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多様化する死後

ここ最近、散骨希望者が増えているという

自分の死後、墓に埋葬することなく

骨は、粉砕して海や山に散骨する…

 

故郷の海に蒔いて欲しい…

誰にも迷惑をかけたくない…

 

その思いは様々だ

 

墓を持たない選択は

自分の死後、子孫がお世話に来てくれない不安や

その墓を守るという負担を軽減させたい

身寄りがいないので、無縁仏になるくらいなら散骨して自然に返る方がいいと、墓を所有するより、所有しないことにメリットを感じることで発生する

 

ほかにも、ファッション的な感覚で捉え

何にも縛られない自由な発想の終着点

と、いう考えもある

 

散骨に対する考え方は

ライフスタイルが、より個人的になってきている結果だろう

 

自分の体だから、最期はどうしようと自分の自由…

 

確かに、選択の自由もあるのだが

ここで少しデメリットも考えてみたい

 

自分の体や心が自分のモノであって

その選択は他人の意見の入る余地がない…という考えは

一見、自分で全ての責任を取る、素晴らしい考えにも思えるかもしれない

 

しかし、自分の人生は自分だけのもの…という考えは

物質至上主義特有の、目の前の出来事のみに関心を示す特徴のように思う

 

生命は、過去と未来…そして全宇宙の一部であるという考えでいくと

全てを自分でコントロールしてもいい…という考えには至らない

 

自分のモノのように見える体や心、所有する物質も

所詮、宇宙の一部であり、一時的に借りているものであり

その生命体は、先祖代々受け継がれて、存在しているものと考えると

自分の体だからと言って、独断と偏見で決めるのは少し違うようにも思う

 

自分の子孫が、自分が存在するこのと意味を

過去に遡り、先祖の存在を肌身で感じることができるなら

そこに思いを馳せる機会の提供としての墓の存在は

自分の自由意志で動かしていいものとは言えなくなってくるのではないだろうか?

 

お盆

今回は、お盆ということもあり
私の個人的な話で…
私は毎年、お盆になると
大きな霊園にて、お仕事をさせていただいている
このようなコラムを書く機会をいただいていることもあり
様々なことに思いをはせながら
お墓参りに来る人々を見ている
お墓参り…供養をする目的は
このコラムでも何度も書いているが
その目的を深く理解しなくても
家族で集い、世代が揃い、一緒に手を合わせることは
大変大きな意味があると思われる
お墓参りをすることは
自分ひとりで生きてはいないことを
意識上においても、潜在意識の中でも自覚することであり
先祖に感謝をし、子孫に残せるものを考える機会となる
宗教を超え、宗派を超え
自分の生きる過程が、人の支えの上に成り立っていることを思えば
日常生活の中における自分の立ち位置が自然と見えてきて
大袈裟かもしれないが自分の生きる道しるべも見えてくるような気がする
ある人が言った
「うちの息子は、自分勝手で、自分ひとりで生きていけるようなことを言い、周囲に対して感謝の気持ちがないように感じる。どしたらいいだろうか…」
若い頃には、よくある感情ではあるが
年を重ねるごとに、周囲に対する感謝が芽生えてくるものであるが
一概に皆が、そのような感情を持つとは限らない
かといって、「感謝をするように」と命令して
その感情が得られるものでもない
逆に押し付ければ、押し付けるほど、反発するのが常である
感謝をするには、先に感謝をされる環境に立つのが早い
と、何かに書いてあった
感謝を知らない人間は、感謝をされる喜びをしらない場合が多い
感謝を重ね、感動を重ね、愛する人々と感情を共有する思いを知る
その素晴しさを後世に伝え
今いる自分と、環境に感謝する機会が年に何度か存在し
先祖に感謝する…
家族が、この世に存在していてもいなくても
自分の存在が真実であることを伝えてくれるのは
結局、先祖の存在なのだと
お盆に思う機会がある人は幸せな人である

