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御先祖様に感謝する

「御先祖様のおかげです」

という言葉を最近聞かなくなってきた

 

ジェネレーションギャップという言葉を軽々しく使いたくはないが

そう言わざるをえないだろう

 

しっかりとした統計を取ったわけではないが

「御先祖様」という言葉を口に出すのは

70歳代以降の人に多いように感じられる

昭和20年以降に生まれた人たちから

御先祖様に対する感謝の言葉を口にする人が少なくなっているようだ

 

この年代の人たちは、ご存知のように団塊の世代と呼ばれ

戦後の日本の経済復興の中心的世代であり

高度経済成長期を支え、寝食を忘れて働いていてくれた人たちだ

 

日本は、この急激な高度経済成長の波の中に入り

物質至上主義…物が豊かさの象徴であった時代を経て現代に至っている

 

目に見えるものだけを信じ

科学的、物理的な理論が価値観の全てのような錯覚に陥る…

 

そんな中では、御先祖様のように目に見えず

役に立っているのか?立っていないのか?わからないようなものに対して感謝することに違和感があるのかもしれない

自分の幸せが御先祖様の徳のおかげである…など

オカルト的な発想のように解釈されてしまう傾向もある

 

その御先祖様の徳が、自分にどのような影響をもたらしているのか

証拠もなければ、根拠もない

 

物質至上主義の世の中では

それを手に入れるためのお金の損得が価値観の全てになるような考え方は

一部の人に限られたものとも言い切れないのかもしれない

 

昔の人は、自分の身に幸福なことが起ると

「ありがたい、御先祖様のおかげだ…」と

ところかまわず、手を合わせている人がいた

 

この感謝の意を表現するには

必ず心が無ければ成り立たないことなので

現代は、御先祖様に感謝する心が消えてしまっているのかもしれない

 

私自身は、団塊ジュニアと呼ばれる世代

御先祖様に日常的に感謝をする風習がない

私の両親が言っているのも聞いたことがない

祖父母はよく言っていたのを記憶している

孫達が集まった時に

「みんなこんなに元気な顔を見せてくれて、御先祖様に感謝しなくちゃね~」と

 

「御先祖様に感謝する」「立派な御先祖様になる」

などの言葉は、日本の素晴しき伝統であると思う

御先祖様に感謝することは

大きく捉えると、全人類、生命や地球、宇宙そのものの存在に感謝できる

とても壮大で、器量の大きな行為であると思う

 

口に出す気恥ずかしさはあるかもしれないが

今一度、御先祖様に感謝する風習を取り戻してもいいのではないだろうか?

宗教行事の矛盾

一般的に「神道」という言葉はよく使われている

しかし、その詳しい内容について語れる人は少ないのではないだろうか?

それもそのはず、この「神道」という言葉には

多くのニュアンスが含まれ、人によって、その場面によって

言葉の意味が変わってくるのである

 

大きく解釈して「日本の伝統的な民族宗教」を呼ぶ一つとして定着している感じがある

しかしその概念はかなり曖昧なものとなっている

 

人によっては、「古代日本の神々に対する信仰である」と言い

また、ある人によっては明治維新に始まった「国家神道」を思い浮かべる人もいる

 

また、そのような解釈ではなく

「神道」を「仏教」「儒教」「道教」「キリスト教」などと並べて

一つの単独の宗教として位置づけようとする概念があった

 

しかし、みなさんもご存知のように

日本の宗教というものは

さまざまな宗教の概念が複雑に入り乱れていて

その宗教にしても単独で説明をすることは不可能である

行事によって、取り入れる宗教も概念も目的も違えば

その宗教自体の最終目的や教えは日常に反映しにくいのも事実である

 

神道は、とくに仏教との関わりが深く習合しており

神仏習合という現象をもたらしている

神、仏、菩薩が、まるで一セットのように扱われ

厳密な違いを語れる人も少ないだろう

宗教の習合だけではなく

一人の人間が複数の宗教を信仰する(日常に取り入れる)形態もみられ

このような現象をシンクレティズムと呼ぶ

 

近年は、このような日本の宗教におけるシンクレティズムをふまえた「神道」の研究が盛んに行なわれており

新しい神道論を展開している

現代では、またさらに様相が変化してきていて

葬儀には仏教、結婚式にはキリスト教会や神前で行なう…といった

シンクレティズムが当然のように蔓延している

 

