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家の伝統

農民の多くは「家督」という言葉を、ほぼ「不動産」と同じ意味として理解している場合もあるが

「家督」と「不動産」は、全く同じではなく

何かモノ以外の「無形のあるもの」を一緒に相続する…という感じはあるようだ

それを言い表す言葉は、まだ生まれていないように思われるが

いつかはいい名称が生まれるのだろう

 

商人の間では、それを「暖簾」「得意」「信用」と言い

継承するものとして評価できるようになってきている

しかし、農家には、それより深い「何か」がありながら

適切な言葉がないことに対しては

私たちも、国語に対して自然に任せるのではなく

今後の課題として考えていかなければならないと思われる

 

仮に「伝統」という言葉を使って話を進めていく

(少し受身のような言葉にも感じられるが…)

「伝統」は、今存在する以上に、さまざまな角度から高めていき

次世代に伝えていくものであり

外からでも、耳と目によって存在を確かめられるものである

これは「家督」の中心ではないにしても

包むように周辺を取り囲んでいたように思われる

 

「諸道」や「職人」というものも

耕作以外の働きにより、交換して衣食住をまかなってきた

 

術芸や業務そのものに対する態度や

それを社会に役立たせようとするシステムなどを

家督の中心と考えるのがセオリーで

口伝、家伝という特別な教育法があった

 

これは土地のような「目に見える財産」の代わりに

商売などには、特に重要視されていた

 

それよりも顕著なのが

「役人」という階級だった

世襲の慣例が通っていたころは

これもまた立派な「家督」だったのである

 

土地などを相続するばかりではなく

役人や学者となって、完全な独立した家を新立することも可能であった

 

それは単に「伝授」と言い方に留まらず

受け継いできた者の意志や、子孫の理解が伴い

家門は、年代を超越した縦の結合体なのである

家督の重要性

「家督」と「分家」のことについては以前も説明したが

昔は、分け与える財産が、生産性のある田畠であることが多く

その家督を長男が継ぎ、次男、三男は分家と呼ばれていた

家督を分けてもらえば「分家」となり

仮に、家督から財産(田畠など)を継いだわけではなく

親の職業を継がずに、何もないところから財を成していく者は

「別本家」と呼ばれていたように思われる

 

ひとつの例として

ある貧しい医者の家があり

その妹が離婚して息子を連れて実家に帰ってきた

妹は亡くなったが、その息子は医者にはならず

商家に奉公して真面目によく働き

資産を蓄え、母の実家の近くで商いを始めた

商売の才能があったらしく

一代で相当の富を得て

4、5人いた子を皆、分家させることもできた

そして自分の家をあえて「本家」と呼ばせて

母の実家を本家とは呼ばなかったのである

医者の家の家督は少なく

あえて「分家」になる道理はなかったのである

いわば、この商人は「御先祖様になった」のだ

 

自分の才能を遺憾なく発揮し

自らの力で一から財を成し

独自に「御先祖様」になった者も多かった

 

親の跡を継がず

自分の力で財を成したのだから

本家・分家の間柄はもっとクールなものでもよいのではないか?

という思想が発生し、感化される者も多くなってきた

家の繋がりを割り切って考えるのだ

現代のように、親の商売を継ぐ者が昔より少ない場合は

その傾向が顕著に見られる

農業を基盤に代々生活していた家は

目に見えて明らかな家督があった

親は、自分の死後も永遠に家がつながるように計画して

次男や三男にも分け与えられるように苦労してきたのだ

 

しかし親の家督を当てにしないで

財を成したものは

家の存続や、先祖に対する感謝が薄れているように感じる

本当に自分の力のみなのか?

家督とは有形財産だけなのか?

 

一代で財を成すには

相当の才能が必要である

勤勉な性格、健康な体、優秀な頭脳などがなければ成し遂げられないことであろう

しかし、それらは先祖から受け継いだ「無形の家督」ではないだろうか?