今回は、お盆ということもあり

私の個人的な話で…

私は毎年、お盆になると

大きな霊園にて、お仕事をさせていただいている

このようなコラムを書く機会をいただいていることもあり

様々なことに思いをはせながら

お墓参りに来る人々を見ている

お墓参り…供養をする目的は

このコラムでも何度も書いているが

その目的を深く理解しなくても

家族で集い、世代が揃い、一緒に手を合わせることは

大変大きな意味があると思われる

お墓参りをすることは

自分ひとりで生きてはいないことを

意識上においても、潜在意識の中でも自覚することであり

先祖に感謝をし、子孫に残せるものを考える機会となる

宗教を超え、宗派を超え

自分の生きる過程が、人の支えの上に成り立っていることを思えば

日常生活の中における自分の立ち位置が自然と見えてきて

大袈裟かもしれないが自分の生きる道しるべも見えてくるような気がする

ある人が言った

「うちの息子は、自分勝手で、自分ひとりで生きていけるようなことを言い、周囲に対して感謝の気持ちがないように感じる。どしたらいいだろうか…」

若い頃には、よくある感情ではあるが

年を重ねるごとに、周囲に対する感謝が芽生えてくるものであるが

一概に皆が、そのような感情を持つとは限らない

かといって、「感謝をするように」と命令して

その感情が得られるものでもない

逆に押し付ければ、押し付けるほど、反発するのが常である

感謝をするには、先に感謝をされる環境に立つのが早い

と、何かに書いてあった

感謝を知らない人間は、感謝をされる喜びをしらない場合が多い

感謝を重ね、感動を重ね、愛する人々と感情を共有する思いを知る

その素晴しさを後世に伝え

今いる自分と、環境に感謝する機会が年に何度か存在し

先祖に感謝する…

家族が、この世に存在していてもいなくても

自分の存在が真実であることを伝えてくれるのは

結局、先祖の存在なのだと

お盆に思う機会がある人は幸せな人である

波羅蜜

仏教では、大きな川を挟んでこちら側の岸を「此岸」といい

むこう側を「彼岸」という

 

こちら側の世界は「俗世」であり迷いの世界である

むこう側の世界は悟りの世界「浄土」である

 

その大きな川を渡り、悟りの世界へ行くことを仏教では大きな目標とし

この世で修行を積むのである

 

人は「大乗」か「小乗」に乗り川を渡る

「大乗」と「小乗」とは

文字通り、「大きな乗物」と「小さな乗物」ということだが

小乗は一人しか乗れない小さな船と考えていいだろう                                         

 

大乗は大きな船なので、多くの人を乗せることができる

その大きな船の船長が菩薩であると考えるとわかりやすいだろう

 

どちらにしても人が亡くなれば「彼岸」へ到達するのだが

何に乗って行くのかが大きな違いとなる

 

菩薩とは、自分だけ真理の追究を行なうのではなく

多くの迷える人々をも導き、真理を解き

誘導することも行なう崇高な魂であると言える

 

そしてその「菩薩」になるためには

六つの資格が必要である

その六つの実践科目が「六波羅蜜」である

 

「波羅蜜」は「波羅蜜多」とも書くが

この漢字に意味はなく

サンスクリット語の「パーラミター」の当て字である

パーラミターの元々の意味は「最高の状態」「究極理想の状態」と解釈されている

 

しかし中国や日本の仏教では伝統的にこれを

「彼岸へ到る行」や「さとりの世界へ到るための行」などと解釈されている

仏教で「六度」と言えば六波羅蜜のことである

その菩薩になるための条件である六波羅蜜は以下の六つである

 

1.「布施」…財施、法施、無畏施で、財産や物質を与えたり、真理の教えを説いたり、安心を与えること

2.「持戒」…戒律(ルール)を守ること

3.「忍辱」…苦難に耐え忍ぶこと

4.「精進」…たゆまず仏道を実践すること

5.「禅定」…精神を統一すること

6.「智慧(般若)」…真理を見極め、さとりを完成させること

宗教行事の矛盾

一般的に「神道」という言葉はよく使われている

しかし、その詳しい内容について語れる人は少ないのではないだろうか?

それもそのはず、この「神道」という言葉には

多くのニュアンスが含まれ、人によって、その場面によって

言葉の意味が変わってくるのである

 

大きく解釈して「日本の伝統的な民族宗教」を呼ぶ一つとして定着している感じがある

しかしその概念はかなり曖昧なものとなっている

 

人によっては、「古代日本の神々に対する信仰である」と言い

また、ある人によっては明治維新に始まった「国家神道」を思い浮かべる人もいる

 

また、そのような解釈ではなく

「神道」を「仏教」「儒教」「道教」「キリスト教」などと並べて

一つの単独の宗教として位置づけようとする概念があった

 

しかし、みなさんもご存知のように

日本の宗教というものは

さまざまな宗教の概念が複雑に入り乱れていて

その宗教にしても単独で説明をすることは不可能である

行事によって、取り入れる宗教も概念も目的も違えば

その宗教自体の最終目的や教えは日常に反映しにくいのも事実である

 

神道は、とくに仏教との関わりが深く習合しており

神仏習合という現象をもたらしている

神、仏、菩薩が、まるで一セットのように扱われ

厳密な違いを語れる人も少ないだろう

宗教の習合だけではなく

一人の人間が複数の宗教を信仰する(日常に取り入れる)形態もみられ

このような現象をシンクレティズムと呼ぶ

 

近年は、このような日本の宗教におけるシンクレティズムをふまえた「神道」の研究が盛んに行なわれており

新しい神道論を展開している

現代では、またさらに様相が変化してきていて

葬儀には仏教、結婚式にはキリスト教会や神前で行なう…といった

シンクレティズムが当然のように蔓延している

 

