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白村江の戦い

660年(斉明6年)に唐と新羅の連合軍によって百済が滅ぼされた

斉明天皇のもとには百済で抵抗運動を続けている
鬼室福信(きしつふくしん)から援軍派遣の要請が届き
日本にいる百済の王子である豊璋(ほうしょう)の帰還も求めてきた

斉明天皇は古くから親交のある百済の危機を救うために
自ら兵を引き連れて筑紫の朝倉宮に入った

しかし、いざ軍を百済に送ろうとした矢先に
斉明天皇は病に倒れて崩御してしまう
そのため、兵の百済派遣は一旦中止せざるをえなくなった

斉明天皇からあとのことを任された中大兄皇子は
その翌年に豊璋を百済の王として帰還させて
軍事的支援も継続することにした

だが豊璋と鬼室福信の関係がこじれてしまい
鬼室福信は殺害されてしまった

その内戦の隙をついて
新羅の軍が一気に攻めてきた

663年(天智2年)に中大兄皇子は玄界灘を越えて
大勢の軍を百済に向かわせた

一方、白村江には唐の水軍が船団を構えて陣を敷いた

両軍の激しい戦いの始まりだった

しかし、最新の船と武器を備える唐にとって百済は敵ではなかった
2日間の戦いで日本軍は大敗退してしまい、百済の復興はかなわなかった

勢いに乗った唐が日本に侵略してくると予測される中
国土の防衛のために
中大兄皇子は対馬、壱岐、筑紫に防人とのろし台を置き
九州の大宰府に水城を置いた
亡命してきた百済の人を組織して瀬戸内海沿いに山城も建てた

海から遠い近江に都を移したのも
唐の攻撃を考えてのことだったのだろう

斉明天皇が崩御してから7年後に
中大兄皇子は第38代天智天皇として皇位に就いた

戦いに敗れた衝撃は重く
天智天皇の課題は必然的に富国強兵となる

中央集権化をより強固なものにして
徴兵のために日本で初となる戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成した

法律によって国土を支配する律令体制確立のために動き出した

聖の特性

日本を代表する民族学者である五来重氏は著書の中で

聖には「隠遁性」「苦行性」「遊行性」「呪術性」「世俗性」「集団性」「勧進性」「唱導性」などの八つの性格がある

と述べている

その五来重氏の著書から、聖の特性について引用する

「…このような宗教者には、呪力を身につけるための山林修行と、身のけがれをはらう苦行があった。これが山林に隠遁すり聖の隠遁性と苦修練行の苦行性になる

原始宗教では死後の霊魂は苦難に満ちた永遠の旅路を続けると考え、これを生前に果たすために巡礼が聖の遊行性となる。

こうした行から得られた呪験力は予言・鎮魂などの呪術に用いられるので、聖には呪術性がある。

また原始宗教者は一定期間、山伏の夏行や入峯修行のように、何ヶ月か隠遁と苦行のきびしい掟があるが、それ以外は妻帯や生産などの世俗生活を営むので、俗聖と呼ばれる世俗性がある。

なお原始宗教ほど信仰を内面的な質より作善(宗教的善行)の数量ではかるので、多数者による多数作善を重んじるため、集団で作善する集団性がある。

多数者の集団作善は大衆を動員して道や橋をつくり、寺や仏像をつくる勧進に利用されるので、仏教化した聖の最大のはたらきは勧進性であった。

勧進の手段として説教や祭文などの語り物と、絵解と、踊念仏や念仏狂言などの唱導をおこなう。これが聖の唱導性だがこれが庶民文学や民間芸能となって日本文化に寄与したのである」

別所について

「…比叡山、高野山、東大寺、興福寺などの周辺に多くの別所があって、本寺の研学や修業の過程から堕落した念仏者や、みずから念仏往生をねがう僧や聖が隠遁した。

比叡山には、七別所があり、西塔の北谷、黒谷別所からは法然が出るが、大原別所からは良忍を出した。大原別所の聖たちは高野聖との往来が最も多く、融通念仏という集団多数作善の方法を案出して、盛んに勧進活動を展開する。

