザナギは、川で禊をするため、身につけていたものを脱いで全裸になりますが、このとき脱ぎ捨てたものから、それぞれ十二の神々が現われます。
杖→衝立舟戸神(悪霊の侵入を防ぎ止める神)
帯→道之長乳歯神(長旅・人生を司る神)
嚢→時量師神(時間を司る神)
衣→和豆良比能宇斯能神(煩わしいことを司る神)
褌→道俣神(二つに分かれたものを司る神)
冠→飽グヒ之宇斯能神(罪穢れを飲み込む神)
左手の手纏→奥疎神(沖へ向かう神)
奥津那芸佐毘古神(沖から渚へ寄せる波の神)
奥津甲斐弁羅神(沖へ櫂を漕ぐ神)
右手の手纏→辺疎神(岸辺から遠ざかる神)
辺津那芸佐毘古神(岸辺から返す波の神)
辺津甲斐弁羅神(岸辺へ櫂を漕ぐ神)
これら十二の神々は、使われている漢字からも明らかに「水」と水に浮かぶ「船」に関連して、人生に船出する「人生行路」を暗示しています。そして人生も、具体的な「もの」ではなく、観念的に捉えられるものです。十二の神々それぞれについては、詳細を省きますが、これらは「もの」ではなく、明らかに観念であることを示しています。さらに、必ずしも人生にとって都合のよいことだけではなく、逆境や迷い、さらには「遠心方向」と「求心方向」を示すなど、哲学的な観念も読み取ることができます。
イザナギが川の中瀬に身を沈め、体をすすいだ時にあらわれたたくさんの禍々しい凶事を司る神が、八十禍津日神と大禍津日神です。この二神は、ひどいけがれの黄泉の国へ行ったときの穢れが元で現われました。そしてこの禍を直そうとして現われたのが、けがれと禍事を元に戻す威力のある、神直毘神と大直毘神です。
この神々の「曲-直」の対比は「マイナス-プラス」の対極であり、人生の災いと、災いで曲がったものをまっすぐな正常な状態へと回復させることを意味しています。
これを図式にすると
(マイナス)+(プラス)=(ゼロまたはプラスへ)・(正常回復へ)
となります。これは先に見た、死のけがれの「マイナス二重構造」とははっきり違っています。では、なぜこうした違いが起きるのでしょうか。
それは、イザナギとイザナミとでは、神々の「生まれ方」「現われ方」が根本的に異なるからです。これについては、次回に述べることとします。
第三一回 「神代の物語~その5~」・・(平成20年9月1日)
祖先たちは、自然界から会得した叡智を無意識のうちに神話や昔話の中に織り込んでいきました。
祖先が会得したこの叡智は、現代でも自然の中で生活する農村の人には、経験を通じて身についています。
自然界の有機物には、
生物の死→肥沃な大地→生物の生成→生物の死→…
という「自然回帰」のサイクルがあります。
だから有機栽培をしている農村の人が全図を見れば、一目でその意味が理解できるはずです。
しかし文明社会に浸かった都会の人には実感できないかもしれません。むしろ抽象的な言い方で「否定の否定は肯定」とか、「マイナス」×「マイナス」=「プラス」と書いたほうが、理解できるでしょう。
神話を作った祖先の時代は、もちろん有機農法だけですから、自然界の仕組みを知り尽くしています。そうした経験から、人間にとって本当に「豊かなもの」は、死と穢れの「マイナス二重構造」からしか生まれないことを学んでいたのです。
また、火山の爆発、風水害、地震などの天変地異には、常に死と穢れ、財産の破壊という大きな犠牲と苦痛が伴います。
しかしそれが、やがて「豊かなもの」を生み出す「犠牲」であることも、祖先たちは長い長い年月の経験から学び取っていたに違いありません。
死の穢れを避けることができなかった祖先たちは、これを正面から受け止めるしかなかったのですが、それは「死を正面から受け止めることによってしか、人は、真に豊かなものを得ることができないことや、人として生きる意味を学ぶことができない」ことを会得したのです。
神話は、そのことを現代の私たちにメッセージしている、と私は確信しています。それは「死者」から「生者」への最大の贈り物なのだ、と思います。