田畠のように目に見える家督が少ない現代だからこそ

子孫と先祖を繋ぐ、遺伝子情報が自分が働くことができる「無形の家督」だと解釈し

その家督を残してくれた御先祖様に感謝して生きていくことが大切でなのではないだろうか

武家が繁栄した理由

長子相続制度があたりまえになっていた中世のころでも

親は次の子どものために分け与える土地を探し開墾していくような苦労を重ねてきた

 

中世の武蔵国(東京・神奈川・埼玉)に『武蔵七党系図』という

かなり詳しい系図が存在している

その系図を紐解くと

有力な武士の比較的長生きした人は

三戸、四戸の分家を創建していることがわかる

 

まだ若く元気なうちに隠居し

長子に嫁を迎えて本家を渡し

新たに開墾に着手するか、縁故のある田畑を引取るなどして

次男、三男以下の家を作っていったと思われる

 

「七党」というのは

七党の大きな系列が対立もしていたが

それらが入り混じり縁組をし、助け合っていたとも思われる

 

新地の開発は早いもの勝ちだった

最初から縄張りのようなものがあったわけではなく

開墾した者の所有となるのが慣わしであった

そうして少しずつ、本家から遠く離れたところまで進出していったのである

このころには未開の土地が十分にあった

それらを開拓していった親心が

田舎の繁栄を支えていったのであろう

 

しかし、いつまでも未開の地が残っているわけではなく

土地が少なくなってくると

血眼になって境を争うようなことが起こってきた

そうなると相続者以外の地位は目に見えて悪くなってきたのである

 

不平があり、野心のある若者などは

家を飛び出し、チャンスを探しに旅に出た

田舎では、娘の行き先に苦慮していたり

もう少し一門を大きくしたいと願う家も多く

京都などから出てきた者は

家柄や由緒も人に知られていたので

一段と受けが良かった

 

政治上の背景も手伝って

あっという間に、九州から東北まで勢力を広めていったのである

先祖となるものの想い

どんなに古い家系であっても

もとを辿れば、そのほとんどが当時の分家であり

誰かが新しく、その家の「御先祖様」になる家ばかりである

 

代々続いている家であっても

これこそが本物の本家だ!と断定できるのは

どこを探してもないのが普通である

 

しかし例外もあって

まれではあるが、神の杜に奉仕する家の中で

日本の歴史の始まりと思われる神武天皇以前から

代々、血統を正等に伝える家があると聞く

 

人と同じように家にも「天寿」があると言われていて

古き家が逝き、新しい家が残るのは

自然の慣わしなのかもしれないとも思われる

 

日本の歴史を見てみても

戦国時代のように

古い豪族が衰えやすい時代もあった

 

家の天寿を少しでも伸ばそうとする努力は

現代よりも、昔の方が心を配っていたことは間違いない

 

それでも親子、家族で心を合わせ

本家が弱くならないように無理をせず

そして、分家も健やかに栄えていくように考えた

だから、十分な計画が立たないうちに、それを実行に移すようなことはなかったのである

 

昔は、同じ村に分家ではない新しい一家を同族家系から出すことは

稀なことであった

驚くほど遠くに一家を創立するのは

本家への影響を考慮してのことだろう

 

昔の人々にとって「耕地」は、最も安全な財産であった

農業以外に生計を立てられるものがない地方が多かったからである

 

自分で原野を田畠に開拓した開発地主は

あまり働かなくても生活ができたが

年貢を納める作人でも

労を厭わなければ、生活には困らず

安全に子孫を育てていくこともできたのである

だからこそ「土地さえ残せば」という考えが浸透してきたのである

 

しかし「土地さえ残せば」という親の愛は大きく

本家の土地を分け与え続けると

本家が弱ってしまうので

次男以降には、自分で土地を開拓し

自分で増やした土地ならば、分け与えても問題ないだろと

年老いても、子どもに与える土地の工面に労を費やした人も多かった

 

