先祖について Archive
親神の祭り
現代では、「親」は自分の両親、育ててくれた人、配偶者の両親
などに限って使われる名詞であるが
その昔は、先祖のことも「オヤ」または「オヤオヤ」と呼び
現代の使われ方に限らず、使われていたのだ
現代でも「親玉」とは、特殊な業種の人限定に使用される場合もあるようだが…
そもそも「先祖」という言葉は漢語であって
輸入されていた言葉である
それまでは、先祖など自分よりも先に生を受けた人を総称して「オヤ」と呼んでいたようである
お盆に行なわれる「魂祭」(死者や先祖の霊の祭)も元々は「オヤオヤの魂祭」であったのだ
家の「氏神」を「おや神」と呼ぶ地域も存在する
新潟の佐渡島では、正月六日の晩を「親神さんの年夜」と称している
この六日の日を「年越し」とする理由は諸説あり
明らかにはなっていないようだが
室町時代から江戸時代の宮中の女房の日記「お湯殿の上の日記」の中には
「お年越し」という言葉が3度記されていて
それは「大晦日」「十五日」のほかに「六日の夕べ」であった
この六日の日に年越しが行なわれる理由は
現代の暦の理屈からも、月の周期の理屈からもかけ離れている
本来、先祖を祭ることは「穢れ」ではないにしても
その家個々の行事であることから
こまごまとした支度の多い行事にかぶせて負担を大きくするよりも
少し落ち着いた時期に、先祖を祭っていたのかもしれない
先祖に対する感謝の気持ちは変わらないが
その表現方法は、各地で違ってくる
それには必ず理由があり
一見、不可思議なものも多いのだが
話を掘り下げていくと
なるほど、その土地の風習や気候に合わせて
合理的に、そして感謝の祈りは省くことなく
行なわれていることが多いのである
門明け・門開き
現代では、「年始の挨拶」として
元日~3日ほどの間に、本年もお世話になるであろう人のところに尋ねていき
年始の挨拶をする風習があるが
もともとは、正月は「内で祝うもの」であった
年始…というか、その年のご機嫌伺いは
基本的には、3月末までに済ませればよいという雰囲気もあり
中には、年の半分=6月末までに挨拶できればよいとしていたところもあったようである
地域によっては、この「年始の挨拶」を正月行事としていないところも多い
そして、正月の行事として大切なことは
「氏神社の社参」と「本家への年頭礼」であった
四国の中央の山地のかなり広い範囲では
この行事を「かど明け」と呼び、年始の厳重な作法としているところもある
他の地域では、「かど明け」を「カドワケ」と呼ぶところもあるのは
「カド」を「門」のことだと誤解しているというはなしもある
家の大戸の口も「カド」と解釈されていたのは
「門松」という言葉があることでも理解できる
これが、一巻の中で行なわれる年始の礼儀なのである
元日の早朝(たぶん夜明け前)に
分家全員、もしくは分家の代表者が、本家の戸を開くのは
「元日の神をお迎えする」という意味であったと思われる
少しあとになると、その後に
本家のものが、分家の戸を開けにもいいたようだが
これは本家、分家の交際を「七分三分にしましょう」という趣旨の改良のようである
ただ、本家に戸をあけてもらうのを待っていては
遅い時刻になってしまうので
だんだんと、その風習は薄れ
新春の祝い酒を酌み交わすことがメインになっていたようだ
そして、その当時の人々は元日の始まりをその日の日の出ではなく
前日の日没…すなわち、大晦日の日が沈んでからが元日のスタートとの解釈があったようである
昨晩のことを「ユウベ」と言ったり
一昨晩を「キノウバン」と言ったりするのも
そのへんの解釈が影響しているのかもしれない
そのようなことから、一年の境を
大晦日の日没から…としていたのである
北海道では、おせち料理を大晦日から食べる風習がある
「せっかく作ったのだから、大晦日から食べるのが合理的」
という、北海道ならではの解釈もあるのだが
一年のスタートを大晦日の夜と考えるのであれば
あながち間違った風習ではないのかもしれない
「クルワ」「マキ」のある暮らし
この度、東北、関東地方を襲った震災に際し
被災者の方々に、心からお見舞い申し上げます。
いつも災害の報道を見て感じることは
地域の連携の重要性である
「遠くの親類より、近くの他人」とはよく言ったもので
このような災害には、とかく近所同士の助け合いが必要となってくる
昔は、親戚一同が近くに暮らし
助け合い、子孫に家督を継承し
その親族単位を守ってきた
同姓の親類一族の総称を「クルワ」または「ヤウチ」
祖霊信仰を中心とする同族血縁の共同体を「マキ」
と呼ぶ
どちらも同じように感じるが
マキは、本家・分家の統制集団とのニュアンスがある
北海道では、あまり見られないが
マキやクルワが、ひとつの部落を形成しているようなところは
同じ苗字の一角を確認することができる
小林、高橋、田中、佐藤といった
珍しくない苗字の場合でも
その分布にははっきりとした偏りがあることが確認できる
しかし、同じ苗字の二人に「親戚ですか?」と聞いても
めたに「そうだ」と言われることはない
それほど、同苗の家が多いので
「以前は親類だったが、今は付き合いがない」
「知っているが、関係性までははっきりしない」
「全く関係がない」
というのが普通である
現在は、親類の中に縁者…すなわち姻戚まで含めることが多い
姻戚を除き、残りわずかなものが
「マキ」と言われる結合体であろう
もっと言うなら
遠く離れて住む、先祖の出た家
その他、特別の由緒があって付き合いを続けているものは
親類とは言っても「マキ」の部類には含まれない
また、血筋以外の縁故によって、親類ではないが参加している人も多少はいるのだが
以上の事柄でも、「マキ」の形態は変化をしていないようである
先祖を想い生きていく
「先祖」というキーワードをもとに
このコラムを書かせていただいているが
「先祖」と聞いて
みなさんは何を思うだろうか?