宗教とは、ざっくりした解釈をすれば「真理の追究」だと思われる

自分の中に見出すことができていない真理を宗教によって学び

人生をより有意義に、そして学びが多く自己成長を実現し、それを次世代に繋いでいく…

その過程における人生の大切な節目に、己が信仰する宗教の価値観に則りながら執り行ない、価値を改めて認識するようになっている

 

しかし、一人の人間の中に宗教のシンクレティズムが発生してしまうと

価値や教えの整合性が取れなくなり

結果として、表面的な模倣だけが行なわれることとなる

それは、もはや「真理の追究」ではなくパフォーマンスと言っていいだろう

パフォーマンスは、信仰ではなく自己表現…すなわち「我欲の追求」という、どの宗教でも否定しがちな矛盾が生じることとなる

 

宗教のシンクレティズムがあることは否定しない

人類はそうやって、自分の生活様式や、その土地に合わせて習合させ、変化させてきたのだから

しかし、それはあくまでも理念を理解してのことである

パフォーマンス的な模倣をするならば、教えに対しても理解する努力が必要だろう

そうなれば、それはパフォーマンスではなく儀式となり

その人の人生の大きな支えとなるはずである

自粛と物忌み

この度の、東日本大震災では

東北地方を中心に大きな被害があり、今なお多くの方が行方不明となっており

被災地では復興に向けて、力強く生きていこうとする人々の姿が報道されている

 

そして、被災地以外の人々は

その被害の大きさに驚愕し

1ヶ月を経過した今も全国的に自粛ムードが漂い

各地では、花見を中止するなど

「被災地では大変なのに、自分ばかり楽しんでいるわけにはいかない…」

と、いった雰囲気が漂っている

 

一方では、その自粛ムードが経済活動に影響を及ぼし

まわりまわって、復興資金を圧迫する原因になりかねないとして

過剰な自粛を避け、被災地以外の人は

日常生活を送れることに感謝をして

経済活動を奨励する動きも出てきている

 

自粛は、日本人が同じ国に住む仲間として

その心情を理解し、自分自身の気持ちを少しでも近づける優しさである

その優しさは、先祖を大切にしてきた私達の

そして、人類はみな同じ先祖で繋がっているという意識の現われではないかと思う

 

 

この「自粛」は、仏教でいうところの「物忌み」と似ているであろうかと思う

 

「物忌み」は、幅広い意味で解釈されることが多いが

辞書で調べてみると代表される解釈は下記のようなものである

《三省堂 大辞林》

(1)祭事において神を迎えるために、一定期間飲食や行為を慎み、不浄を避けて心身を清浄に保つこと。斎戒。斎忌。

(2)占いや暦が凶であるときや夢見の悪いときなどに、家にこもって謹慎すること。

「御―と言ひてければ、人も通はず/源氏(東屋)」

(3) (2) のときにその標として柳の木の札や忍草などに「物忌」と書き、冠・簾に付けたもの。物忌みの札。

 (4)昔、伊勢神宮をはじめ賀茂・春日・鹿島・香取などの諸大社で、忌みこもって神事にあたった童女・童男。

(5)不吉であるとして物事を忌み避けること。

 

とある。

この物忌みに関しては、門徒(浄土真宗の信者)が引き合いに出されることが多く

 

「門徒物知らず」という言葉は

門徒が、物忌みをしないことから

「門徒物忌み知らず」という言葉であったという説もある

 

現代では、あまり聞かれなくなった

「門徒物知らず」という言葉も解釈が様々で

 

他宗の人に言わせれば

「常識知らずで、決まりごとを行なわない」

という解釈にもなれば

門徒本人に言わせれば

「臨機応変に、対応するのが門徒のいいところ」

と、都合の良いように解釈している節もある

 

物忌みひとつでも、宗派や解釈によって様々である

 

自粛も、自分の心の赴く方向に

気持ちが、自分の納得のいく形で表現できれば良いのではないだろうか?

第二二回 「お墓とはなにか?」・・(平成19年12月1日)

 『文化人類学事典』(弘文堂)では墓について、「一つの文化・社会のいろいろな特徴が集中して表現されている場所」と書かれています。
 「お墓とはなにか?」を考えるに当たり、後世、中国文化や仏教の影響を受ける以前のお墓を見ることで、日本人本来のお墓に対する思いを知ることができる、それはひいては日本文化の特徴を知ることにつながるかと思います。
 ということで、時代を追って、古代日本のお墓について考えていくことにしましょう。 