そのことを忘れないためにも、祖先たちは「叡智のシンボル」として「お墓」を造り、大切にお祀りした、ともいえます。
だから「第二のマイナス」の偉大さを知った祖先たちは、鄭重に死者を祀り、死者を穢れとともに埋葬した、と思われます。それは神話が伝える「日本人のお墓」の原点であり、日本人がお墓に込めた「シンボル」の意味だったのです。
こうした視点で縄文期・三内丸山の列状墓群や、弥生期・吉野ヶ里の列状甕棺墓群を見直すと、いずれも日本神話を残した祖先たちの「叡智」を見事に受け継ぎ、表現していると言えるのではないでしょうか。
『古事記』の「葬」を「死者を野山に遺棄する」という意味の「はぶる」と読む向きもありますが、これまで見てきたように「死」「穢」に対する祖先の考え方から察するに、「鄭重な祀りをして死者を葬る」という意味の、「はぶりまつる」「をさめまつる」「かくしまつる」と読むべきではないでしょうか。
もし「死穢」を単なるマイナスとして、遺棄するのみであれば、それは単なる「死穢」の排除であり、そこからはなにも生み出されません。
そして、単なる遺棄の積み重ねだけの物語は、到底「神話」と呼べる代物ではないでしょう。
第三十回 「神代の物語~その4~」・・(平成20年8月1日)
前回で取り上げた、「死」と「穢れ」について、もう少し深く読み込んでみることにしましょう。
まず、神話の「けがれ」「きたない」「こわい」「みにくい」者をマイナス的なものとします。
それらが「死」「瀕死」「死体」「死の国」などにかかわるものとしては、「火の神」、イザナミの「ヘド」「屎」「尿」、イザナギの剣先の「血」、火の神の死体の「頭」「胸」「腹」「陰」「両手」「両足」、イザナミの死体の「蛆虫」「八つの雷神」、黄泉の国の「魔女」、スサノヲに殺されたオオゲツヒメの「頭」「両目」「両耳」「鼻」「口」「陰」「尻」があります。
また、イザナギが黄泉の国の死穢を、川でみそぎしたときに生まれた、「禍の二神(八十禍津日神・大禍津日神)」もありますが、そのときできた「禍の二神」は、ここに上げたものとは次元が異なり(「生まれた」と「できた」の違い)、「三貴子(天照大神・月読命・スサノヲ命)」と同じ次元になるので、ここには含みません。
これに対してプラス的なものでは、詳細は省きますが、「食物」とその「種」「道具と製法(技術)」など、生活に欠かせないもの、生活を豊かにするものでした。
以上を以下のようにまとめます。
まず、それ自体がマイナスイメージを表しているものを「マイナス的なもの(第一のマイナス)」とします。
次に「神(人)の死」はプラスでもマイナスでもありません。いわばゼロ(0)ですが、神話では重要な役割を果たしています。
次に「瀕死・死体の腐乱」はあきらかにマイナスですから、これを「瀕死・死体の腐乱(第二のマイナス)」とします。
最後に、神話では「第一のマイナス」と「第二のマイナス」が重なり合うことから生まれる「豊かな実りや道具・技術」はプラスなので、「プラス的なもの(食物の種・道具=豊かな生活)」とします。
これまで見てきた神話では、屎尿など、それ自体がマイナス的(第一のマイナス)なものが、「死」「瀕死」、手足など「死体の一部」、「腐乱の死穢」など第二のマイナスとかさなった時に「豊かなもの」が生まれています。
日常生活では、「第一のマイナス」は、単なる「きたない」「こわい」「みにくい」「けがれた」ものに過ぎません。
しかし、死がもたらす「穢れ」という第二のマイナスがこれとかさなると、必ずそこに人々にとって大切な「豊かなもの(プラス)」が生まれています。
つまり第一のマイナスと第二のマイナスが重なることで、はじめてプラスが生まれているのです。