宗教とは、ざっくりした解釈をすれば「真理の追究」だと思われる

自分の中に見出すことができていない真理を宗教によって学び

人生をより有意義に、そして学びが多く自己成長を実現し、それを次世代に繋いでいく…

その過程における人生の大切な節目に、己が信仰する宗教の価値観に則りながら執り行ない、価値を改めて認識するようになっている

 

しかし、一人の人間の中に宗教のシンクレティズムが発生してしまうと

価値や教えの整合性が取れなくなり

結果として、表面的な模倣だけが行なわれることとなる

それは、もはや「真理の追究」ではなくパフォーマンスと言っていいだろう

パフォーマンスは、信仰ではなく自己表現…すなわち「我欲の追求」という、どの宗教でも否定しがちな矛盾が生じることとなる

 

宗教のシンクレティズムがあることは否定しない

人類はそうやって、自分の生活様式や、その土地に合わせて習合させ、変化させてきたのだから

しかし、それはあくまでも理念を理解してのことである

パフォーマンス的な模倣をするならば、教えに対しても理解する努力が必要だろう

そうなれば、それはパフォーマンスではなく儀式となり

その人の人生の大きな支えとなるはずである

「仏教」について

お墓を語る上で、外すことのできない事柄が宗教である

それぞれ宗教によって教えが違う…ということは

死生観も違ってきて

当然、そのお墓に対する考え方も変化してくる

 

日本は、仏教に沿って葬儀を行う場合が多い

仏教徒が多い…というよりは、自分の先祖にならって

そのまま、仏教式の葬儀を取り入れている家族が多いのではないだろうか?

日本人は、柔軟な思考の持ち主なのか…葬儀は仏教式で、結婚式は教会で牧師の前で契約を行なう人も少なくない

これは、日常的に宗教観を取り入れて生活している…というより

人生の節目には、宗教的な形を必要とする場合が多いので

その時に合わせて臨機応変に対応しているのだろう

 

しかし、宗教観というものを深く追求していけば

自分の生き方を、その宗教観に沿わせる形になるので

日常の中で無視しながら生きていくことは難しいだろう

 

日本人の多くが葬儀で取り入れている仏教にしても

(あえて、信仰しているという言葉は控える)

ひとくくりにできないほど、複雑な様相である

 

では、仏教の教え…すなわち、最終目的はどこにあるのかご存知だろうか?

仏教とは「仏と成ること」「成仏すること」を最終目的とする宗教である

人間の苦しみから解放されて、完全なやすらぎの「さとり」を得た人のことを、「仏」「ブッタ」「覚者」「如来」などと言うが

お釈迦様が目指したのは、この「さとり」を得た「仏」となることであった

 