【縄文時代のお墓】 縄文時代の遺跡として、いろいろな意味で定説を覆して話題になった、青森県の三内丸山遺跡があります。
三内丸山遺跡については、多くの書籍によって紹介されておりますので、詳細はそちらに譲りますが、ここで注目したいのは、「二列の集団墓群」です。
 三内丸山遺跡は、1994年8月に、野球場と公園の建設が中止され、かなりの遺跡がつぶされた後に残ったものです。
そして、現場からは大量の縄文土器や遺構と、道の両側の斜面に向き合って、整然と二列に並ぶ約100基の土坑墓がありました。
 発掘当初、この道の長さは約50m、道の両側の斜面に、向き合って整然と二列に並ぶ約100基の土坑墓がありました。
この道幅は15mもあり発掘現場の中央を東西に貫くメインストリートです。
 その後の発掘で、この道は約500mほど確認され、その先は海まで続いていると推測されています。
 集落の中央を貫く、大きな道。そしてそれは海へと伸びている。それだけを見ても、この道は、三内丸山遺跡の集落にとって、極めて重要なライフラインであることがわかります。
その重要な道の両側に、どうしてお墓が作られていたのでしょうか?
 もし、死者を忌み嫌い、怖い存在と捉えていれば、墓地は集落から隔離された場所に置かれるのが普通ではないでしょうか。学術的な見地からは、この墓地の意味について特に語られてはいないようですが、少なくとも、三内丸山の集落においては、縄文人は死者を忌み嫌う存在としては捉えていない、そう感じさせられます。

【弥生時代のお墓】 佐賀県吉野ヶ里遺跡は、内外二重の堀に囲まれた環濠遺跡です。
その面積は約30ヘクタールもあり、このため「邪馬台国」の跡ではないか、とさかんに騒がれました。この遺跡は、三内丸山遺跡よりも約3000年後、今から2200年ほど前の弥生時代のものです。
 この遺跡のお墓の特徴は、以下の通りです。

・北九州一帯に特有の埋葬法である、大人用の「甕棺」が2000基以上出土したこと。

・二列になった墓列(列状墓群)がある。

・古墳時代の原型と見られる墳丘墓が二列の墓群の北側にあること。

・集落の北側に出入口と道があり、墳丘墓の横から列状の埋葬地を抜けて居住区へと続いています。

 三内丸山遺跡と共通しているのは、埋葬地が、居住区と隣接している、しかも集落の中でも比較的重要と思われる位置にある点です。
これは、古代日本人が、「死者も生きている人たちとともに暮らしている」という考えを持っていたことを示しているのではないでしょうか。
 墳丘墓の存在は、この時代には身分差がはっきりと存在していたことを示しています。
吉野ヶ里を訪れる当時の人々は、まず墳丘墓(おそらくは過去の集落の長たちでしょう)に触れ、続いて集落のご先祖様たちの間を抜けて、それから集落の人々と接することになります。
逆に集落から出て行く人たちは、最後に墳丘墓を抜けて外に出て行きます。
このことは、墳丘墓に眠る人たちに対する敬意を示した構造だと考えられないでしょうか。

 大人用の「甕棺」が多く出土するのは北九州一体です。子供用の甕棺は、ほぼ全国の縄文・弥生遺跡より出土しています。
また、中国大陸でも、新石器時代より前漢末期くらいまではさかんに利用されています。
また朝鮮半島からも出土していることから、子供用の甕棺については、中国大陸の影響を見ることができます。
 北九州で出土する甕棺には、二次葬・複葬といって、一度骨にしてから改めて甕棺に収められたものがあります。
 こうした、大陸文化の影響である甕棺に納める行為、二次葬・複葬といった、手間のかかる埋葬こそ、「死体を大切に扱っている」ということの証明になると思います。

 そして、吉野ヶ里遺跡からは、多くの副葬品も出土しています。
副葬品は、一般的には権力の誇示・象徴とされておりますが、もっと現実的に考えてみると、「死後の世界」のために収められているものだと思います。
そもそも、土の下に埋められてしまうものですから、後世の人々に対して誇示することなどできないでしょう。
 現代の私達が棺桶に納める品として、お花などの供物の他に、杖や草鞋、死装束、小銭を副葬品として納める習慣があります。これらはいずれも、死後の旅のために必要な品々として納められています。
 副葬品があるということは、「死後の世界」の存在を信じている、ということの具体的な証拠になるかと思います。

 このように見てきますと、縄文・弥生の古代日本人は、死者を大切に扱い、死後の世界の存在を信じていた、言えるのではないでしょうか。

 

 

第二一回 「無縁仏からみる社会の歪み」・・(平成19年11月1日)

9月23日の北海道新聞に、下記のような記事が掲載されました。

 