あまりに深く、永遠の議題とも思えるこの課題を前に
私は、幾度となく考え改め、書き進めている
歴史はもとより、民族学、宗教学、風俗など
さまざまな側面から、「人」を見なければ
この「先祖」を追及することはできないのであろう
さまざまな文献を読み進めていくうちに
人は、この100年以内の間に
とても重要なことを歴史の中に置き忘れているのではないか?
と、思うようになってきた
この長い人類の歴史の中で、100年はほんの一瞬であろう
その一瞬に、人類が長年培ってきたものを忘れてきた…
それは、「勘」なのではないか?とも思えてきた
人は、長年かけて、自然、そして宇宙と共存すべく手段を知り
それを、また長い時間をかけて子孫に継承していった
その歴史が、薄れてきている実感はないだろうか?
人は、人から生まれて繋がっていることを
心で感じているだろうか?
自分の、親、祖父母まではイメージできるだろうが
その何代も先の先祖に対して想いをはせ
自分がここに存在していることに感謝をし
そして、生きる知恵を子孫に継承すべく
先祖から学ぶ努力をしているだろうか?
先祖が大事にしてきた、自然と折り合うための「勘」をバカにして、知ろうとはしてないのではないか?
そして、現代に生きる私達は
先祖の教えを取り入れることをしないで
不要に苦しみ、間違いを犯していたりはしないだろうか?
あなたの悩みや苦しみを解くカギは
もしかしたら、先祖が知っているのかもしれない
めでたい日
- 2011-02-01 (火)
- 先祖について
新しい年になり、1ヶ月…1/12年が経過した
正月には、決意も新たに目標を掲げた人も
1ヶ月も経つと、今年の目標も雪に隠れてしまった人もいるかもしれない
お正月は「あけましておめでとう」という言葉の通り
「めでたい日」としてお祝いムードが漂っている
その証拠に、前年に近親者を亡くした者は
「喪中」と称し、正月を派手に祝うことなく
年賀状での挨拶も割愛して、おめでたい雰囲気を押し殺している
しかし、現代ではごくあたりまえに使われる「祝い」の言葉は
その昔は、少しニュアンスの違うものであったことをご存知だろうか?
本来の「祝う」の意味は
「身と心とを清くして。祭を営むに適した状態でいること」
を言ったものなのだ
もとは「斎う(いわう)」という文字を書き
神の御社の祭りの用意も「いわい」であった
祭をする人々が行いを慎み、穢れた忌まわしいものに触れず、心を静かに
和やかにしているのが「祝い」であり
その慎みが完全に守られている状態が
人に「めでたい」と言われる状態であった
心静かに、穏やかに、身も心も浄化している人を
「あの人はめでたい」と言うのだが
現代で使用すると
「何も知らずに能天気な人」の意になってしまい
ニュアンスがかなり違ってしまうので注意していただきたい
日本人の2大年中行事と言えば「盆」と「正月」である
正月はめでたくて、盆は死者との再会行事と思っている人も多いだろうが
元々は、正月も死者との再会の日だったのである
昔は、盆でも最近不幸が無かった家などは
「盆」の挨拶でも「おめでとう」と言っていたのだ
そもそも、正月に現代のように誰とでも祝言を交わすのは
そう昔からの慣わしではなく
元々は、家単位で「めでたい日」を祝っていたのだが
武家が元旦を「参賀の式日」と定めて
全ての配下の者を出頭させたのが始まりだとも言われている
「家来」という言葉も、元は「家礼」と書く者が多かった
それは、その家の者でなくても
正月やその他の礼儀だけは、一家一門の人々と同じ作法を守る…という意味であったことが想像できる
そのような礼儀が拡張して
友人、同僚、知人、しまいには1度会っただけの人にも
年賀状を出すという風習になっていったのである
~1からやり直さないように~家督は祖先のプレゼント
現代、家督や育成環境に囚われず
自分の進みたい道を選び、自己責任で歩んでいく-という生き方が当たり前のようになってきていて
商売を営む家などは、後継者問題に頭を悩ませ
商売を継ぐ子があればありがたがり
子も時には商売人の子であることを恨み、自分の夢を諦めてまで継ぎたくないとか
好きな道に進みたい…などと、実家の商売と全く違う道に進む場合も多い
昔は、今のように職業の選択肢も少なく
そもそも、職業を選ぶという概念より
どのように生き延びていくか?が最も重要な課題であり
生きていくために必死に田畠を耕し
その子が、引き続き生活していけるように田畠を継がせ、子が多いようなら新たに開墾し、与えたのである
これが、一代のみでリセットされ
人は家督を継がずに、一から開墾し
田畠を手に入れて、農業を営む-
などということになれば、大変な労力となり
なにより社会全体の効率が悪すぎやしないか?