この2500年前にお釈迦様によって説かれた宗教は

長い年月と、広い地域に広まったこともあり

解釈が変化し、宗派に分かれ、多種多様な解釈が世界に存在している

その時の社会情勢によって変化し

また、その時代の都合に合わせても変化して

自分達の解釈が正統派であると主張する宗派が数多く存在するので

同じ仏教と言っても、全く違ったものになっているのである

細かい歴史的背景の解説は別の機会にして

自分の宗派に対する教えや解釈、その歴史的背景を理解することをおすすめする

そうすると家族や親族の葬儀に望む姿勢も少し変わってくるだろう

「けがれ」と「死」がもたらす恵み

以前、「死」が「けがれ」や「不吉」なものとして捉えられ

敬遠するようになったのは、最近の情報操作が原因ではないか?と書いたが

生活の中で敬遠しがちな、その「けがれ」は、新しいものを生み出す力として解釈されていたようだ

確かに「死」=「けがれ」「きたない」「こわい」

などのマイナスイメージは否めない

しかし、この死というものは

命あるもの…細胞の活動により、その形を保つものに関しては

避けて通ることのできない、必ず経験するものである

死は、細胞の機能停止により、その個体としての役割を終え

時の経過とともに腐敗していく

しかし、その腐敗活動は、新しい個体への生まれ変わりである

原子的な解釈では、地球全体として質量保存の法則が成り立つと考えると

その細胞は分解され(腐敗し)別なものへと生まれ変わり

その作業を半永久的に繰り返しているのが

地球上の生命体だ

その「死」は、新しいものの誕生への序章と考えることは

昔からあったようで

「古事記」を読み解くと

「死」ばかりではなく、排泄物のような「汚い」ものさえも

人々の生活に欠かせないものへの生まれ変わりとして描かれている

その考えは、単純に「けがれ」から「必需品」への生まれ変わりではなく

もっと高度な構造を持った哲学的な考えをもとに

多くの経験から会得した信憑性の高い論理となっている

そのように、先祖が多くの経験から会得した「死」に対する解釈を理解しないことには

現代、行なわれている「お墓」や「お葬式」の概念を

表面的にしか捉えられない可能性がある

今一度、本当の意味での「死」の迎え方を考えてみる必要があるのかもしれない

徳を積む

高齢者の方と話をしていると

たまに、こんな話を聞く

「私はとても幸せな人生でした。御先祖様がどれほど徳を積んで下さったのかと思うと、本当に感謝しなければなりません」と

 

最近は、この「徳」「不徳」を聞くことが少ない

「徳を積む」という概念そのものが無いのかもしれない

 

では、いったい「徳」とは何であろうか?

 

一般的には、良い行いのことを指していると思われる

 

では、どうして御先祖様が徳を積むと

その子孫が幸せになれるのか?

 

「徳」「不徳」は、貯金のように貯めることができると考えられてきた

良い行いをすれば、その分幸せになり

その人の人生で使いきれなかったほどの「徳」は、その子孫が受け取れるとされてきた

 

だから、良い行いをたくさんしてきた御先祖様の子孫は

幸せの恩恵を受け取ることができる

 

逆に「不徳」を積んだ場合は

その子孫が、その不徳の後始末を強いられることとなり

自分の悪い行いを、自分の代で浄化しきれないと

その子や孫が、不幸な思いをするのだ

 

この考え方の前では

自分さえ良ければそれでいい…というエゴイズムは通用しないことになる

 

そして、自分の子孫に幸せになってもらいたい…という思いが

その行動に緊張感を持たせる

 

ヨガの教えでも「功徳を積む」とか「カルマ(業)の法則」などの言葉があり

行いが貯まる…という意味で解釈されている

 

インドのヨガの教えは

日本の「御先祖様の徳」と少し意味合いが違い

輪廻転生が信じられているので

次の世でも引き継がれる…と考えられている

 

ほかの国でも似たような考え方や教えがあり

信じるか、信じないか…という話は別にして

この「徳」の考え方は、潜在意識に刷り込まれている

人類共通の認識なのかもしれない

 

信じないからと不徳を重ねて

本当に自分や、子孫に返ってきた時に後悔するよりは

徳を積み、自分の来世や、子孫が幸せであるように願う方が

どちらにしても得なのかもしれない

古墳時代のお墓についての、現代人の認識

古墳時代の研究は、考古学者にとって大変魅力的なものなのだろう

さまざまな制約を考慮したとしても

やはり考古学者の関心は、庶民の墓よりも、天皇や首長といった支配者の墳墓に向いているようだ

 

そのせいなのか、マスコミの報道のありかたなのだろうか

「庶民は墓を作っていない」という暗黙の刷り込みがなされているように思う

墓は、エライ人だけに許された特権のように…

 

民俗学者の中には

日本人は死体を「汚い」「怖い」ものと考えて、お墓を作らずに野山に捨てていたと考える人もいる

 

はたしてそうなのであろうか?

 

日本の歴史や、神話を紐解いてみても

日本人の死生観は、死者に対する尊敬と感謝で満ち溢れているようにも感じる

 

季節毎の行事で死者を祭り

身近な存在として、日頃の幸福を先祖に感謝し

自分の身の存在を先祖に投影することが自然に行なわれてきたようだ

 

この日本人の本来持っている

先祖に対する崇拝する気持ちが

「穢れ」のように解釈されてしまうのには、マスコミの報道の仕方にもひとつの原因があるように思われる

 

夏に行なわれる心霊特集

ホラーの漫画や映画などでスリルと恐怖心を味わうなど

死者に対して「汚い」「怖い」というイメージを刷り込ませてしまっているのではないか?