********************
(以下抜粋)

 事故や病気で亡くなっても縁者に引き取られない無縁仏が、道内の都市部で増えている。札幌市では、無縁仏として引き取った遺体の数が昨年度、過去最多になった。秋の彼岸、だれにも供養されることもなく眠る死者たち。遺族に代わって遺体を弔う葬送業者は、言いようのないやりきれなさを感じている。「親族のきずなはどこに行ったのか」-。  札幌市中央区のある葬儀会社の職員は、穏やかな表情で眠る80代の女性をゆっくりとひつぎに移した。
 同社は、札幌市の委託を受けて無縁仏を弔う唯一の業者だ。
女性の親族が遺体の引き取りを断ったため、同社が市役所への手続き、火葬、墓地までの遺骨の運搬を代行した。
 札幌市が2006年度に無縁仏として引き受けた遺体の数は、統計を取り始めた1992年以来最多の25体。札幌に次ぐ大都市の旭川市も21体と、過去5年で最多になった。
道保健福祉部の調べでは、札幌、旭川、函館を除く全市町村では計16対にとどまっており、都市部での多さが際立つ。
 もともと天涯孤独だったり、身元がわからなかったり理由はさまざまだが、最近は「家族や親類が引き取りを断るケースが、以前より目立つようになった」 (旭川市福祉総務課)という。
 親族の人間関係が希薄になっている-。同社職員は、そう考えざるを得ない光景を何度も目の当たりにした。遺体を前にして「私は引き取りたくない」「おれもいやだ」と問答している親族たちの姿。何のためらいもなく、市に引き取りを頼んだ人もいた。「社会のゆがみを垣間見た思いがしましたね」。職員は振り返る。
 札幌市の場合、遺骨は同市豊平区の平岸霊園の納骨堂に三年間保管し、引き取り手が現れなければ、墓を持たない遺骨を納める隣接の「納骨塚」に合葬する。
この間に、縁者に引き取られている遺骨は「極めて少ない」(札幌市保護指導課)という。

 平岸霊園の納骨塚には8月末現在、2,557体が納められ、うち256体の無縁の霊が眠っている。

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 無縁仏とは、亡くなった人を弔う親族縁者が途絶えてしまったことで、お墓の継承者がいなくなり、 ]また、後に入る人も墓参する人もいなくなってしまったお墓のことです。
 高度成長期に、国内における人の移動が激しくなり、これに伴って、地方に残されたお墓が多くなりました。
はじめの頃は休みを利用して参拝に来ていた親族も、移住先での生活が長くなるにつれて、徐々に足が遠のき、やがて守る人も途絶え、荒廃してしまったお墓が数多く見受けられます。
 また、逆に都会で生活している人にとっても、少子化に伴って、跡継ぎがいなくなってしまった、あるいは子孫が離れて生活しているなどの理由で無縁仏となってしまったお墓も多く見られ、こうしたお墓は、東京都内の主要霊園だけでも、全体の1割を超えるといわれています。
 平成11年3月に改正された「墓地、埋葬等に関する法律」では、墓地の使用者が死亡、あるいは管理料未払いのまま3年間放置した場合、「無縁墳墓に関する権利を有する者に対し、1年以内に申し出るべき旨を官報に掲載し、かつ無縁墳墓等の見やすい場所に設置された立札に1年間掲示して公告し、その期間中にその申し出がなかった旨を記載した書面」を当該役所に提出すれば無縁墓地を整理することができるようになりました。
 従来は、墓地使用者と死亡者の本籍地、住所地の市町村長に照会し回答を得ること、また、2種以上の新聞に3回以上公告を出し、申し出がなければ処理することができるという流れだったことを考えると、大幅にシステムが簡素化されたといえます。
 この背景には、上記のような無縁墓地の増加が、深刻な問題になってきたという事実があるのです。

 このような守る人の絶えたお墓の他に、さらに深刻な問題として、冒頭の北海道新聞記事のような、引き取る親族がいない、あるいは親族が遺体引取りを拒否するといった事例が増えてきていることが挙げられます。
 これにはさまざまな事情が考えられます。
 たとえば、葬儀費用の問題もあるでしょう。データは古いのですが、1990年代中期のアメリカの葬儀費用は、当時のレートで平均約44万円、ドイツの場合は約18万円です。ところが、日本の場合は、日本消費者協会のアンケート調査(「葬儀についてのアンケート調査」平成15年9月)によると平均236万円という金額になります。この数値の信憑性を疑う意見もあるものの、それでも各葬儀社のサイトを拝見しますと、最低でも100万円は必要だな、という印象です。
加えて、日本は世界的に見ても、少子高齢化の進行が進んでいますので、遺族一人当たりの負担も欧米に比べてはるかに大きいと言えるでしょう。
また、香典は「本来、葬儀費用をたくさんの遺族知人が分担してまかなう」ことが目的だという話を耳にしたことがあります。
社会生活の変化に伴い、地域に密着しない生活、親族と遠く離れた生活が当たり前になってくると、変な話ですが、それだけ、香典の金額が減ってしまうことにもなります。
 まさに現金な話ですが、こうした金銭的な負担の問題が、まったくないとは言い切れないでしょう。