古代では、死体の腐乱という「穢れ」に変化することによって、はじめて「死」を確認できました。現代のような医療技術がなかった古代にあって、「死の確認」は大変重要でした。死を確認するまでは、仮死状態の可能性もあり、いつ生き返るかわかりません。『日本霊異記』や『今昔物語集』などには、仮死状態から生き返る話がたくさんあります。当時はそうしたケースが多かったものと思われます。だから、死の確認は、死体の腐乱を確認するまで待つしかなかったのです。これがいわゆる「殯(もがり)」という儀礼に残っています。
死体の腐乱が「第二のマイナス」ですが、死を確認するためには「死穢」は避けては通れなかったのです。ところが「第二のマイナス」は「第一のマイナス」を「プラス」に転換する偉大なマイナスだったのです。この第二のマイナスの偉大な働きを発見したことが、祖先たちの「叡智」であり「宝物」だったのです。
結論を先取りするなら、お墓とは、この偉大なマイナスを「はぶりまつる」シンボルだったのです。
第二九回 「神代の物語~その3~」・・(平成20年7月1日)
日本神話を注意深く読み解くと、そこには「死」と「穢れ」に関して、大変重要な特徴が浮かび上がってきます。
日常生活では避けたり排除したりする「穢れたもの」「こわいもの」など、マイナスイメージのものが、「死」や「瀕死」と重なることで、人々の生活に欠くことのできない「大切なもの」をかならず生み出しています。
いわば「マイナス」から「プラス」が生まれ、「負」が「正」に転換する、そういった特徴が見られるのです。
「死」は、遺族や集団にとって、身近な者を失う大きな悲しみであり、重大な出来事です。しかし決して「死ぬこと」自体が「穢れ」なのではありません。
ただ、死体そのものは不気味ですし、死体の腐乱が始まると、「死」は「穢れた」「恐い」「汚い」「醜い」マイナスイメージへと転化します。
そして単なる「きたないもの」と、「死体」や「瀕死」のマイナスが二重にかさなった時、人々に不可欠な大切なもの、プラスが生まれる、という話が日本神話にはいくつもあります。
このことは、日本人の「お墓」や「葬儀」を考える場合に、大変重要な意味を持ってきます。
そこでまず「死体」や「瀕死」がプラスを生み出す話をふたつ紹介しましょう。
【例1】
イザナミが火の神(火之迦具土)を生んで重病の床に伏したとき、瀕死の病身で、吐き出したヘドから金山の神(鉱山を司る男女の神)が生まれ、糞からはハニヤスの神(土器の泥を司る男女の神)、尿からは水の女神、ワクムスビの神(生産を司る神)、最後にトヨウケヒメの神(食物を司る美しい女神) が生まれました。
やがてイザナミは亡くなり、出雲に埋葬されます。
【例2】
イザナギは愛しい妻を殺した我が子、火の神を憎み、剣で首を切り、殺してしまいます。すると剣先の血が岩に飛び散り、そこから岩析の神(岩石を砕く威力のある神)と根析の神(岩根を切る威力のある神)、岩筒の神(筒状の石の神)の三神が現われました。また剣の手元の血も岩に飛び散り、こちらはミカハヤヒの神(迅速な雷の神)、ヒハヤヒの神(迅速な火花の神)、健御雷之男神(雷の男神・刀剣の神、神武東征などに登場する。)が現われます。更に、剣の柄に流れ溜まった血が指の間から漏れ落ちて、そこから谷の水神である、闇淤加美神・闇御津羽神が現われました。
また、火の神の死体の頭・胸・腹・陰・両手・両足からは、山に関する八柱の神ができました。なお、イザナギが用いた聖なる太刀を天之尾羽張 (あめのおばはり)といいます。
この二例では、瀕死のイザナミの排泄物から「製鉄に必要なもの」が生まれ、火の神の血から「製鉄過程での溶鉱や火花の様子」が描かれ、火の神の死体からは製鉄法のヒントとなったと思われる「火山噴火」を象徴する山が現われます。
この話は、三種の神器の一つ、「剣」の製法に関わる物語とも解釈できますが、それだけにはとどまりません。
岩を砕き、石を切る「石工道具」や伊勢神宮に祭られる稲作の神が現われることから、農作に必要な農具(鋤・鍬・鎌など)も想起できますし、樹木を伐るための斧やのこぎりなどの製材用の「鉄器具」など、あらゆる金属製品を連想することができます。