先祖のさまざまな経験が知恵となり、基盤となり
その家督を継ぐことで、同じ過ちを犯すことなく
先祖の知恵を取り入れ、それに自らの経験や知恵を加えて、より高めたものを子孫に伝えていく-これがまさに進化である
血縁、地縁も引継ぎ
小さな社会の中で、絆や人間関係も繋いでいく
その縁を大切に育て、助け合っていく
現代は、近所付き合いや、親戚付き合いを煩わしく思う人も多く
小さな単位の家族で生活する人も多いが
昔のように、家督を継ぎ、地縁、血縁を大切にする生き方の方が効率が良く、無駄が少ないように感じられる
家督を煩わしく思うより
自分で積み上げる苦労や効率の悪さを考えると
ありがたいプレゼントであることが理解できるだろう
家督とは、商売の屋号ではなく
その中に含まれる縁や、知恵などの
多くの時間を割かなければ手に入れることのできない「無形の家督」が含まれることにも目を向けていただきたい
祖母の葬儀
- 2010-09-01 (水)
- 先祖について
私事なのだが
先日、祖母が他界した。
真面目に生きてきたとは言いがたい人生を送った祖母であったようだ
貯蓄も資産もない祖母であったが
その子ども達によって、立派に葬儀が執り行われ
先日、納骨の運びとなった
一見、ごく普通の葬儀風景
子、孫、曾孫が祖母の最期を見送り
我が身が、ここに存在するのは
この故人の存在なくしてありえない事実
日常では、あまり意識することのない
血の繋がり…
そんなことに想いをはせ
自分の中に存在する、この祖母の無形の家督を強く意識し
残された者たちは
先祖から受け継がれた
有形、無形の家督を
どのように次世代に繋ぐのかを思い描くのだ
葬儀は、故人の人生の総決算であり
見送る者は、自分の存在を認識する機会ともなる
――――――――――――――――――――――
最近、こんな見出しをよく見かける
「各地で相次ぐ、生存不明の100歳以上の高齢者」-
戸籍の整備がまだ完全ではない時代だったという事情ももちろんあるのだろうが
自宅から死後数年経過した遺体が発見されたり
その子供が、親の遺体を隠し
そこで生活する事例も出てきた
死亡届を出さず
親の年金を受け取り続け生活をしている例もある
さまざまな原因の追究をマスコミが行い
行政の管理の甘さが指摘されたりしている
この問題を、ただ単に
「行政の怠慢」「身内による年金の不正受給」
ということで片付けてもいいものか?と疑念が沸き起こる
世間が、社会が、身内が…
人の死に対しての向き合い方を常日頃から意識していない結果のような気もしてくる
先祖の存在をないがしろにすることは
自分の存在をも、ないがしろにしているのではないだろうか?