そのような苦労から

全く別な業種に手を出す人がいたのにも

このような動機があったことは否めないだろう

今と昔の分家の違い

前回、昔の分家は隠居と呼ばれていて

家を継ぐもの以外は、学生であっても隠居と呼ばれていたことを書いたが

昔は、現代のニュアンスの分家というように

生計も家も、まったく独立したような形として解釈されていなかったのである

 

昔の隠居や部屋と呼ばれていたものは

部屋を別にするが、雨や休みの日はそこで寝起きをし

食事も簡単なものは、めいめいの炉で整えたとしても

「祝い節句」などの改まった日はもちろん

田植え、蒔き物、刈り入れ、取り入れや、味噌や漬物の仕込みなど

大きな作業のある際には、家族が主屋に集まり共同で作業を行い、食事も共にした

多人数が、食事をするような設備は主屋にしかなかったのである

 

建物は別でも、基軸となる家はひとつで

独立した生計の単位ではなかった

 

これが、日本の大家族制の特徴だったのだ

 

ところが、世の中が変わってくると

家族の考え方も変化し

「どんなに小さくても家は家」という考え方に変わってきた

 

その変化は、合理的な面もあったが

まだ、心細い点も多く

手仕事などを拡張し、賃金を払って人を雇い、体面を保つようにしていた

その結果、主屋をアテにして行ってきた行事などを簡略化することは

仕方の無い選択だったのである

 

慣習は、文字や言葉によって伝えられたものではなく

なんとなく代々行われてきたものなので

先祖に対する考え方にも変化がみられ

「よい先祖になろう」という昔の日本の誇りが

「死」を連想することから敬遠されてきて

だんだんと形式ばかりのものになっていく傾向にあった

 

昔の慣わしが良いというわけでも

現代の家族のありかたが正解というわけでもなく

人々が暮らしやすいように、幸せになるように

生活スタイルを改善していくことは、良いことである

 

しかし、理由があって行われた慣習を

改良していくためには、良き点、悪しき点をよく理解し

取り入れるもの、改善するものに振り分けなければ

我々の祖先が行ってきたことが全く無駄になってしまう

 

そのためにも歴史や、その背景を理解することが重要であり

慣習をより高め、次世代に繋ぐ努力が必要となってくる

隠居

ひとつの農家が作り高を十石より大きくしないという「きまり」は

農家の戸数が増えることを奨励するような時代でも、まだ残っていた地域もあった

 

しかし相続の問題は、そのような土地の狭い地主の間ではなく

いくらでも分け与えてもよさそうな

大地主の方がよっぽど深刻だったのである

 

このようなことは前例になると流行しやすくなり

見栄の問題などもあり

昔からのしきたりを重んじる地域では

「村内に分家は許さぬ」というふうに申し合わせた地域もある

 

家の者が「出店(でだな)」といって

別屋を建てて商売をするのはよい、とか

出店も許さないが、隠居だけは本家の別棟に建ててもよい、など

窮屈で面倒なしきたりを設けていたところも少なくない

隠居は先代の夫婦が元気でいるうちだけのことであり

亡くなれば、またもとの本家に戻るので、不都合はなかったのである

 

ところがその慣習も時代とともに内容が変わってきて

跡継ぎの長男を本家に残し

その親が、次男以下を引き連れて、相応の土地を持って分かれ

それを本家に返さずに、そのまま弟達に相続させるつもりの家を隠居と呼ぶことも多くあった

さらにまた、三男以下を引き連れて…と繰り返す親もいたのだ

そのなごりか、「インキョ」は次男のことだと思い

三男を「サンキョ」と呼ぶ地域もあった

親に付いてくる子が皆「隠居」だったわけだから

学生でありながら「隠居」と呼ぶ場合もあるのは、現代の隠居の意味と

かなりニュアンスが違ってくる

 

このようなことから「分家」を全て「隠居」と呼び

そこに年寄りがいるかいなかに関わらず、そう呼ぶことは珍しいことではなかった

 

