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先祖を敬う心
先日、明治神宮に参拝に訪れた
境内は、参拝者や観光客で溢れていた
明治神宮は、言わずと知れた
明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする神社である
初詣には、日本一の参拝者数を集める
国内でも屈指の神社である
昨今のパワースポットブームもあり
明治神宮は東京でも人気の観光スポットだ
神社は、寺やお墓と違い
先祖が奉られているわけではない
神道の信仰にもとずき作られた祭祀施設である
日頃の感謝を神に感謝する場所である
明治神宮は、明治天皇という象徴を祭神としているので
この国を支えてくれた主上に対しての
感謝を述べる場であろう
神社の境内は、いわば明治天皇の住まいと考えてみると
その訪れ方はおのずと決まってくる
しかし、現在は観光施設の側面が強く
参拝マナーに気を使って、参拝を行っている人は少ないように感じる
参拝マナーは絶対的なものではないが
人の家を訪れる際に挨拶もなく、自由に振る舞うことが失礼にあたるように
やはり、明治天皇のお宅を訪問していると考えると
いくら公共の施設の意味合いが大きいとはいえ
黙って入るのは、見ていて愉快なものではない
参拝マナーとしては、鳥居の前で一礼する
参道の真ん中は、神様の通り道なので、端によって歩く
参拝後も、鳥居に差し掛かったら、祭殿に向かい一礼する
あとは、細かいマナーなどはあるが
この程度が、できていれば問題ないように感じる
しかし、参道の真ん中を堂々と歩く人は非常に多い
鳥居で一礼する人も、100人に一人程度であろうか…
中には、鳥居の真ん中で、ポーズを取って写真撮影する風景も見受けられる
参拝者の心持ちはどうなのであろうか?
パワースポットブームにあやかり
運を良くしたいと考えている人
神社は、願いを叶えてくれる場所と捉え、我欲を押し付ける人
本来は、神に対して
日頃、平穏無事で過ごすことのできる感謝と
今後も平穏無事で過ごせるように祈願する場所である
一方的な我欲の祈願は
本来の主旨とは異なるのであろう
そして、100年以上前に
国を守る役割を担った、先の主上に対し
幸せに暮らせていることをへの感謝を表す場でもあると考える
私は、左右どちらの考えでもないが
しかし、国全体の幸せを願っていた人に対する感謝の気持ちは持ち合わせている
私は、自分の血縁の先祖に感謝するとともに
激動の日本を支えた人に対する感謝も
先祖の代表として、お礼を申し上げたい気持ちになって訪れることは
人として、自然な形ではなないだろうか…と考えている
お墓と生きる意識
科学的根拠や、物質至上主義は
現代が抱える合理主義なのか、つながりの破滅なのか…
お墓の問題を考える上で
とても重要になってくるのが、意識や考え方である
現代は、科学的根拠がないと認めなかったり
目に見えるものが全て…という考えが当たり前になってきている
その結果、目に見える動きのみを正解とする考え方である
日本が、高度経済成長を遂げると
その考え方は顕著になっていき
例えば、人のモノを盗んで手に入れても
モノが手に入れば同じこと…というように考えてしまう傾向も出てくる
よく人のモノを盗むとバチが当たる
などと言われたりするが
その科学的根拠がなければ
バチなど存在せず、もし本当にあったとしても
その因果関係を証明しなければ、バチなど存在しないことになる
輪廻転生の考え方も
生まれ変わりの証拠が無いので信用しない
死んだら全て終わりだから
生きている間は好きにしていい…という考えが生まれる
来世の果報を願い、現世で功徳を積む…
とい考えがなければ
どんな方法をとっても、物質的有利になればなんでも良い…という危険な考えが生まれてくる
昔は、ご先祖様が功徳を積んだおかげで幸せに暮らせる…とか
子孫に不徳の影響がでないように、行動に気をつける…などの考えもあったが
現代では、薄れてきているように感じる
その意識の違いは、お墓のあり方にも大きな変化を与えているようにも感じる
お墓が何のためにあるのか
ただの死後のすみかなのか?
家族で守り、ご先祖様に感謝する場所なのか?
ただの習慣なのか?
みんなが建てるから建てるのか?