これらの金属製品はいずれも、人々の生活を豊かにするために欠かせない、大切な文明の利器です。歴史の教科書にも載っているように、金属器の利用は、人間文明に多大な影響を与えてきたことは明白です。
これからみな、穢れた・汚い・醜い・恐いものから生まれた、しかも「死」・「瀕死」の場面で生まれている、これはどういうことなのでしょうか。
こうした物語は、「瀕死のイザナミ」「火の神の死」に限りません。例えばスサノヲの命の「高天原追放」に際し、日本人にとってもっとも大切な「稲」をはじめ、「五穀」の起源に関する物語があります。以下に示しますが、やはりここでも「死」「穢れ」が深く関連しています。
【例3】
高天原を追放されたスサノヲは、食物を司るオオゲツヒメの神に食べ物を所望します。そこでオオゲツヒメは、鼻・口・尻から様々なおいしい食べ物を取り出し、多彩な料理にしつらえてスサノヲに供します。ところが、スサノヲはオオゲツヒメが料理しているところを覗き見してしまっていたので、「わざと汚くして自分に食べさせようとしているのだ」と怒り、オオゲツヒメを殺してしまいます。
このオオゲツヒメの死体の、頭から蚕、両目から稲種、両耳から粟、鼻からは小豆、陰からは麦、尻から大豆が生まれました。神産巣日の御祖命はこれらの穀物を高天原へ持ち帰り、「種」としました。
こうした物語は、「穢れ」が私たちの生活に欠かせない、豊穣な食べ物や生産に必要な道具・技術に元になっていることを語っています。そしてそこには必ず「死」が関わっています。
私たちの祖先が自然界において経験した多くの事象の中で、「死」と「穢れ」のかかわりによって新たな生産土壌を生み出すことに気づき、同様の事象を何度も経験した結果、祖先たち共通の知恵となっていったのでしょう。こうした知恵は数多くあったと考えられます。そしてこのような、祖先たちが多くの経験から会得した知恵は、なんらかの形で無意識のうちに神話の中に反映していたに違いないのです。
第二八回 「神代の物語~その2~」・・(平成20年6月1日)
国学院大学の上田教授は『日本神話に見る生と死』(『東洋学術研究』第27巻第2号1988)で、「我々日本人は、その祖先が自らを『神の生みの子』と自覚していた事実である。(中略)そしてこの信仰は、平安時代に編まれた『新撰姓氏録』にも継承されているのである。神と人との血縁によるつながりと信仰(中略)、これが日本人の『生』に対する態度を方向付ける上で、どれほど大きな意味を持っているかを忘れることはできない。」と述べています。
私たちは「天孫降臨」思想として、高天原の子孫が地上に降臨したのが天皇一族であり、天皇は「現人神」と、戦前まで教育されてきました。今は現人神ではありませんが、普通は、何気なく天孫降臨したのは天皇家と思っています。
しかし私たち日本人の祖先もまた「神」であった、という上田教授の「確認」は、日本人の先祖祭祀やお墓を考える上で、大変重要な意味を持っています。 例えば日本民族学の父・柳田國男は『先祖の話』などの著書に、人は死後、歳月を経て「死霊」→「祖霊」→「神霊」と変化(浄化)し、「神霊」は村の鎮守の森(神社)の氏神様の仲間入りをして、村人から定期的に祭られる、という民俗をあきらかにしています。 神霊に至る第一段階の死霊を祭る場所がお墓や仏壇であり、三十三年、あるいは五十年という長い年月の間の子孫たちによる先祖祭祀(先祖供養)によって死者は神(神霊)となる、という点は注目するべきことです。
これまで見てきたように「国生み神話」は国土だけでなく、あきらかに、この世の人や万物すべての誕生につながっています。それらはすべて、イザナギとイザナギの二柱の神によって生み出された「神の生みの子」です。 日本の国土・海・川・草木・動物・無生物ももちろん人にも、すべてに「神」の血が流れ、「神が宿る」という「汎神論」の世界です。また「八百万の神々の国」ともいわれます。