つまり「隠居」以外で、村内で家を二つにすることを許さなかった名残がそこにはあるのである

二種類の分家

日本の「家族制度」は、約300年以上に渡って

二種類の主義が存在している。

 

「長子家督法」と、「分割相続法」だ。

 

「長子家督法」とは、家の幹を太く強くしようとする考えで、家を継ぐもの(ほとんどがその家の長男)が特別の待遇を受け、家の力を保つ方法。

 

「分割相続法」とは、どの子にも幸せになってもらいたいと、ほぼ平等に相続させる方法である。

 

 

時代背景や、その土地柄、考え方によりどちらかを選択することになるのだが

やはり、双方共にメリット、デメリットが存在している。

 

現代の考え方からいくと「分割相続法」が良い選択のようにも思われるが

歴史の中では、一概にそうとも言えない時代もある。

 

戦国時代から江戸時代にかけて

軍隊を領主が自分の土地から召集する場合などには

家をしっかりと保つ「長子家督法」が適当であったと思われる。

 

家が一番弱る原因として、農作物の収量の減少が大きく

これでは多くの人を養うことができない

平等にしたのでは、みんな飢え死にしてしまうからだ

いざ召集しようとしたら、誰もいないでは話にならない

 

このように

家を継ぐもの以外の人間には辛抱してもらい

家を維持する必要があった時代もある

 

 

そう考えると

兵の召集の必要がない現代では

「長子家督法」のメリットがないように思われるが

それでも「長子家督法」を続ける地域がある背景には

 

・御先祖様に申し訳ない

・今までの慣わしを省くことで、なにかと噂になってしまう

 

と、いった原因が考えられる。

 

家が衰えかかった前触れではないかと噂されるのを避けるため

旧家や門閥(良い家柄)では、この分家の問題には慎重に考えざるを得ないのである。

家の初代~御先祖になる~

その家の初代とは、知りうる限り一番古い血統-

との解釈もあるが

すばらしく業績を残した故人に対し、子孫が代々祭っていくことに決め

その人を「家の初代」と呼ぶことはめずらしいことではない

 

例えば家の次男か三男で、本来であれば家を継ぐ人間ではないのに

何かのめぐり合わせで大名に取り立てられ、勤めを果たし

結果として、相当の禄(給与)を受けた人物であった場合に

その者を家の初代として代々祭っていく場合などである

 

その場合、その親-つまり「御先祖」と呼ばれる人物の親は代数から消えるわけではなく

過去帳にも、その親の名は残り続けるわけで

お盆に帰ってくる「ほとけ様」の一人にはかわりはない

 

そのようなことから

昔は、「この子は、御先祖様になる素質がある」

などという、現代から考えると少し不謹慎な感もある言葉が存在していた

これは『死んでしまう』という意味ではなく

先に書いた、立派な業績を残し「家の初代」となりうる大物の素質があるという褒め言葉なのである

順番から言えば家の次期当主に決定しているものに使用されることはなく

次男以降の、本来であれば当主になる者ではないが

新しく家を成し、当主となる可能性の高い者に使われていた

 

そして、この言葉は度々本人の目標として発せられる場合もあった

 

「私は、御先祖様になりたい」-

 

御先祖様にするかどうかは、その人の死後

子孫達が「立派な人なので、この人を初代として代々祭っていこう」と決めることなので

死んだ後までの目標を掲げて生きていく生き方は

現世の欲に目標を設定しがちな私達には見習うべき心がけのようにも思われる

「先祖」についての解釈

「先祖」と、聞いて人々は何を思うであろうか?

自分の血をたどった一番古いと思われる人

もしくは、その家が代々祭るべき系列であろうか?