一方、高野山にも多数の別所があり、天野別所とともに莫大な高野聖を擁した。

東大寺は南山城の光明山別所が有名で、永観、重誉、実範、心覚、明遍などの著名な念仏僧が隠棲したが、心覚と明遍はもう一度高野山に再隠遁して高野山の中心人物となった。

また興福寺の別所に南山城の小田原別所があり、教懐も高野山に来て、小田原別所聖とよばれて初期高野聖の祖となる。」

十王信仰

中国の十王信仰は

「地蔵十王教」に初めて出てきている

これはインドでできた経典ではなく、中国撰述、擬教と呼ばれる

中国で唐代の末頃に作られたお経である

 

この経典の中に「冥途の旅」のことが書かれている

 

中国の特色として

生きている人はもちろん、死後の苦しみを救うことが

地蔵菩薩の大きな使命であり

これは日本に渡ってきた時にも、そのまま当てはまる現象が起きていた

 

「冥途の旅」と「十王信仰」をならべる

 

初七日(第1週)…亡者は死天山に到って秦広王の裁きをうける

 

二七日(第2週)…三途の川を渡る際の奪衣婆や懸衣爺によって災難を受け、初江王の宮殿で裁かれる

 

三七日(第3週)…悪猫や大蛇によって苦しめられるが、宋帝王によって助けられる

 

四七日(第4週)…五官王の前に呼び出されて、秤量舎で罪業の重さを計られて、勘録舎へ廻される

 

五七日(第5週)…35日目には、浄頗梨の鏡の前で閻魔大王の裁きを受ける。しかし、本来地蔵菩薩なので、善悪の業の報いは裁定するが、地蔵の誓願を信じたものだけが乗れる船は必ず彼岸へ到る

 

六七日(第6週)…変成王の裁きを受ける

 

七七日(第7週)…四十九日には太山王が亡者の二枚舌の罪を裁くが、亡者はその苦痛から追善を求める

 

百ヵ日(第8関門)…平等王の前に呼び出されて教化されるが、追善作善の功徳を受けた者は、その妙善によって天堂を見ることができる。

 

一周忌(第9関門)…都市王は亡者を哀れんで、多くの経典の中で法華経が第一であること、そして多くの仏の中では阿弥陀仏が第一であることを教え、法華経を写し、阿弥陀仏の仏像を造れば、その追修の福によって、亡者は金人にのぼることができる

 

三回忌(第10関門)…五道転輪王は、邪な考えや勝手気ままでしまりのない行い、あるいは仏教の正しい教えを知らないためにつくった禍や罪が、車輪のように廻って、亡者はいま、畜生、餓鬼、地獄の三悪道の獄にしることを教える

死者を埋葬する意味

人類で最初に死者を埋葬したと思われるのは

ネアンデルタール人であると考えられる

 

ネアンデルタール人の埋葬が人類のお墓の原点のようである

 

人と違い、動物は埋葬儀礼という文化を持っていない

 

そして、人はこの埋葬という行為から

死後の世界と人の交換という「宗教」を生み出した

 

そして、意味や価値を共有している社会の中で

さまざまな交換が行なわれている

 

シンボルは、価値があるから交換できるのではなく

交換できる社会があるから価値が生まれるのである

 

ネアンデルタール人は、今から6万年前に存在していたと推定されている

その調査をアメリカのコロンビア大学の人類学のラルフ・S・ソレッキ教授と、その妻である考古学者のローズ夫人が10年間に渡ってネアンデルタール人について調査を行なっている

 

その調査でわかったことの中に

ネアンデルタール人が埋葬の際に死者に花を飾っていたというのである

 