縦のつながりも、横のつながりも薄くなりつつある現代に
お墓のあり方をもう一度見直すことができたなら
自分の言動を見直す機会になるのかもしれない…
家族の形に対応し続けるお墓
何度もこの場で、以前の日本のお墓のありについては語ってきたが
昔のお墓は、先祖代々受け継がれていくものであった
昔のように、その土地を離れることなく
産まれてから、死ぬまでを過ごす場合は
そのお墓の形態でも不便はないのだが
現代のように、ライフスタイルが変化することで
転勤や引っ越しが頻繁にあり
家族、親族が同じ部落で生活することは少なく
全国に家族が散らばる例も少なくない
そんなライフスタイルの変化の上において
お墓を同じ土地で代々守っていくことは
物理的に不可能になってきた
そのような変化から
人々は、お墓が先祖代々眠る場所から
故人よりも、残された家族の想いがお墓に反映されるようになってくる
それは、墓石に彫刻する文字を見ても理解することができる
「◯◯家の墓」「先祖代々の墓」と彫刻する代わりに
「やすらぎ」「静」「愛」「夢」「慈」などを彫刻する人も多くなってきた
これは、血縁の縦系列の関係から
生前の人間関係を表す、横のつながりへと変化していっているからだろう
そのライフスタイルの変化は
家族の形態を変え、お墓の形態を変えていった
親族一同が同じ地域に住むことが少なく
各地おのおの好きな場所へと移住し
終の住処は、故郷と全く違う場所になることも少なくない
その家族の形の変化は、1955年前後から顕著に表れてくることになる
少子高齢化が進み、核家族化、単身者の増加もこの時期である
産業構造の変化は、就業構造の変化と都市化を引き起こし
その結果、当然のように家族の形態が変化してくる
この変化は、形だけではなく
家族関係や、家族に対する意識の変化ももたらすこととなる
これまでの家族の形は崩れ始め
お墓は個人化する家族に対する需要に対応せざるを得ない状況を迎えることとなる
そして、それは無縁化の促進も同時に引き起こしていくことになるのである
人はいずれ死を迎えるので
お墓は必要なのだが
それを継承する人がいないので
個人墓の普及や、無縁墓の増大に繋がっていったのである
継承システムの見直しは
同時にお墓そのものの意味も変化させていくことになるのである
お墓の多様化
前回、人々のライフスタイルの変化が公園墓所に移行していく話を書いたが
それに伴い、お墓自体も多種多様に変化し
個々の事情に合わせて、様々なお墓が登場することになる
関東大震災や、戦後の復興により
全ての生活の場がリセットされた関東圏は
その復興に伴う土地区画整理事業によって、墓地が生活圏から離れて遠隔地へ移転されることに拍車がかかる
そして、1970年代の高度経済成長期に登場した民間の大規模霊園は
人々の生活の場から墓地がますます離れていくことになり
墓地の地縁からの離脱が進むことになる
これは、日本の経済成長とともに劇的に変化し
民間の大規模霊園の出現は
日本の国民総生産が世界のトップクラスに入ろうとしていた時期だった
経済の活性化とともに市場原理による墓地の供給が始まった
公営墓地が主に市町村の住民を対象にしているのに対して
民間の大規模霊園は、墓地の供給と選択を多様化させることになる
それと同時に、今まで先祖代々のお墓であったものが
ライフスタイルの変化や心情の問題など
様々な事情を抱えることで多様化し
夫婦墓や個人墓が登場してくるのである
墓地の立地も見直され寺院境内地に納骨堂を建てるケースも多くみられ
ビル型の墓地や貸ビルの屋上に建設される場合もある
お墓の縁者も従来の家系や地縁単位を超えた形式や
煩わしさの少ない夫婦墓や個人墓も登場することとなる
少子化の影響で継承者が両家のお墓を管理するために
利便性を考えて、墓所内に二つのお墓を置いたり
一枚の石碑に二つの家の姓を彫刻し合同のお墓にしたものも見られる
高齢化が進むと、お墓に入る順番も変わることも多くみられ
さまざまな不安から夫婦墓や個人墓のようなものに関心が集まったと考えられる
このような事情から、現代のお墓の形式が確立していったのである
墓地の法律と公園墓地
墓地は、なぜこれほどまでに短い期間で
その存在そのものの形まで変えていったのだろうか?