 

このように死者を冒涜し、ないがしろにすることは

自分自身の存在否定にもなりかねない

 

「怖い」存在から、本来の「尊ぶ」存在へと認識を変化させることで

日本人が本来持っている、人間の「和」の心が浮き彫りになってくるように思われる

法要

先日、祖母の一周忌が行なわれた

 

私の父は喪主であるため

両親は法要を取り仕切ることとなる

とても学びの多いものとなり

両親には感謝している

 

「法要」の本来の意味は

釈迦の教えを知ることである

 

現在の日本は

供養のことを表し

死者を弔う儀式全般を「法要」と呼ぶが

そちらは本来「追善供養」または、「追善法要」と呼ばれている

 

どこの家でもそうであると思うが

家族の死をきっかけに

疎遠ぎみの家族が揃い

法要をきっかけに、往来が頻繁となり

家族の大切さなどに気づかされたり

先祖を知る機会になったりもする

 

うちも例外ではなく

祖母の死をきっかけとして

20年ぶりに叔母と再会し

一周忌、三周忌があり

3年連続で会う機会をいただいた

 

これはまぎれもなく

祖母の死がなければ

無かったことであり

法要があることによって

親戚の交流が深まり

新しいキッカケが生まれるのである

 

故人も自分の死をきっかけに

家族がそろい

命が繋がっている様子を確認できることは

喜ばしいことなのであろう

 

故人を偲び

葬儀の時では、話せなかった話をし

自分の遺伝子の確認をして

自分の存在を先祖に感謝することにより

日々、心穏やかに日常を送ることができるのかもしれない

 

小学生の女の子が言った

「どうして、何度もお参りをするの?」

 

子どもにしてみれば

無駄な作業に思われる法要も

親族が集い、個々に何かしらの学びはあるならば

本来の意味での「法要」と言えるのかもしれない

真理か?潜在意識か?~神話の中の死生観~

死生観については、古今東西、さまざまな形で語られている

そのひとつとして「神話」というものがある

 

日本の神話で具体的に死後の政界をえがいているのは

「黄泉の国」のイザナギ(男神)・イザナミ(女神)の話だけだが

神話の中の話とはいえ、このストーリーは長い間、日本人の死生観に大きな影響を与えている

 

多くの人々は、神話の中の話は歴史的な事実ではなく

「作り話」や「おとぎばなし」と思っているようだが

それは大きな誤解だ

 

まず、神話の信憑性の論議の前に

この神話の数々は

人が長年にわたって経験から得た叡智や

人類の根源的な偉大な知恵が

さまざまな形のドラマとして伝えられ

メッセージ、または教訓として伝えられている

 

そして、自分の知恵だけでは解決が困難に思われる危機に直面した時

祖先の神話を思い出し、乗り越えてきたのだ

 

これらの神話を単なる物語としてだけでなく

価値を正しく見出し、現代に解明したのが

心理学者のユングなどだ

 

神話は、日常ではない非現実的なストーリーが展開されるが

それは、潜在意識(無意識)の世界が現れたものだと提唱したのだ

 

人の行動は、意識していることよりも

潜在意識がその主導権を握っていることが

最近、語られていることだが

 

神話は、その潜在意識を物語として表現したものだと考えられている

そのいきさつに関しては細かい講義が必要だが

ざっくりと説明すると

 

神話が、世界各地で共通する内容が多いことがあげられる

 

その昔、民族同士の行き来が不可能であった時代から

人は、神話の中で同じような神話を展開しているのだ

 

それは、なぜか?

 

人間の先祖の遺伝子の中にその情報が組み込まれていて

それが潜在意識として残り

神話の中で表現され

世界各地で似た様なストーリーが展開したのではないか?というのがユングらの見解である

 

それは真理なのか?人類共通の願いなのか?

 

見えるものだけで簡単に語れないのが「死生観」なのである

日本人の死生観

現代、人は死んだらどうなるのか?

という議論を日常的に活発的に交わされることは、あまりないが

この「死生観」は、生き方にも関わってくる考え方であることは間違いない

 

死んだらどうなるのか?

