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真理が変化する理由
- 2013-01-15 (火)
- 仏教について
世界には様々な宗教が存在する
宗教には多くの種類が存在するために
その数だけ真理が存在するように錯覚する
しかし、真理とは絶対無二の存在であるから
本当は、一つしか存在しないはずなのである
よくよく調べていくと
大きな宗教では、源流は一つのような感じもする
その大きな流れから、無数に枝分かれして
とうとう、その存在自体の真逆の解釈まで発生してくる
なぜ、そのようなことが起こるのだろうか?
仏教やチベット密教の起源をたどると
かなり厳しい修行や、功徳と積み上げなどが要求されていて
それをかなり高いレベルでクリアしないと
成仏や解脱はできないことになっている
仏教では、六道輪廻の考え方もあり
厳しい戒律を守らなければ、来世は地獄に落ちる可能性も示唆される
普通に生きていては、人間に生まれ変わる可能性も少ない
しかし、現在日本に伝わる仏教では
現世でも行い如何に関わらず
誰でも、供養などを行うことによって
成仏できるような仕組み(?)になっている
果たしてこれは正しいことなのか?
これが真理なのだろうか?
転生を真理とするならば
人は来世も現状か、現状よりも良い環境に転生したいと考えるだろう
しかし、その修行が、煩悩を捨て、厳しい状況の中に身を置き
それに耐え続けなければならないだとしたら
よい転生をあきらめるか
もしくは、自分に少し楽な風向きになるように
信じている真理そのものを歪ませてしまう可能性がある
正しくないのはイヤだが、欲望を捨てることもしたくない…
であれば、解釈を変えて少しでも楽に成仏したい…と考えるのは
人間らしいことなのかもしれない
そして、自分を肯定するために
多くの都合の良い解釈が生まれてきたのかもしれない
しかし楽をしようとする教えには
矛盾が多い
真理とは、矛盾が無いことが絶対条件であるはずなのに…
お墓の意味〜神社とお墓の違いとは?〜
お墓とは?と聞かれて
どのような感覚を持つだろうか?
多くの人は、「お骨の埋葬施設」と思っているのではないだろうか?
確かに間違いではない
しかし、現代では意識することが少ないが
お墓には古来、「祭場」としての大切な役割を担っている
「祭場」や「祭り」と聞くと
賑やかな、村の神社のお祭りを思い浮かべる人もいるかもしれないが
本来は、「冠婚葬祭」の「祭」のことで
正確には、「先祖祭祀」の「祭」の意味である
冠婚葬祭とは、人が誕生してから
成人式、結婚、死を迎えての葬式、そして死後には祭祀が行われる
…といった具合に
人の一生の通過儀式と、その後の追善供養のような定期的な死者や先祖のお祭りを表した言葉である
私達はみな、お墓の前で手を合わせ
死者や先祖を思い、祈る
そのことを考えると、お墓はまぎれもない「お祭りの場所」すなわち「祭場」であると言えるのだ
村の鎮守様のお祭りも
本来、ご先祖様が神霊となって氏神様の仲間入をして村の鎮守様にお祭りされているわけであるから
その本質は、先祖祭祀である
と考えると
お墓、仏壇、位牌…そして村の鎮守様も、みな先祖祭祀の祭場であったことになる
ただ、仏壇はと神社は「魂まつり」の場所で
お墓は、「遺骨」をおまつりする場であるという違い
そして、お墓や仏壇は、個々の家でまつられるが
神社は、血縁、地縁の氏子といわれる地元の人々が共同でまつる…とい違いがある
三悪道と仏教の歴史
三悪道と仏教の歴史
仏教には六道輪廻の考えがあると
以前も記したことがあるが
仏教では、現世での行い如何によっては
天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道
の、いずれかに転生すると言われている
そして、地獄、餓鬼、畜生の3つは、三悪道と呼ばれていて
皆が、避けて通りたいと考えている道である
そして、三悪道に落ちないためにも
現世での行いに気をつけて
来生を、より良い転生ができるように願うのである
しかし、その道が厳しく
欲を滅し、厳しい規律を守り修行に励まなければ
三悪道を避けることはできないと考えられていた
そして、悟りを開いた状態(=解脱)を目指すのである
その道は、煩悩を捨てる道であるため
多くのものは、その道を断念せざるを得ない場合も多く
しかし、三悪道に転生する恐怖もあり
死後の解釈を変えて
全ての死者が仏になれるようなシステムに変わっていった
現代の日本では、宗教観も
冠婚葬祭の時のみに登場するような形で
その教えを深く考えずに
儀式だけを執り行う場合も少なくない
もっと酷い場合には
婚姻する場合と、葬式をする場合に
全く違う宗教の儀式を行うことも少なくない
故に、その宗教観の中に
三悪道に転生する恐怖もなく
取りあえずは、追善供養を行うことで
現世での行いが悪くても
成仏できることになっている
しかし、その敗者復活戦のようなシステムに変わったことによって
現世で良い行いをすべきである…という観念が薄れて
多少悪いことをしても、成仏できる…と考えるのであれば
まだマシな方で
儀式のためのパフォーマンス的な捉え方では
現実主義に偏り過ぎて
目に見えることだけを信じるようになり
行い云々以前の問題となってしまう
そうならないためにも
真理を伝えるべき人間が
正しい解釈を伝えることが重要になってくる
逆修という考え方
人は、死に関して様々な考えや思いを持つ
こわい、きたない、けがれ…などのマイナス感情などを持つ人が多いのではないだろうか?