その大きな原因は、以前にもライフスタイルの変化であることは説明したが
それに付随して、墓地の場所も変化していく
しかし、これほど大きな変化があったにも関わらず
墓地に対する法律は、明治からあまり変わっていないのが現状である
現代の墓地の法律の基礎となっているものは
明治6年の「墓地の設置及び取拡げの制限に関する件」に始まり
明治17年太政官達第二十五号「墓地及び埋葬取締り規則」と、「同施行方法細目基準」で形を整えた
そして現在の「墓地、埋葬等に関する法律」は
戦後のすぐ後の昭和23年に規定されたものである
しかし、この法律は、明治初期から大枠では変わってはいない
昔、人々はその土地で生を受け
育ち、学び、結婚し、子孫を残し、老いて、死を迎え
そして、その土地の墓地に埋葬され、生涯を終えることが多かった
墓地の存在は、生活の一部であり
いつも近くにある存在であったのだ
それが、現代のように
追善供養や、盆や彼岸の時にのみ訪れる墓地のようになっていったのは
ライフスタイルの変化に伴い、公園墓地の存在が大きいだろう
都市開発が進み、人々が都会に集まるようになると
都市が膨張し、地方のはずれにあった墓地も市街地に取り込まれていくことになる
都市化の進展と、墓地の郊外への移転の繰り返しが限界に達し
その対策として、出現したのが
現在の公園墓地の元となる多摩霊園である
都市部の墓地を次々と無縁整理して、改装を繰り返しても
東京では、墓地を今供給できなくなっていったのである
それが、1918〜1919年頃の話である
多摩霊園の登場は、これまでの墓地に対する概念を大きく変えるばかりではなく
現代の墓地のスタイルに大きな影響を及ぼす、時代を画する墓地となった
公園様式によって、それまでの墓地の暗く陰湿な雰囲気を一新
急激な墓地の価値観の変化に馴染めない人も多かったが
その公園墓地の美しい景観は次第に人気になり
多摩霊園をお手本とした公園墓地は
次第に地方都市にも広がっていったのである
そして、この現代墓地の先駆者とも言える多摩霊園は墓地計画のモデルとなり
後に建設省(現在の国土交通省)の都市計画の「墓地計画基準」の基礎になった
そして、この多摩霊園を代表とする公園墓地は郊外に建設され
以前までの生活と共にする墓地ではなく
家族の住居や職場がある地域とは切り離され
墓地を地縁から離脱させることとなった
そして墓地は、家族と土地の繋がるのない地域に造成されていったのである
お墓は現代の暮らしの写し鏡
前回も、現代人のお墓の概念は情によって動いていくという話をしたが自分の死後設計がコントロールできるもの…と考えるようになったのは戦後の話なのかもしれない
そして、お墓参りする人の都合に合わせその設置場所も変化し、家族で話合いの場も設けられる
昔は、死後どこに入るかなど選択肢はなかったし自分がどこに入りたいか主張するなど思ってもみない話なのだ
しかし、結婚相手からライフスタイルまである程度、自分の感情を優先しながら決めることが可能になっているので自分の意思で死後の設計も行いたいという考えは当然なのかもしれない
子ども達が就職や転勤などで遠い地域に住んでいる場合など自分達の死後にお墓参りをしてもらえないのは寂しいので子ども達の住む近くにお墓を購入したり
感情的な理由で、姑と同じお墓には入りたくないことから自分一人でお墓を購入したり
最近では、霊園見学ツアーなどもあり自分の好みのお墓をカスタマイズしたりと、入り方も多種多様になってきている
自分が、自分の意思でお墓を選べる時代
自分の価値観でお墓を購入する人はこれからも増えてくると思われる
お墓はどうのように変化してきているのであろう
江戸時代までは、先祖代々が入るお墓…というのが主流であった
しかし、明治以降になって新しいお墓の形態が続々と登場することになる
江戸時代からあるのは村落共有墓地や寺院境内墓地 明治初期には永久的納骨堂、民間大規模霊園、宗教法人経営霊園
そして平成に入ってからは都市型の共同墓所、墓地の無形化(形のない墓)など新しいお墓が登場している
私たちがよく目にする「公園墓地」と呼ばれる形式は1923年にできた東京都の多摩霊園である
それ以降にできた公園墓地は、ほとんどこの多摩霊園をモデルに造られている
誰でも手軽に購入できる公園墓地形式のものは檀家になる必要もなく、宗教の縛りも、形式もなく自分のライフスタイルに合わせてお墓を建てることができることから急速に増えていくことになる
しかし、この墓苑の元となる考え方と現代の私たちの生活様式や家族の形態の多様化とがミスマッチであることは否めない
そして、この公園墓地は墓地を郊外に建設することにより、生活と断絶し普段の生活では、あまり死や先祖と向き合う機会が少なく墓地の近くに住む事を嫌ったりと生活と共にお墓がある…という考えが薄くなっていくのである