今でこそ、死者に花を捧げるのは一般的なことなので

ネアンデルタール人が死者に花を飾っていたとしても

不思議に思わないかもしれないが

しかし、なぜ花を飾ろうと考えたのかを探っていくと

そこには、宗教的な交換構造を垣間見ることができる

 

先ほども書いたように

動物は、埋葬する…という習慣を持っていない

埋葬は、人だけが行う行為なのである

 

埋葬するのは、臭いからでも不衛生だとかいうネガティブな理由ではない

ネガティブな理由であれば、花などは飾ったりしないだろう

 

花を飾る行為には

死者(遺体)に価値を見出していたからだろう

 

その死者に、価値を見出す社会の交換構造がある…ということである

 

その価値とは、古い命と新しい命の交換である

新しい命は、たとえ母親のお腹を経由してきたとしても

古い命を、浄化して価値を高めることにより

あの世から送られてきたものとして考えられる

 

つまり死者を「あちら側」の世界に送り出すことにより

新しい命…つまり赤ん坊を「あちら側」から送ってもらうのである

 

人は死んでしまえば、単なる骨と蛋白と、脂肪の塊に過ぎない

 

死体は、交換されることで、それ自体価値を持つことになる

だから大事にする

そして、その価値を人々は「魂」と呼ぶようになるのである

 

あちら側の存在に死者を送ったことを伝えて

新しい命を送り返してくれることを求めて

儀礼として、埋葬を執り行なったのである

「霊」と「霊魂」について

一般的に「霊」や「霊魂」という言葉はよく使われているが

実際に何のことを指しているかについて具体的に説明することは難しいだろう

 

「霊」は、死んだものから抜け出した「魂」と考えられる場合が多く

子どもなどが使う「おばけ」というのも、この「霊」に該当する場合がある

 

よくテレビなどで霊媒師が登場し

霊を憑依させ、会話をする…などといったものが行なわれていたり

「霊がたたる」といって、お払いをするものがいたり

その解釈によっても、「霊」のニュアンスは多少違ったものになってくる

 

ここでは、「霊」は存在するのか、しないのか?

といった検証をするつもりはない

 

この「霊」というものは、一体どのように考えられていた存在なのかを説明していきたいと思う

 

私達は、お墓参りをする際、もしくは仏前に手を合わせる際

自然と心の中で、対象となる故人に向かって話かけている場合が多い

「安らかにお眠りください」

「安らかに往生してください」

「ご冥福をお祈りします」

「私達を見守ってください」

などが多いだろう

 

その声を掛けている相手が、「霊」であると考える場合が多い

それは、「霊」の存在を感じて行なっている儀式ではなく

(感じている人もいるのかもしれないが…)

頭の中で、その存在を信じて声を掛けている

もしくは、そうするものだと慣習になっているものなのだろう

 

お墓や位牌に、故人がいると信じ

その故人に向かい、自分の気持ちを伝えることで

先祖とのつながりを感じることができれば

それはそれで、幸せなことなのである

 

古代中国や朝鮮半島では

その故人に話しかける「なにか」を「霊」や「霊魂」と呼んでいたので

そのまま日本でも、そう呼ばれるようになったと考えられている

 

さかのぼって、インド仏教では本来「霊」や「霊魂」の存在は考えられていなかったようだが

生まれ変わる場所を示す「六道輪廻」という考えがある

中国では、「霊」の存在がなんとなく信じられていたので

インドから中国に仏教が伝わった際には

「六道輪廻するのは霊魂」と、考えられるようになった

それが、そのまま日本に伝わってきたと考えられる

 

インド仏教では、実は「霊」の存在は考えられていなかった…という事実は

中国に伝わった仏教の中では、なかなか受け入れられず

中国仏教に歴史上でも、この「霊」の存在は大問題になっていた

それは、古代中国の「霊魂観」が人々の生活の中に

長い間にわたって、根強く定着していたことから

「霊」の存在を否定していたわけではないが

そのような形で語られていないインド仏教に対して受け入れることが難しく

少し解釈を自分達の都合に合わせて変更して

中国仏教となっていたようである

波羅蜜

仏教では、大きな川を挟んでこちら側の岸を「此岸」といい

むこう側を「彼岸」という

 