人それぞれ

宗教、人種、個々によっても変わってくるだろうが

この考えの源が、墓のありかたも左右する

 

人は死んだら「無」である

とい考え方は、科学至上主義の考え方に多く

慣習的に墓参りをするが

「死」を不謹慎…もしくは「けがれ」と考え

墓地に近づくことも、何か気味の悪いこと…と捉えがちになる

 

元検事総長の伊藤栄樹氏の著書に

「人は死ねばゴミになる」というものがある

内容は、人は死んだらおしまいだから

精一杯、生きていこう!という応援メッセージであるが

どこか先祖とのつながりを感じにくいタイトルである

 

本来、日本人にとって死者は身近な存在であった

縄文時代の遺跡などを調べていくと

人々が、先祖を日常の中にみいだし

墓も、遠くではなく

日常的に使用される道沿いにあったと思われる

はっきりした証拠があるわけえはないが

この時代の墓参りは

遠くの墓場に、盆や彼岸に行く年中行事ではなく

生活の一部として、共に生活していたのではないか?と考えられる

 

それも、小さな家族単位での弔いではなく

部落単位で、死者を弔い

死者を生きている人と同じように親しみを持った存在として

あるいはそれ以上の存在として大切にしてきたのではないかと思われる

垣間見えるものだけでも

死者を「きたない・こわい・たたる」などと考えていないことがわかる

ましてや「無」として捉えていることはまずなかったであろう

 

死者を「無」と捉えることは

先祖または他者への感謝が薄れ

個人主義に偏る可能性がある

 

先祖の存在を己の中に見ることで

生きている人同士のつながりだけではなく

過去の人類とのつながりを感じるはずである

 

過去を感じることは

自分の子孫、すなわち未来を感じ願うことにつながる

 

その感じる心の象徴が「墓」なのではないだろうか?

「墓」と「死」の解釈

前回、墓はシンボル(象徴)であると説明した

 

墓は、人の死後に祀られるシンボルであるから

その「死」に対する考え方が関わってくることは当然のことである

 

人が…その民族が、「死」に対してどう考えているかによって

墓の取り扱われ方も変わってくる

 

「死」に対して考えられる内容には以下のものがあると思われる

 

●     人が亡くなるとは、どういうことか?

●     人の死を、どう考えたか?

●     人は亡くなると、どうなるのか?

●     死後はどこへ行くのか?

●     あの世はあるのか?

 

大きく分けて、このような課題が語られるのではないだろうか?

 

これがわかっていないと

墓のありかた自体が曖昧になってしまう

 

一般的にこれを「死生観」「死後観」「霊魂観」「他界観」などと呼ばれている

 

これは人々が何千年もの長い年月をかけて

先祖代々、大自然から学んだものであり

先祖の偉大な智慧から生み出されたものである

 

それは、多くの人々によって育まれて、受け継がれてきた

民族の宗教観である

 

これは「民族宗教」といってもよいだろう

 

この民族宗教は、先に述べたように

自然から学び、智慧を集めたものだが

そこにさらに、外来の宗教と結びつき

新たなものが付け加えられたり

アレンジされたりして

さまざまな価値観が発生していったのである

 

この民族(民族宗教)が違えば

当然、葬儀の方法、墓のつくり、埋葬方法などが変わってくる

 

それぞれの民族によって

死の意味が違えば、当然その方法も違ってくる

 

逆に言えば

その意味を知らずに一連の儀式を執り行なうことは

表面的、事務的になってしまい

心の入らないものになってしまう

 

なぜこの儀式を執り行なうのか?

そこには何の意味があるのか?

を考え、学ぶことにより

心を入れて儀式を行なえるだけではなく

基軸を理解できるので

都合により変更を余儀なくされる場合でも

その民族の常識を大きく脱することはないはずだ

 

例えば、イスラム教では

「火葬は神を冒涜する」

と考えられているので土葬にする

そして霊魂は埋葬した翌日に体から抜け出ると考えられているので

土葬は簡単にし、顔を聖地メッカに向け右側臥位にする

三日間、喪に服したあとは日常に戻り、墓を作ることもない

 

このように、民族、宗教によって

死後の考えが違うので

よく理解し、儀式を行なうことで

自分のルーツを知る良き機会となることだろう

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