お墓の観念の変化
何度か、お墓についての記事を書いているが
この昔と現在のお墓に対する意識の変化が
内容をより複雑にしているように思う
昔は「先祖代々の墓」として、そこに代々入っていくのが普通であった
しかし現在は「◯◯家の墓」というものを建て
現在から未来の家族に対して意識が向いているように感じる
過去の墓から未来の墓へ
この意識の違いも大きくお墓の概念を変えるものである
お墓は、先祖を奉り敬うものから
家族であることの証明へと意識が変化し
そのことにより、お墓を語る上で
「家族とはなにか?」という意識を確認する必要がでてくる
三世代家族が普通だった時代から核家族や一人暮らしなど
家族の形態も変わってきている
そんな中でお墓を共にすることは
紛れも無い家族の証明であろう
近年では、ペットも家族だから一緒のお墓に入りたいとか
夫の死後、夫とお墓まで一緒なのは耐えられないから
個人墓を購入し、自分の死後はコチラにして欲しいという人とか
お墓は、その人の感情的な部分も左右するものへと変化してきている
昔のお墓は、代々そのお墓に自動的に入っていくもので
そこには個々の感情的な事情は配慮されることはなかった
基本的に現代は、結婚を中心とした家族を形成している関係上
そのスタートラインが情から入っているので
その延長線上にあるお墓の観念も情に向けられるのかもしれない
子どもが家を継ぐとか
家族を直系で伝承していく概念も薄くなってきていて
その二世代を中心にした核家族は
その子ども達が、また結婚することにより
一旦リセットされ、また情で繋がる家族を形成する…となる
世代を線で結ぶ意識より、点で終了して情で判断する意識
このような変化があって
お墓は、昔のまま…というわけにはいかないだろう
子どもの情(感情)を大切にするあまり
自分の死後、先祖として崇拝してもらい
お墓を維持してもらおう…という意識が薄くなってきている
そして、お墓は「先祖供養」という大きな柱から
自分の死後設計という意識に変化しているのである
お墓の性格の変化
お墓は何のためにあるのだろうか?
昔、土葬であった関係上
その人の「死骸」が埋葬され、大地へ還っていく時間的経過を過ごす場所と考えられてきた
これが、物質的な時間経過
そして、身内が死を迎えることに
残されたもの達は、その死を受け入れ、もとの生活に戻り、もとの精神状態に戻るまでには
時間がかかる
その精神的な時間経過を過ごす場所として、お墓や墓地が存在すると考えられる
その物質的、精神的な時間経過を支えるお墓や墓地の性格に変化がみられるようになった
現代社会の変化とともに、ライフスタイルも変化し
その最終地であるお墓にも当然のように変化が表れてきたのである
昔、お墓とは
自分の存在の絶対的な尊厳を持った存在の先祖がねむっている
その崇拝すべき存在がある場所であるがゆえ、必然的に尊厳性が出てくるのである
そして、その存在を未来永劫、代々受け継いでいくために
親族一同が守っていく
この永続性も重要な要素であった
最後に、固定性
昔は、同じ土地で生まれ、育ち、仕事をして、家族を持ち、老いていき、そして死を迎える…
同じ土地で人生のスタートからゴールまで完結していたのである
その意味でも、お墓の固定制は、必然なものとなってくる
このように、昔はお墓と言えば
「尊厳性」「永続性」「固定性」という性質を当然のように持っていた
しかし、現代では、この3つの性格を守っていくことは難しくなってきている
最近では、「ご先祖様のおかげで…」とか「ご先祖様に感謝する」などの言葉を聞かなくなってきているように思う
昔はよく、特別恵まれた人に遭遇した場合など
「この方は、どれだけご先祖様が徳を積まれてきたのだろう…」
と感嘆の言葉を述べることも多かった
何かあれば、全てはご先祖様のおかげなのだ
そうして、自分の存在ばかりではなく
自分の身に起こる幸福に対しても、ご先祖様の行いのおかげだと感謝する
そんな日常においては、お墓や仏壇の存在が非常に需要になってくるのは当然である
ご先祖様を意識することなく、ライフスタイルも流動的で
転勤も多く、親戚一同が同じ部落にいる…ということが少なくなってきた現代では
お墓の存在そのものが、とりあえずの儀式になって
残された人間の便宜上の都合でお墓のスタイルを変化させるようになってきている
現代社会に生きている私達に
昔のような、お墓のあり方を押し付けることは難しいことだが
今の自分の存在をご先祖様に感謝する習慣だけは
子ども達にも伝えていきたいものだ
現代のお墓の事情
- 2013-02-15 (金)
- お墓について
現代は、お墓のことが家族の中で話し合われる機会が多くなってきた
どの土地にお墓を持とうか?そこには誰が入る事になるのか?そのお墓は誰が管理するのか?