こちら側の世界は「俗世」であり迷いの世界である

むこう側の世界は悟りの世界「浄土」である

 

その大きな川を渡り、悟りの世界へ行くことを仏教では大きな目標とし

この世で修行を積むのである

 

人は「大乗」か「小乗」に乗り川を渡る

「大乗」と「小乗」とは

文字通り、「大きな乗物」と「小さな乗物」ということだが

小乗は一人しか乗れない小さな船と考えていいだろう                                         

 

大乗は大きな船なので、多くの人を乗せることができる

その大きな船の船長が菩薩であると考えるとわかりやすいだろう

 

どちらにしても人が亡くなれば「彼岸」へ到達するのだが

何に乗って行くのかが大きな違いとなる

 

菩薩とは、自分だけ真理の追究を行なうのではなく

多くの迷える人々をも導き、真理を解き

誘導することも行なう崇高な魂であると言える

 

そしてその「菩薩」になるためには

六つの資格が必要である

その六つの実践科目が「六波羅蜜」である

 

「波羅蜜」は「波羅蜜多」とも書くが

この漢字に意味はなく

サンスクリット語の「パーラミター」の当て字である

パーラミターの元々の意味は「最高の状態」「究極理想の状態」と解釈されている

 

しかし中国や日本の仏教では伝統的にこれを

「彼岸へ到る行」や「さとりの世界へ到るための行」などと解釈されている

仏教で「六度」と言えば六波羅蜜のことである

その菩薩になるための条件である六波羅蜜は以下の六つである

 

1.「布施」…財施、法施、無畏施で、財産や物質を与えたり、真理の教えを説いたり、安心を与えること

2.「持戒」…戒律(ルール)を守ること

3.「忍辱」…苦難に耐え忍ぶこと

4.「精進」…たゆまず仏道を実践すること

5.「禅定」…精神を統一すること

6.「智慧(般若)」…真理を見極め、さとりを完成させること

「仏教」について

お墓を語る上で、外すことのできない事柄が宗教である

それぞれ宗教によって教えが違う…ということは

死生観も違ってきて

当然、そのお墓に対する考え方も変化してくる

 

日本は、仏教に沿って葬儀を行う場合が多い

仏教徒が多い…というよりは、自分の先祖にならって

そのまま、仏教式の葬儀を取り入れている家族が多いのではないだろうか?

日本人は、柔軟な思考の持ち主なのか…葬儀は仏教式で、結婚式は教会で牧師の前で契約を行なう人も少なくない

これは、日常的に宗教観を取り入れて生活している…というより

人生の節目には、宗教的な形を必要とする場合が多いので

その時に合わせて臨機応変に対応しているのだろう

 

しかし、宗教観というものを深く追求していけば

自分の生き方を、その宗教観に沿わせる形になるので

日常の中で無視しながら生きていくことは難しいだろう

 

日本人の多くが葬儀で取り入れている仏教にしても

(あえて、信仰しているという言葉は控える)

ひとくくりにできないほど、複雑な様相である

 

では、仏教の教え…すなわち、最終目的はどこにあるのかご存知だろうか?