 もちろん、他にもさまざまな問題もあります。地縁血縁の薄れなど、人間関係の変化というのは、やはり看過できない問題なのだろうと思います。こうした問題は、社会の変化や考え方の変化など、さまざまな要因が考えられるのでしょう。その善し悪しを判断することは、私にはできません。
 ただ、葬儀に関わる業者の一人として、時代の要請に応じた葬儀について、考えていくしかないのだと思います。

第二十回 「叡尊・忍性」・・(平成19年10月1日)

宇治浮島十三重塔

宇治浮島十三重塔

 叡尊は鎌倉時代中期の真言律宗の僧で、奈良西大寺を復興した僧として知られます。はじめ高野山に真言密教を学び、のち戒律の復興を志して西大寺の僧となります。 その後、東大寺で自誓受戒し、海龍王寺を経て西大寺に戻り、律宗を復活させました。 貴賤を問わず広く帰依を受け、鎌倉幕府より招かれて鎌倉に下り、広く戒を授け、律を講じました。また、国分寺や法華寺の最高にも努め、尼への受戒も再開しました。

 忍性は、はじめ母の遺言によって出家し、勧進聖として西大寺再建に加わった際に、叡尊と出会い、弟子入りします。弟子入りしてすぐに出家の儀式をやり直し、叡尊の元で一から教学を学び直します。その一方で常施院を設け、ハンセン病患者救済の他、様々な社会事業に取り組み、会わせて律宗の布教にも取り組みます。 その後関東に赴き、北条市の信頼を得、北条重時の葬儀を司り、師の叡尊と共に極楽寺を中心に活動を展開しました。また、重源の後を承けて、第十四代の東大寺大勧進にもなっています。

 

 さて、彼ら子弟は、重源の活動を奈良で目の当たりにしていたはずです。彼らと重源との間に、直接的な師弟関係はありませんが、「舎利信仰」継承という点では、きわめて強い精神的つながりがあるように思われます。二人は、多くの石塔や舎利塔の建立に寄与しましたが、その根底に重源の舎利信仰・舎利塔信仰の影響があることは否定できないでしょう。

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宇治浮島十三重塔

二人が関わった石塔・仏塔について、いくつかあげてみましょう。
 まずなんと言っても有名なのは、国の重要文化財である、「宇治浮島十三重塔」でしょう。京都宇治、平等院鳳凰堂前の浮島にそびえるこの塔は、高さ約15mの花崗岩製で、全国一の高さを誇っています。

 

 

 

 

 

これは、叡尊が宇治橋再興の際に建てた供養塔で、尹行末の造った般若寺の十三重塔と並び称される、鎌倉時代の名品です。 この塔は、江戸時代半ばに、洪水で流失しましたが、明治時代に川中より発掘され、一部を補ってはいるものの、ほぼ当時の姿でそびえ続けています。

西大寺奥の院の五輪塔

西大寺奥の院の五輪塔

同じく国の重要文化財である「極楽寺五輪塔」は、鎌倉型五輪塔の最高傑作とも称され、高さ4m弱、安山岩製で、関東では最大級の五輪塔です。

これは忍性の墓として、彼の没後すぐに建てられたとされています。これと同類のものが、叡尊の墓として西大寺奥の院にもあります。 また「箱根山五輪塔」と称される3基の五輪塔は、一般に曾我兄弟の墓と言われておりますが根拠のない俗説で、近くにある「箱根宝篋印塔」と共に、忍性を中心とした、この地方の「地蔵信仰」によって生み出されたものです。五輪塔の背面には「右志者、為地蔵講結縁衆等、平等利益也、永仁三年十二月」の銘文があり、また正面には地蔵菩薩立像が彫られていることからも、そのことがわかります。

 

箱根山五輪塔

箱根山五輪塔

 

 

 

 

箱根宝篋印塔
箱根宝篋印塔

 ちなみに、兵庫県丹波地方には「五輪塔は地蔵様を現している」という伝承があるそうです。 忍性を中心に生まれた地蔵信仰ですが、この信仰は、恐らくは当時の石工達あるいは勧進僧によって広められたのではないでしょうか。 嘗て重源が率いた石工達は、叡尊・忍性に受け継がれました。 また、東大寺の勧進事業も重源から忍性へと引き継がれています。 そして重源の小野別所は兵庫県にあります。 こうした歴史的な事実から、重源・叡尊・忍性は、舎利信仰・地蔵信仰を背景に、最新の石材技術を日本全国へと普及させたことに、 大いに寄与したと言えます。お墓としての五輪塔の全国への伝播に、彼らの果たした役割はきわめて大きいと言えるでしょう。

第十九回 「閑話休題」・・(平成19年9月1日)

さて、北海道の夏といえばお盆まで。とはもう過去の話ですね。まだまだ暑い日差しが照りつける毎日です。お盆休み、みなさまもそれぞれにお墓参りに行ってこられたかと思います。私も両親の実家のお墓、親戚のお墓、友人のお墓など、いくつか回ってきました。その際、ここのところずっと書いている「五輪塔」を探してみたのですが、結局見つけることができたのは一基だけでした。 (写真)