 

日本は、古くからこの両者の少しニュアンスの違う解釈を受け入れ、言葉を使用してきたように思われる。

 

江戸時代徳川家は、途中養子で繋ぎながら続いてきた家系であることは、周知の事実である。しかし、その養子も元をたどれば、徳川家康が多くの子を成し、尾張、紀伊、水戸家を作り上げていった子孫。血の濃さにこだわらず、徳川の「名」を残すことで長く反映させていく仕組みを作り上げたのだ。

 

徳川家が先祖を祭るとは

その家の名を繋げてきた人々を祭ること

あくまでも直系をたどる作業ではないことが伺える。

家を代々守ることは、その家のならわしを繋ぐこと。伝統を引き継ぎ、より高めて次世代へと繋いでいくこと。

 

自分に現在起こっていることを「先祖」に感謝する機会には

「血」はもちろん、家の「ならわし」も、自分の中にあることを感じ

双方に感謝を示すことも損ではないのではないだろうか。

第四七回 「墓石の原点~その10~」・・(平成22年1月1日)

日本神話が物語るお墓の意味④

 さて、再び「千引石」に話を戻します。
 千引石は今日にいたるまで、日本人のお墓の形状に決定的な「概念」を植えつけた、と考えられます。
 コンセプトや概念という言葉は、便利な割にいまひとつその意味がつかみにくい言葉ではありますが、ふつう「お墓の概念」と言えば、「多くのお墓に共通する(本質的な・基本的な)特徴や考え」となります。とにかく「日本人のお墓の形状に共通するもの」は、千引石によってその基本的な考え方がほぼ決まった、と思われます。
 それは先に述べた「生きているときの痕跡をお墓の形状に持ち込まない・残さない」ということです。

 千引石は自然石ですが、自然そのままの姿の石(岩・磐など)は、神話の祖先たちが「石の霊力」発見した最初のものできた。
 そして「事戸を度し」た瞬間から死者は生きた人間と異なる他界(あの世)に属する者となります。つまり「千引石」の「道反」や「塞ぎる」の霊力によって、この世とは厳格に異なった世界に所属する者となった以上、そこは生きた人間は入り込む余地がありません。
 このような意味の「シンボル」であれば当然、日本人のお墓の形状は、抽象的な一定の共通性を持って作られるようになるはずです。しかしだからといってお墓の形状がいつの時代にも同じ、というものではありません。お墓の形状は時代によって意味や価値が異なるに伴って、流行り廃れがあり、さまざまに変化します。
 つまり、千引石は「お墓の形状」を決定付けたのではなく、「お墓の形状の考え方」を日本人に方向付けたのです。 

 ところが江戸時代末期から、墓石の中心となる棹石正面の上段に「家紋」を入れるようになりました。本来ここには本尊仏のシンボル「種子(梵字・古代サンスクリット文字)」を入れます。それが武家の家紋や商家の商標を墓石に堂々と入れるようになったのです。
 少し大げさに表現すると、これは日本のお墓文化史の一大事件で、大変な変化です。家紋というこの世の「生」そのものをお墓の世界まで持ち込むようになったからです。
 「戒名(法名)」は生前の本名がほとんど残りません。そして「俗名」は棹石の側面に刻字されます。これは西洋の本名(姓と名)の間に入れる「クリスチャンネーム(洗礼名)」と較べて大きな違いがあります。
 「戒名」までは、イザナミ神話以来の伝統が続いていた、とみなされますが、家紋を墓石のもっとも大切な位置に入れるとなると、問題の本質が根底からひっくり返ってしまいます。つまり、千引石以来のお墓の形状「シンボル」の意味が、まったく違う次元へ移った(転換した)のです。
 もっと大げさに言うなら、明治維新のとき、アジア諸国の中で唯一西洋化に成功した日本の、国民の文化意識の変化が江戸時代のこのころすでに起きており、その兆候はお墓(墓石の家紋)に認められる、と言うこともできます
。 それくらい大きな文化意識の変化が江戸時代にあったのです。こうした時代に本居宣長が日本固有の文化を『古事記』の中に求めてその注釈書『古事記伝』を著したり、『源氏物語』によって「もののあわれ」を掘り起こそうとしたのも必然のことでした。決して偶然ではなかったのです。