仏教とは「仏と成ること」「成仏すること」を最終目的とする宗教である

人間の苦しみから解放されて、完全なやすらぎの「さとり」を得た人のことを、「仏」「ブッタ」「覚者」「如来」などと言うが

お釈迦様が目指したのは、この「さとり」を得た「仏」となることであった

 

この2500年前にお釈迦様によって説かれた宗教は

長い年月と、広い地域に広まったこともあり

解釈が変化し、宗派に分かれ、多種多様な解釈が世界に存在している

その時の社会情勢によって変化し

また、その時代の都合に合わせても変化して

自分達の解釈が正統派であると主張する宗派が数多く存在するので

同じ仏教と言っても、全く違ったものになっているのである

細かい歴史的背景の解説は別の機会にして

自分の宗派に対する教えや解釈、その歴史的背景を理解することをおすすめする

そうすると家族や親族の葬儀に望む姿勢も少し変わってくるだろう

古墳時代のお墓についての、現代人の認識

古墳時代の研究は、考古学者にとって大変魅力的なものなのだろう

さまざまな制約を考慮したとしても

やはり考古学者の関心は、庶民の墓よりも、天皇や首長といった支配者の墳墓に向いているようだ

 

そのせいなのか、マスコミの報道のありかたなのだろうか

「庶民は墓を作っていない」という暗黙の刷り込みがなされているように思う

墓は、エライ人だけに許された特権のように…

 

民俗学者の中には

日本人は死体を「汚い」「怖い」ものと考えて、お墓を作らずに野山に捨てていたと考える人もいる

 

はたしてそうなのであろうか?

 

日本の歴史や、神話を紐解いてみても

日本人の死生観は、死者に対する尊敬と感謝で満ち溢れているようにも感じる

 

季節毎の行事で死者を祭り

身近な存在として、日頃の幸福を先祖に感謝し

自分の身の存在を先祖に投影することが自然に行なわれてきたようだ

 

この日本人の本来持っている

先祖に対する崇拝する気持ちが

「穢れ」のように解釈されてしまうのには、マスコミの報道の仕方にもひとつの原因があるように思われる

 

夏に行なわれる心霊特集

ホラーの漫画や映画などでスリルと恐怖心を味わうなど

死者に対して「汚い」「怖い」というイメージを刷り込ませてしまっているのではないか?

 

このように死者を冒涜し、ないがしろにすることは

自分自身の存在否定にもなりかねない

 

「怖い」存在から、本来の「尊ぶ」存在へと認識を変化させることで

日本人が本来持っている、人間の「和」の心が浮き彫りになってくるように思われる

お墓とひとことで表すと…

 

「お墓を知っていますか?」と質問すると

当然、大多数の人々が「知っている」と答えるであろう

形、形式は様々であるが、ほとんどの人がその存在を知っている

 

しかし、質問を変えて「お墓とは何でしょうか?」と聞かれて答えられる人は少ないでしょう

「お墓は、亡くなった先祖に入ってもらう場所…」

間違ってはいないが、「お墓とは?」の問いに対する答えとしては

不完全なような気がする

 

「お墓」とは?

ひとことで言えば「シンボル」である

と言えるだろう

 

そもそもシンボルとは…

日本語で言う象徴である

憲法にも登場してくる

「天皇は日本国の象徴である」…と

 

このシンボルという言葉も難しく

あいまいで、解釈や学説も人によって様々である

 

わかりやすい例で言うと

「お金」は身近なシンボルではないだろうか?

「お金」そのものには何の価値もない

社会の共通認識として「お金」は価値のあるものだ

として存在しているから価値があるのであって

「明日から、何の価値もありません!」

という共通認識が発生すれば「お金」はだたの紙切れである

そういった意味でも、お金は「シンボル」と言えなくもない

 

「お墓」も、そのもの自身はただの石だったり、木だったりする

しかし、子孫の共通認識として

「お墓」は、先祖が眠るシンボルである-と決められているので

みんなが納得して、そこに思いをはせ

先祖の安らかな眠りを、供養を

その「石」なりに託すのである

 

「お墓はシンボルである」と考えてみると

「お墓」に対する考えが変わり

もっとシンプルに、もっと身近なものになってくるのではないだろうか?

 

宗教観を超え、神の存在も超え

自分の中に「お墓」の存在価値を見出した時

また新たな発見があることだろう

「神」もまた、「シンボル」と言えるのだから…

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