 

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一応、他人のお墓なので、望遠でこっそりと撮影してきたわけですが、やはり北海道という地域性もあるのでしょう。明治以前の長きにわたってお墓の定番スタイルであったという五輪塔は、ほとんど見ることができませんでしたね。 明治以降になると、現在のお墓のスタイル-棹石を中心に据えるお墓-が普及します。こちらについては、まだ勉強不足なのですが、以下想像を書いてみますと… ・石材の加工技術の向上・石材を使ったお墓の普及こうしたことが理由となって、五輪塔に替わって棹石が普及したのか、と感じています。

つまり… まず、加工技術が向上したことによって、直線的なデザインの加工が可能になったということがあげられるでしょう。石といってももちろん天然素材なわけですし、花崗岩は雲母や石英など、複数の結晶の集まりですから、長い直線に加工することは非常に大変です。その点、五輪塔は、丸や三角など、複数の立体を組み合わせた構造のお墓ですから、長い直線部分はあまりありません。加工技術の向上によって、シンプルなスタイルのお墓の作成が可能になったことで、棹石スタイルが普及し得たと言えると思います。また、明治維新後、身分差が解消され、多くの人々が石材のお墓を建立することが可能になります。公営の墓地も多くなり、様々な人々がお墓を持つことができるようになります。すると、当然たくさんのお墓が立ち並ぶわけですが、そうなると自分のお墓がすぐにわかるような形、が必要になってくるのではないでしょうか。その点、棹石スタイルですと、「○○家之墓」と大書することができますので、遠くからも自分のお墓を用意に見つけだすことができます。また、価格の問題もあるでしょう。加工技術が向上する、つまり加工用の機器が利用されるようになると、今度は複雑な形状の五輪塔よりは、シンプルな棹石の方が、価格面では安くなります。まぁこういった理由で五輪塔に替わって棹石のお墓が普及していったのでしょうね。

それにしても、どこの墓地もそうですが、カラスが本当に多いですね。やはり、食べ物をお供えする文化がある以上、どうしてもその食べ物を狙ってカラスなどが集まってくるのは致し方のないところですが、お供え物が荒らされていたり、カラスの糞でお墓が汚れているのは、やはり見ていて気持ちの良いものではありませんね。お仏壇と違って、毎日お墓に向き合うことは、ほとんどの方にはないと思います。めったに来ないからこそ、見ていないときにどんどん汚れていくのを、少しでも防ぐ方法はないものか、ちょっと調べてみていずれかの機会に書いてみようか、とも思っています。

さて、次号からは再び五輪塔のお話を書いていきます。鎌倉時代に入って、日本のお墓文化として広く根付いていく様子をとりまとめてみたいと思います。

第八回 「宗派とお墓」・・(平成18年10月1日)

さて、今回は各宗派に見られるお墓の特徴を書き記してみようと思います。既に書いてきたように、宗派にはそれぞれ、主眼とする教えがありますので、当然、お墓にもその教えが様々な形で反映されています。なので、それぞれの宗派の教えも改めて書きながら、お墓について書いていきたいと思います。

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(一)天台宗のお墓

 伝教大師最澄によって開かれた天台宗は、先にも述べたように、総合的な仏教修行を目指した宗派で、仏教の本来の目的である自己の解脱を求める修行をおこなうと共に、南都仏教への対抗心もあったのでしょう、学問的な分野にも力を注いでいました。その中でも法華経と浄土教が重要な位置を占めており、「朝法華夕念仏」という言葉があるほどです。 いわゆる鎌倉仏教とひと括りにされる宗派は、ほぼ、この天台宗から生まれた宗派で、それはつまり、鎌倉仏教のお墓にも大きな影響があるということになります。

 天台宗の本尊は「釈迦如来」「阿弥陀如来」「薬師如来」「大日如来」などですが、お墓の棹石に梵字(種子)を入れる場合は、阿弥陀如来を意味する「キリーク」か、大日如来を意味する「ア」を入れます。棹石正面には「○○家之墓」と彫らず、「南無阿弥陀仏」と入れることもあります。 天台宗では『法華経』を最高の教えとしています。その法華経には「仏塔を造り、供養すると無量の功徳がある」と何度も書かれているといいます。天台宗の良源という僧が、お墓として石塔婆をはじめて作らせたということですが、これは法華経の教えに基づいた行為だと言えるでしょう。その後、支配階級のお墓を中心に、天台宗のお墓には「宝篋印塔」が建てられるようになります。 先に述べたように、天台宗は、今の私たちのほとんどが属している、鎌倉仏教の元になった宗派です。それはつまり、各宗派のお墓も、この天台宗のスタイルが元となっているということを意味します。

