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聖徳太子 Archive

第九回 「聖徳太子」・・(平成18年11月1日)

今月からは、日本の仏教墓の歴史に大きな影響を与えたと思われる人物について、書いてみたいと思います。

最初は聖徳太子。

聖徳太子といえば、日本史上もっとも偉大な人物の一人として、信仰の対象にもなっている人物です。

イエス・キリストや釈迦にも似た出生譚に始まり、太子の血縁である蘇我氏と共に、仏教保護に努め、律令国家の礎を築いた人物とされています。四天王寺や法隆寺建立、冠位十二階・十七条憲法の制定、『三経義疏』等の著作を残し、『天皇紀』『国記』などの編纂事業といった歴史的な業績の他、全国各地に、聖徳太子建立とされる寺院があり、「豊聡耳皇子」と称される逸話等、多くの伝説が残されています。ただ、聖徳太子に関する史料は、720年に成立した『日本書紀』よる古いものは存在しません。『日本書紀』成立の時点で、既に聖徳太子没後100年近くが経っていることや、『日本書紀』以前に、既に聖徳太子ゆかりの建造物の多くが消失していることもあって、実際のところ、どこからどこまでが史実として認められるのか、定かではありません。それどころか、実在を疑う説も存在します。また学校教科書では、これまでずっと「聖徳太子」と表記されてきましたが、新課程では「厩戸王(聖徳太子)」となり、次期教科書からはついに「聖徳太子」の呼び名が消えることになります。

さて、これほどの伝説的な人物の逸話のひとつをこれから紹介するわけですが、記載のある史料は平安時代成立と思われる書物。当然ながら多分の脚色はあると思われますし、全くの作り話かも知れません。なので、聖徳太子に仮託された、当時の風習を知る史料として読むことも可能です。

聖徳太子は47歳の時に、生前に建立させていた自分のお墓に入って、お墓の形を見て、子孫断絶の形と判断し、細かに指図したという話(『聖徳太子伝略』)があります。このお話で注目すべき点は二つあります。ひとつは「墓相」という考え方が、少なくとも平安時代当時には存在したということ。そしてもうひとつは、生前に自分のお墓に入るという行為。これは現在でも、火葬場の開場式の際に、多くの人達が火葬窯に入る風習を連想します。仏教ではこのような行為を「逆修」といいます。いわゆる「生前葬」も逆修のひとつといえるのでしょうが、「生きているうちに自分の墓に入る」、つまり、一旦死んだことにして再生することで、それまでの罪が滅び、不幸の源はたたれるので、健康と幸福が得られるという考え方、もっと言えば民間信仰とも言える行為に繋がります。仏教の各宗派にも同様の行為があります。曰く「五重相伝」(浄土宗)・「伝法」(融通念仏宗)・「帰敬式」(浄土真宗)・「結縁灌頂」(真言宗)など、生前に法名や戒名を受ける行為。信州善光寺の「戒壇めぐり」などもこれに含まれます。温泉街や火山の観光地に間々見られる「○○地獄」や「地獄巡り」といった言葉にも、この考え方が含まれているのかも知れません。

聖徳太子の伝記として残された史料ですが、既に述べたように信憑性が疑われる説話でもあります。ただ、その真偽はともかくとしても、こうした擬死体験や行為に関する風習が聖徳太子に仮託されて語られる意味はなにかしらあるわけです。

日本に於ける仏教の、最初の偉大なる庇護者としての聖徳太子。擬死体験としての「逆修」という仏教儀式の普及活動のシンボルとして利用されたのかも知れませんね。

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