  さて現代には、イザナミ神話・千引石の「お墓の形状コンセプト」は生きているのでしょうか。
 もちろん圧倒的な強さで生きています。それは墓地でいわゆる「ニューデザイン墓」と従来型のお墓の比率を見較べるとわかります。
 しかし確実に大きな変化もあります。ぴかぴかに磨かれた墓石の登場です。単に人工ダイヤモンドの開発によって墓石加工技術が大きく変化した、というだけでなく、これは意識の変化であって「石の自然性」を全面的に拒否しようとした形状です。現代的な効率性(墓石の手入れが簡単で、増産効率を高めること)から生み出された「文化」的なシンボルを意味しています。

 お墓とは「自然と文化のせめぎあいの中で、ちょうどその中間に位置するもの」と前に述べましたが、江戸後期から現代までのお墓は、明らかに「文化」のほうへ大きく引き寄せられた位置にある、と言えます。

 それは、千引石が自然石なのは加工技術の問題ではなく、「自然」性を強く残す「死」の問題に起因しています。
 日本人はアジア(特に中国・朝鮮半島)に普及した「自然型」の大地をシンボルとする「土饅頭型」のお墓でなく、「自然石型」のお墓、つまり「石」をお墓のシンボルとして選択したときに、お墓の形状コンセプトが確立されていました。
 ところが現代の日本人は素材の「石」は残しましたが、江戸時代の変化をそのまま受け継いで、「文化型」の墓石に変化させています。

 そのことは現代の墓地に五六分もいるとすぐわかります。
 つまり異様にぴかぴかに磨かれた墓石が林立する墓地では、なぜか「落ち着かない」、「見飽きる」、「人を拒否する」のです。
 なぜでしょうか。
 それは、現代の墓地に「自然」がないからです。どんなに花や樹木を植えて手入れが行き届いていても、いや、そうであればあるほど人工的(文化的)なニオイがして、人の心を落ち着かせない(拒否されてしまう)のです。
 千引石が「墓石の形状の原点だ」というのは、「自然性」を強く残すことにその「本質」があったのです。

 そこで「自然性のある墓石」とは、自然の石が本来持っている五つの点を表現しているお墓に尽きるのではないでしょうか。それは下記の五点です。

 ①シンプルであること
 ②力強さがあること
 ③おおらかであること
 ④見飽きないこと
 ⑤抽象的で生前の痕跡を残さないこと

 これが日本人のお墓の形状コンセプトの原点となった「千引石」の意味であり、本質であると思います。
 それは「自然を拒否する文化」ではなく「自然を生かす文化」でもある、ともいえます。
 自然の持つ「すばらしさ」を最大限に生かすことによって、人々の心に「畏敬」と「安らぎ」を与え、「自然に溶け込む」「深い味わい」のある墓石になるのではないでしょうか。
 それは神話の祖先から営々と受け継がれた「石工職人」のみに許された、自然の石に手を加える「匠の技術」の結晶であり、日本人のお墓文化です。
 しかし私は、墓石の「優劣」や「良し悪し」を言ってるのではありません。日本人の墓石の形状の原点とその本質が何であったのか、を確認しているだけです。
 ただ神話依頼の祖先の「石大工」たちはきっと、自然の素材の石に、機械の精密さではなく、自然を生かす方法で「手を加え」ながら墓石を作ってきたのだろうと思われるのです。
 それが伝統的な日本の「石大工」や「石工」といわれる「職人のいのち」であり「職人のたましい」だったのではないでしょうか。
 これは、異業種から突然、墓石業界に参入した「経営者」や「営業マン集団」には絶対に真似ができないもので、石工職人の「宝物」であることは紛れもない事実です。
 この「宝物」はまた、他の国では真似のできない日本の自然風土と精神風土が培ってきたもの、と私は確信しています。
 そして、ぜひこれだけは日本人が残しておかねば、やがて「日本のお墓文化死んでしまう」と痛切に危機感を抱いています。

 神話は、こうしたさまざまな「叡智」を現代の私たちに伝え、メッセージしている日本人の「宝物」なのです。

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