現代人は特に、霊や呪いなどの言葉を不必要に使い、嫌悪する傾向もみられる
しかし、仏教では、死とは成仏すること
すなわち、さとりを開いて仏となることを言い
輪廻転生の考えでは、次の生を受けるためのリセットであると解釈される
そのことは、逆修が広まる要因ではないかと思われる
逆修とは、生前に墓などに入り、一旦死んだことにして葬式をして
過去の因果をリセットして、残りの人生を健康で長生きすると言われている
その考えが現代でも受け継がれ
火葬場が新設された時の開場式に大勢の老人が新しい火葬竃に入れてもらう儀式が定着している
こうして、一旦死んだことにしてもらい
健康で長生きして、後生が良くなって人の世話にならずに安楽に死ねると信じられている
これを仏教で、逆修と呼ぶ
古くは、聖徳太子もこの逆修を行っていたらしきものも残されている
聖徳太子は、生前に自分の墓を築造していたらしく
その墓に一度死者に入ってもらい、本物の墓として機能させ
逆修の儀式にしたようだ
それを伺える事例として
死者をわざわざ運んで入れて、その死者が着ていた衣装も聖徳太子が一度着て、より死者に近くなるようにしたものと思われる
それほどまでに聖徳太子が逆修を行った理由は
物部守屋を誅殺した因果応報を恐れてのことではないかと思われる
百回忌までの追善供養
現在でも、人が死を迎えると
葬儀を行い
一般的に法事と呼ばれる追善供養を定期的な年数を経て行われている
この追善供養は普通
一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十五回忌、二十七回忌、五十回忌、百回忌
と、なっている
回数を増すごとに、その規模は縮小していく傾向が強いが
近親者が存命の限り、行われる場合が多いようだ
では、なぜこのような数字になったのかを
知っているだろうか?
古代中国では、一周忌を「小祥」、三回忌を「大祥」とよび
死者の霊が、祖霊の仲間入りをするということで
めでたい祭とされていた
「祥月命日」という場合の「祥」も、この「小祥」「大祥」に由来している
つまり、百日を過ぎた年忌は全て、めでたい行事なので「祥月命日」という
そして日本での十三仏信仰では
十王信仰の十仏事にならって、あらたに七回忌、十三回忌、三十三回忌の三仏事を加えたものが
室町時代に生まれたといわれている
安易に、年忌を追加するこうした傾向は
その後の江戸時代になってどんどん増えていき
十七回忌、二十五回忌、二十七回忌、五十回忌、百回忌となり
これが現代でも行われているものえある
これらの数字には一定の法則があれども
意味など特にない、言葉遊びのようなもの
これが、江戸時代の仏教の大問題である
江戸幕府がキリシタンと日蓮宗・不受不施派を禁圧するために設けた「宗門改め」や「寺壇」制度ができあがると
「寺請け」と言って、葬祭供養を行う壇那寺を通じて
檀家がキリシタンや不受不施派でないことを証明させる制度が
幕府の養護の元、半永久的に離壇できない関係を確立していく
こうした保護の元
完全に守られた制度ができあがると
人は、欲に走り腐敗し、堕落していく
それは、宗教家も例外ではなく
生きている人と、死んだ人の管理を独占した寺の坊さんは
図に乗って金儲けのために、非道なことをやり始める
幕府の名の元、掟を作り
回忌を増やして、檀家から絞れるだけ、絞り取ったのである
しかし、五十回忌だけは神道の風習ではないか…ともいわれている
根拠の無い、追善供養は
残されたものの気持ちで行うだけでも十分なことである
密教と顕教の違い
以前に道教と儒教の違いについて書いたが
このキーワードは奥深く
様々な解釈がなされる場合も多いので
研究したり調べたりする人が少なくない
宗教でなくとも
研究には、常に比較考察が行なわれ
比較があるから、その様相が見えてくるものも多い
そして、今回のテーマでもある
密教と顕教についても多くの人が調べて学んでいる分野である
空海は、密教と顕教の違いについて
「弁顕密二教論」という書物を執筆している
その中で、密教と顕教について
多角的に厳密な定義づけがなされているが
その内容をここで書いてしまうと
膨大な量になってしまうので
おおまかな解釈のみに留めておく