…など、お墓に関して様々な問題を抱えているからだ
昔は、それほどお墓について深く考えたりすることが少なかった
なぜならば、お墓については決まっているものだったのだから…
明治以前の私たちの生活は
ある土地に生まれたならば、その土地で働き、その土地で結婚して子どもを産み
そして、その土地で老い、病気になり、子どもに扶養され
家族で死を迎え、その土地の墓に葬られる…ということが普通だった
血縁、地縁と呼ばれる、土地の人間の強い結びつきによって
地域共同体の中で、人生の始まりから終わりまでを完結させていたのだ
しかし、明治以降
人々のライフスタイルや、仕事の仕組みなど
多くのことが近代化することによって
私達の生活様式も変化して
それ以前のような地域共同体で全てが完結するような人生ではなくなった
国際経済の中の一員としてこの国が成り立っている以上
産業構造は必然として変化して
私たちは、一カ所にとどまって生活をするようなことは少なくなってきた
ライフスタイルの変化によって
死の迎え方も、従来通りというわけにもいかない
墓の所在も、変化していく
それぞれの家族に、それぞれの死の迎えかた、お墓の構え方の考え方があり
ライフスタイルに合わせて、その家族の最善を尽くしお墓のあり方を考えていく
たとえ女性であっても
一人っ子なども多い関係上、夫婦で双方の両親のお墓の管理をする場合も発生してくる
その中で、様々なトラブルの発生も仕方がないのかもしれない
ここ100年程度のお墓の事情の変化には
現代の人々は、良い解決方法を見いだせていないのかもしれない
それぞれの思惑が交差する中に
お墓の問題が取り残されていることは
生命の価値を軽視しているようにも見える
聖の特性
日本を代表する民族学者である五来重氏は著書の中で
聖には「隠遁性」「苦行性」「遊行性」「呪術性」「世俗性」「集団性」「勧進性」「唱導性」などの八つの性格がある
と述べている
その五来重氏の著書から、聖の特性について引用する
「…このような宗教者には、呪力を身につけるための山林修行と、身のけがれをはらう苦行があった。これが山林に隠遁すり聖の隠遁性と苦修練行の苦行性になる
原始宗教では死後の霊魂は苦難に満ちた永遠の旅路を続けると考え、これを生前に果たすために巡礼が聖の遊行性となる。
こうした行から得られた呪験力は予言・鎮魂などの呪術に用いられるので、聖には呪術性がある。
また原始宗教者は一定期間、山伏の夏行や入峯修行のように、何ヶ月か隠遁と苦行のきびしい掟があるが、それ以外は妻帯や生産などの世俗生活を営むので、俗聖と呼ばれる世俗性がある。
なお原始宗教ほど信仰を内面的な質より作善(宗教的善行)の数量ではかるので、多数者による多数作善を重んじるため、集団で作善する集団性がある。
多数者の集団作善は大衆を動員して道や橋をつくり、寺や仏像をつくる勧進に利用されるので、仏教化した聖の最大のはたらきは勧進性であった。
勧進の手段として説教や祭文などの語り物と、絵解と、踊念仏や念仏狂言などの唱導をおこなう。これが聖の唱導性だがこれが庶民文学や民間芸能となって日本文化に寄与したのである」
別所について
「…比叡山、高野山、東大寺、興福寺などの周辺に多くの別所があって、本寺の研学や修業の過程から堕落した念仏者や、みずから念仏往生をねがう僧や聖が隠遁した。
比叡山には、七別所があり、西塔の北谷、黒谷別所からは法然が出るが、大原別所からは良忍を出した。大原別所の聖たちは高野聖との往来が最も多く、融通念仏という集団多数作善の方法を案出して、盛んに勧進活動を展開する。
一方、高野山にも多数の別所があり、天野別所とともに莫大な高野聖を擁した。
東大寺は南山城の光明山別所が有名で、永観、重誉、実範、心覚、明遍などの著名な念仏僧が隠棲したが、心覚と明遍はもう一度高野山に再隠遁して高野山の中心人物となった。
また興福寺の別所に南山城の小田原別所があり、教懐も高野山に来て、小田原別所聖とよばれて初期高野聖の祖となる。」
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