「国生み神話」を読んで気づくのは、国生みの主役は、二神ではなくむしろ「女神イザナミ」です。イザナミはこの世のあらゆるものを倦むことなく次々と生み続けています。瀕死の状態でもなお生み続ける姿は気迫すら感じさせます。 『古事記』ではイザナミの命を最後に「黄泉津大神」と名づけますが、本質は「大地母神」と読んだ方がふさわしいと感じます。 イザナミの子孫である私たちは、人が亡くなると「土に還る」という考えを持っています。イザナミは日本の「国生みの母」であり、太古の「亡き母(妣)」なので、私たちも亡くなると「妣の国」に還ることを強く望みます。この妣の大地に還るところに建つのが「お墓」です。
東京大学の丸山真男教授は、日本思想史の方法論として、日本神話から、その古層を「うむ(生む・産む)」・「なる(成る)」というキーワードで解き明かそうとしました。これは西欧の「つくる(創る)」という思想の基盤と区別されますが、日本の思想を理解する上で大変重要なキーワードです。
丸山真男『忠誠と反逆』所収の「歴史意識の『古層』」には、『古事記』に使われている、「うむ」・「なる」の違いを丹念に論及しています。 要約すると、神話には沢山の神々やものが出てきますが、イザナギとイザナミが男女の性的な交わりをして生んだ神々やものの場合は、かならず「うむ」と表現されます。 一方、高天原にはじめて登場する神々や、男神イザナギ単独の世界に登場する神々は、男女の交わりがないのでかならず「成る神」と表現されています。 本居宣長も自著『古事記伝』において「うむ」「なる」を多くの事例から詳しく考証しています。
さて、西欧の「創る」思想の代表的なものが、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のような、唯一絶対の神がこの世を創造した(『旧約聖書』創世記など)とする一神教です。一神教では、神と人は断絶した別次元なので、人は「神生みの子」ではないのが特徴です。
日本神話の汎神論は、すでに多くの学者によって指摘されているとおり、古代中国にその原型があります(福永光司「『古事記』神話と道教哲学」「『古事記』の『天地開闢』神話」など)。
『古事記』序文には、この世のはじめは無秩序な混沌とした状態で、万物の形質もはっきりとせず、名前も働きもない状態だったが、やがて天地に別れ、三柱の神があらわれ、次にイザナミ・イザナギがあらわれ、万物を生み出す祖となった、といった趣旨の記述があります。 この原型である中国の古典(『周易』など)にも、「混沌」が「陰陽」に分かれて「万物」を「造化」するという記述があります。
類似した物語ですが、中国古典においては、陰陽を擬人化した物語としては語られていません。これを哲学書と神話の違いであるといってしまえば、それまでではあるのですが、古代中国の原型を日本的な知性や固有文化によって、物語の構造を持つ思想書として作り上げたのが『古事記』であると言えるのではないでしょうか。 『古事記』を構造的に読み解くことで、我々は「日本人のお墓」の原点の意味をより深く、より正しく理解することができると思います。
また、日本神話に流れる「人は神の生みの子である」という汎神論の基盤があると、そこから派生する民俗には「死後、人は神霊となる」という死後観が生まれます。仏教が伝来して「すべての人にはみな仏と同じ本質がある」(一切衆生悉有仏性)という思想が輸入された際も、ごく自然に受け入れ、容易に身近な信仰の支えとすることが可能でした。それがやがて「人は死んだら仏様になる」という「死後成仏」の仏教民俗へと展開することになります。 これゆえに、上田教授や丸山教授があきらかにしてきた、日本の汎神論的世界観は、「日本人のお墓」を考える上で、大きな意味があるのです。
第二七回 「神代の物語~その1~」・・(平成20年5月1日)
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