密教とは顕教に対する言葉である
顕教は常に密教の立場から使われる
顕教とは、お釈迦様が80年の生涯の中で
説かれた教えのことであり
「お釈迦様が世に顕した教え」
という意味である
80年の生涯と言えども、お釈迦様の死後も
多くの教えが追加されている
しかし、お釈迦様の教えは奥深く
とても言葉では言い尽くせない内容も多く存在していた
それは、語ったとしても一般の人々には理解されない内容も多いので
語らずにいた内容が隠されたままになっていた……
という解釈が、7世紀ころのインドで巻き起こったのである
その内容はあまりにも深く
言葉で理解できないものなので
直感や瞑想などによってでしか理解できないものとされていた
言葉にできないから、記録として残す場合には
その代わりとしてシンボル的なものを使用していたのである
それには、図像、文字、ダラニ、法具などが使われている
このように、表に顕れずに
「秘密になっていた教え」を「密教」という
その内容は、最終的には
即身成仏にことだが
これは、お釈迦様の時代の
「阿羅漢の果てしない未来に成仏する」
という考えとは真逆の
「この現実の世界で、この身のまま成仏する」
という画期的な思想から生まれたものなのである
ヨガと仏教の関係
ヨガと聞いて何を思い浮かべるだろうか?
近年では、女性を中心に
美容と健康を目的にヨガを始める人が多くなってきている
フィットネスクラブでは
必ずと言っていいほどヨガ教室が開設されている
しかし、多くの人が誤解しているが
本来、インドで発祥したヨガは
美容や健康を目的とした体操ではなくて
解脱を目的とし、瞑想を行なうためのポーズが
アーサナと呼ばれていて
このポーズが日本で言われているヨガであり
本来のヨガの一部分である
ヨガと仏教は密接に関わっており
お釈迦様や、キリストもヨガによって悟りを開いたとも言われている
ヨガは、インド仏教やチベット密教などとも関連が深く
教えには共通項も多い
六道輪廻の考えや、因果応報もヨガの経典に書かれていることである
六道輪廻や因果応報の考えをヨガの経典に沿って解釈すると
善い行いも、悪い行いも全て情報として宇宙に蓄積される
その情報は、アカシックレコードと言われる光の粒子となって蓄積されている
アカシックレコードに蓄積された行い(カルマ)は
必ず、時間の差はあれども自分に返ってくる
善き行いをすれば、善きことが返り
悪い行いをすれば、悪いことが返ってくる
このことを「カルマの法則」と言い
この蓄積されたカルマの量や質により
転生する場所が変わるのだ
例えば、現世で食べ物に対して執着し
自分の欲求を抑えることなく、食べ物を貪り続けると
後世は、餓鬼の世界に転生し、餓えの苦しみを
果てしなく長い時間、経験することとなる
これ以外にも、多くの教えで共通項を見出すことができるのである
十王信仰
中国の十王信仰は
「地蔵十王教」に初めて出てきている
これはインドでできた経典ではなく、中国撰述、擬教と呼ばれる
中国で唐代の末頃に作られたお経である
この経典の中に「冥途の旅」のことが書かれている
中国の特色として
生きている人はもちろん、死後の苦しみを救うことが
地蔵菩薩の大きな使命であり
これは日本に渡ってきた時にも、そのまま当てはまる現象が起きていた
「冥途の旅」と「十王信仰」をならべる
初七日(第1週)…亡者は死天山に到って秦広王の裁きをうける
二七日(第2週)…三途の川を渡る際の奪衣婆や懸衣爺によって災難を受け、初江王の宮殿で裁かれる
三七日(第3週)…悪猫や大蛇によって苦しめられるが、宋帝王によって助けられる
四七日(第4週)…五官王の前に呼び出されて、秤量舎で罪業の重さを計られて、勘録舎へ廻される
五七日(第5週)…35日目には、浄頗梨の鏡の前で閻魔大王の裁きを受ける。しかし、本来地蔵菩薩なので、善悪の業の報いは裁定するが、地蔵の誓願を信じたものだけが乗れる船は必ず彼岸へ到る
六七日(第6週)…変成王の裁きを受ける
七七日(第7週)…四十九日には太山王が亡者の二枚舌の罪を裁くが、亡者はその苦痛から追善を求める
百ヵ日(第8関門)…平等王の前に呼び出されて教化されるが、追善作善の功徳を受けた者は、その妙善によって天堂を見ることができる。