(二)真言宗のお墓

 真言宗の最終目的は、即身成仏、つまり現世において成仏することにありました。そのため、空海自身を含めて、非常に現実を肯定する考えが強かったように感じます。 ところが時代は下り、平安末期になると浄土教の教えが貴賤を問わず広まります。この時代の風潮に応じて、真言宗総本山の高野山にも「真言念仏」の集団が数多く生まれます(高野聖)。その中で現れた、真言宗中興の祖ともいわれる覚鑁上人は、日本のお墓のスタイルに多大な影響を与えました。すなわち「五輪塔」です。覚鑁上人は五輪塔を「成仏と往生を表現する」という基本コンセプトを構築したのですが、この考え方は、日本の全ての仏教的なお墓の基本となり、その形は「塔婆供養」に使われる「板塔婆」として現代にまで伝わっています。また、江戸時代頃までは、お墓といえば五輪塔を意味するほどに普及していました。 棹石に梵字を入れる場合は、本尊の大日如来を表す「ア」を入れ、棹石に、お題目の「南無大師遍照金剛」と入れる場合もあります。

(三)浄土宗のお墓

 鎌倉仏教の先駆けとも言える浄土宗は、その当時、世間に流行していた浄土教を受けて生まれました。 余談になりますが、インドでは「八万四千の法門」と言われるほど、仏教には多くの教えがあります。その中のたったひとつの教えだけを取り出して「これだけでいい」と言いきったのが、法然をはじめとする鎌倉仏教の創始者達です。これは、世界の仏教史の中でも大変画期的なできことといえます。

 さて、浄土宗の宗旨は、人が亡くなって極楽往生することにあるため、伝統的に葬墓に熱心で、組織的に葬墓の習慣を民衆に広めていきました。その元になっているのは、天台宗と真言宗のお墓です。 具体的には、卒塔婆供養や五輪塔を取り入れ、棹石に梵字を入れる場合は阿弥陀仏を表す「キリーク」を入れます。また、棹石には「南無阿弥陀仏」「倶会一処」の言葉を入れる場合もあります。

(四)禅宗のお墓

 禅宗は、座禅によって、人には本来、仏と同じ本質があることを自覚し、それぞれがお釈迦様と同じ悟りを得ようとする教えです。 禅宗が日本の葬墓に与えた影響は小さくありません。中国の禅宗寺院には「清規」と呼ばれる僧堂の生活規則がありましたが、この中の葬儀・法要に関する規則が、禅宗のみならず、他の宗派にも取り入れられました。また、「位牌」を日本に伝えたのも禅宗です。

 禅宗のお墓には五輪塔を建てる場合もあります。棹石には「円相」という「○」を入れます。これは完全なる悟りの境地を表したもので、すなわち成仏したことを意味します。また、棹石正面に「南無釈迦牟尼仏」といれることもあります。

(五)浄土真宗のお墓

 「門徒もの知らず」という言葉があります。これはどういうことかというと、門徒、つまり浄土真宗は他の宗派とはかなり違った習慣や考え方があることを示しているのです。 よく指摘されるのは、「卒塔婆供養をしない」「戒名がない」「仏壇には位牌をおかず法名軸をかける」「法名には院殿号・道号・霊位をつけない」「水子地蔵を建てない」「五輪塔を歓迎しない」「梵字・真言を使わない」などです。ただ、真宗のお寺さんが良く言う台詞に「気持ち」があるように、「思い」「信心」をとても大事にする宗派です。そのため、多くのスタイル対して寛容に思われます。 例えば、親鸞の死後、亡骸は京都東山で荼毘に付されましたが、埋骨跡には五輪塔が立ちました。そのお墓を覆う廟堂が建てられ、このお堂が本願寺の発祥なのです。

(六)日蓮宗のお墓

 日蓮宗と言えば「南無妙法蓮華経」というお題目が連想されるほどに、このお題目は日蓮宗と深く関わっています。それは法華経の教えを凝縮した「南無妙法蓮華経」を唱えること、同時に生死に関わらず「南無妙法蓮華経」を聞くことによって、「即身成仏」し「霊山浄土」へ「往詣」する事ができると教えられているからです。 日蓮のお墓に対する教えをまとめると、墓前でお題目を唱えることによって、その功徳を亡き人に振り向けて即身成仏させ、亡き人の菩提を弔い、霊山浄土に往詣させるということになると思われます。そのためには、まずお墓がなければなりません。日蓮自身も、自分が死んだ際には身延山に墓を建てて欲しいと遺言したように、お墓を建てることに対しては、とても重要視しています。

 さて、日蓮宗のお墓の特徴は「題目塔」です。棹石に「南無妙法蓮華経」と「ヒゲ題目」と呼ばれる独特な文字が入れられています。また棹石上部に「妙法」と入れる場合も多く見られます。また五輪塔には「妙法蓮華経」の五字を入れたものもよく見られます。

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