まだ解決の道を見出していないこの問題は
いつかは、必ず、見送り、見送られる立場になることの意味
先祖の意味、そして自分の存在の意味を根本から考え直す機会にきていることを
証明している事件のようにも思われた
先祖を想い「お墓参り」
- 2010-08-16 (月)
- 先祖について
今回は、お盆ということもあり
私の個人的な心情を綴ってみたいと思う
「先祖」というキーワードを元に
色々な文献から、解釈をしたコラムを数回書いてきた
文献を未熟な解釈ではあるが
紐解いていくにあたって
自分の中で、先祖に対しての想いが変化してきた
その想いが変化している最中に
祖母が他界し、今回お盆を迎えることになり
お墓参りという毎年の恒例行事が
私にとって大きな意味をもたらすものとなったことは間違いないのだ
自分の中にある先祖の遺伝子を感じ
そこにある意味、自分の存在、自分の子どもの存在…など
納骨されている場所を確認し
この先祖があってこその自分の存在なのだと…
あたりまえのことが
今まで以上に深く実感できた
自分の生きる意味や、存在の意義を考えるにあたって
先祖の存在をより深く感じることは
日頃の行いにも影響を及ぼすであろうと実感できる
自分の中にある「無形の家督」を確認し
その「無形の家督」によって
良くも悪くも
今の自分が結果として存在している
先祖から受けた家督を
どのような形で子孫に継承していくのかが
私のこれからの生き方の意味なのだと感じた
しかし、人は日常に流され
先祖の存在を、常に身近に感じることは
現代では難しいことでもある
だからこそ、節目を通じ
先祖の存在を自分の中に感じる機会が必要なのだ
最近、墓の存在を軽視する傾向も見られるが
墓を軽視することは
自分の存在や生き方を軽視することにつながるようにも感じる
お墓参りを大切にすることにより
自分をより大切にすることができるような気がした
これを機に
お盆や、お彼岸、法要に限らず
常に先祖の存在を身近に感じるために
常々、墓に足を運んでみようと決心した「盆」となった
「分家」の解釈
- 2010-07-31 (土)
- 先祖について
一時的ではあるが
本家の統制が及ばなくなり「別本家」として独立できた時期がある。
その別本家の初代が、それぞれ後に続く家督を築きあげ「御先祖様」になったのである。
これに対して本家が同地・同業を大きさに関わらず分け与えて新たに家を立てる風習は、あとから生まれたものであった
これは、すなわち「大家族の解体」の過程と言ってもいいだろう。
大家族の解体が積極的に行われてきた背景には
● 外部の経済組織の改新
● 解体を行った家長の知恵と才覚、そして並々ならぬ努力
が、あったのである。
一般的な解釈で言われる「分家」と「財産を分ける」ということが本格的に行われてきたのは、このころではないだろうか。
この分家にも「部屋隠居」と「異地・異職の別家」の二つの傾向があり
部屋隠居は、独立しにくく本家を中心にした結合した存在であり
別家は、何かと対立しやすい存在であった。
しかし、違う2つの意味をもつ「分家」は
時代の境目で、ニュアンスを少しずつ変えていき
その解釈の違いが、かぶる時代には
お互い「分家」の話をしていても、違う意味で捉えていた場合も多く
先祖の計画が中途半端となり、家の機能を発揮することがお互いに難しくなったりもした。
歴史とは必要があって(何かの原因があって)今に至っている
その原因を追究することなく
現代的な解釈を用いて語ると
時して危険を生じる結果にもなりうる
歴史を知り、解釈を深めることにより
回避できる問題もあるのではないだろうか…。
家の伝統
- 2010-06-30 (水)
- 先祖について
農民の多くは「家督」という言葉を、ほぼ「不動産」と同じ意味として理解している場合もあるが
「家督」と「不動産」は、全く同じではなく
何かモノ以外の「無形のあるもの」を一緒に相続する…という感じはあるようだ
それを言い表す言葉は、まだ生まれていないように思われるが
いつかはいい名称が生まれるのだろう
商人の間では、それを「暖簾」「得意」「信用」と言い
継承するものとして評価できるようになってきている
しかし、農家には、それより深い「何か」がありながら
適切な言葉がないことに対しては
私たちも、国語に対して自然に任せるのではなく
今後の課題として考えていかなければならないと思われる
仮に「伝統」という言葉を使って話を進めていく
(少し受身のような言葉にも感じられるが…)
「伝統」は、今存在する以上に、さまざまな角度から高めていき
次世代に伝えていくものであり
外からでも、耳と目によって存在を確かめられるものである
これは「家督」の中心ではないにしても
包むように周辺を取り囲んでいたように思われる
「諸道」や「職人」というものも
耕作以外の働きにより、交換して衣食住をまかなってきた
術芸や業務そのものに対する態度や
それを社会に役立たせようとするシステムなどを
家督の中心と考えるのがセオリーで
口伝、家伝という特別な教育法があった
これは土地のような「目に見える財産」の代わりに
商売などには、特に重要視されていた
それよりも顕著なのが
「役人」という階級だった
世襲の慣例が通っていたころは
これもまた立派な「家督」だったのである
土地などを相続するばかりではなく
役人や学者となって、完全な独立した家を新立することも可能であった
それは単に「伝授」と言い方に留まらず
受け継いできた者の意志や、子孫の理解が伴い
家門は、年代を超越した縦の結合体なのである
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