一周忌(第9関門)…都市王は亡者を哀れんで、多くの経典の中で法華経が第一であること、そして多くの仏の中では阿弥陀仏が第一であることを教え、法華経を写し、阿弥陀仏の仏像を造れば、その追修の福によって、亡者は金人にのぼることができる
三回忌(第10関門)…五道転輪王は、邪な考えや勝手気ままでしまりのない行い、あるいは仏教の正しい教えを知らないためにつくった禍や罪が、車輪のように廻って、亡者はいま、畜生、餓鬼、地獄の三悪道の獄にしることを教える
追善供養について
どこからどこまでを追善供養と呼ぶのかについて
疑問を持つ人も多いでしょうが
基本的には、お葬式とお墓の仏事は全て追善供養と言って良いだろう
インドで生まれ、中国で肉付けされ
やがて日本で完成されたのが「十三仏信仰」である
インド仏教においては
終わりのない輪廻転生において
前世から、次の後世までを「四有」という形をとるとされている
その「四有」は以下の通りである
「生有」…母胎にやどってから誕生の瞬間まで
「本有」…誕生から死ぬ瞬間までの一生
「死有」…死ぬ瞬間
「中有」…死有から次の生有までの四十九日間で、「中陰」ともいう
現代の日本では、ごくあたりまえに四十九日説を使用しているが
古代インドでは諸説あり、その中で有力と思われる四十九日が採用されたと思われる
日本では、死後四十九日目を「満中陰」を言って追善供養をする
その由来は、七日ごと七回、冥府において
生前の行いの善悪を審議し、次に生まれ変わる世界が六道の中から選ばれる
仏教以前のヴェーダ聖典には、「ヤマ」と呼ばれるのちの閻魔大王が
死者の命運を裁く…という言い伝えがあった
これが中国に伝わると
道教の俗信仰が付け加えられて
四十九日は、七人の審判が、七日ごとに、七回の裁判を行なう
という内容に変わっていったのである
中有の期間がインドの四十九日から二年近くに増えて
三回忌までは中有ということになった
ちなみに四十九日のうち、三七日(みなのか)の審判員が閻魔大王である
中国では、この四十九日に
「百カ日」「一周忌」「三回忌」を加えたものが
「十王信仰」である
十王信仰は、それぞれの日に道教の王を割り当てて死者の生前の行いを裁く
その十王信仰にさらに「七回忌」「十三回忌」「三十三回忌」を加えて
それぞれの菩薩を割り当てたものを「十三仏信仰」という
この十三仏信仰は日本で生まれたもので
現在の追善供養のもとになっているものである
本物の宗教は矛盾を拭い去る
私達は、日常を過ごしていると
様々な矛盾と向き合うことになる
その多くの疑問は
多くの人が認めているから…という理由で
自分の欲望と真理の追求と葛藤しつつ
曖昧な形で納めてしまう場合が多いのではないだろうか?
真理は一つである
世の中に、様々な考え方が蔓延していようとも
現象に対しての矛盾は存在しないのである
不思議なことや、奇跡などは
基本的には存在せず
全てが説明の付く真実が真理である
その真理は、凡人が解釈できるほどのもではないらしく
古代から、様々な人物が
その真理を解き明かそうと奔走している
それが「宗教」である
そして、凡人では解釈しきれない真理を
噛み砕き、わかりやすく説明して伝えていくことが布教活動である
そして、真理を正しく認識できないものや
わざと、真理ではないことを広めていくものもいる
間違えた方向に向かう宗教でも
信じてしまうものもいる
因果応報の考えからいくと
間違えた方向に導かれてしまうのも
不徳が多い結果なのかもしれない
仏教の教えには
物質至上主義では計り知れないものが多くあり
それゆえに宗教を毛嫌いする人も多いことも事実である
物質至上主義ではない場合に
弊害になるのが、確かめられないことである
確かめられないのに
自分で確認する方法がないのに
どうやって、信じればいのか?という疑問が発生してくる
その場合は、自分の感覚を研ぎ澄ませ
矛盾点を素直に指摘する心が大切である
本当の真理というものは
矛盾のないもので
誰の疑問にも明確に答えることができる
絶対無二の哲学であるのだから
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